植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

◇必見!平成の築城「菱櫓・五十間長屋・橋爪門」②(ユーチューブ連動解説版)

2021-02-25 04:09:33 | #金沢いしかわ#観光


いしかわの観光スポットレポート(No.1954)

◇必見!平成の築城「菱櫓・五十間長屋・橋爪門」②(ユーチューブ連動解説版)



■写真は菱櫓・五十間長屋・橋爪門図



〇伝統的先端技術の伝承

さまざまな伝統技術の上に築かれた金沢城。これは知恵の塊、いわば、木造建築における先端技術の膨大な集積です。日本に古代建築物が多く現存するのは木造建築だったからです。我々は、これら建造物はもちろん、その伝統技術をも次の世代に引き継がなければなりません。それが伝統文化なのです。今回の工事では、職人のほとんどが石川県人です。未来の匠(たくみ)を目指して、技術の伝承を受けようと若い人材も多数参加しました。
*この模型を使って職人の勉強を行った。





■写真は木組み



〇五十間長屋

五十間長屋は武器等の倉庫。







■写真は五十間長屋から見る二の丸発掘調査と二の丸平面図、玄関図





〇五十間長屋の窓

五十間長屋の両側にたくさんの窓がありますが、この窓にもちょっとした工夫が施されています。二の丸側は1階と2階と同じ場所にあります。つまり、二の丸から見ると、縦に並んでいますが、三の丸側は、二の丸側と違って、1階と2階が互い違いにずらして造ってあります。この違いは、三の丸側は「戦」を想定して、死角ができないように交互にずらせて造ってあり、二の丸側は美観を考えてデザインされています。











■写真は橋爪門続櫓

〇橋爪門(平成27年3月復元)

橋爪門は、寛永8年(1631)の大火後に整備された二の丸の正門。高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模を誇る。「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられ、また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門。

文化五年(1808)の二の丸火災で焼失した後、文化六年(1809)に再建された姿を復元している。今回の整備では、平成13年に復元された「一の門」に続く、「二の門」と「枡形二重塀」を復元することとし、平成24年6月に工事着工、平成27年3月に完成した。





■写真は橋爪門二の門





■写真は橋爪門二の門から見る枡形と二の丸方面



〇海鼠(なまこ)壁

海鼠壁という名の由来は、平瓦相互の間にできる目地に漆喰(シックイ)を盛り上げて塗る筋塗りのその断面が、海鼠に似ているからと言われています。石川門に続く土塀や「鶴丸土塀」などのなまこ壁の内側には、鉄砲狭間(鉄砲を打つための穴)が隠されている。
海鼠壁の城は現存しているのは金沢城と新発田城のみ。



〇鉛瓦

まず、木で屋根を作りその上に、厚さ1.8mmの鉛板を張り付けます。この鉛瓦の鉛には、少量(0.06~0.08%)の銅を添加してあり、銅を添加することにより強さや硬さ、それに酸に腐食されないための耐酸性を高めます。(伝統工法)

なぜ、鉛瓦を使うようになったのかは分りませんが、江戸城にも使われており、江戸時代の古文書には、「鉛瓦を使用したのは名城の姿を壮美にするため」と書かれている。推定ですが積雪による荷重の軽減化や戦いの際の鉄砲弾丸用ともいわれている。



■写真は出土した刻石

◇金沢城関係紹介ページ

◇金沢城公園巡り1 金沢城の歴史背景

◇金沢城公園巡り9 菱櫓レポート(その1)

◇金沢城公園巡り10 菱櫓レポート(その2)

◇金沢城公園巡り12 五十間長屋レポート(その2)

(つづく)

◇必見!平成の築城「菱櫓・五十間長屋・橋爪門」①(ユーチューブ連動解説版)

◇必見!平成の築城「菱櫓・五十間長屋・橋爪門」②(ユーチューブ連動解説版)



ユーチューブ 必見!平成の築城「菱櫓・五十間長屋・橋爪門」


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