かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

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室の樹遺跡②~長者ヶ原廃寺跡周辺の遺跡(2)

2010年02月25日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
 昨日、室の樹遺跡がかなり重要な遺跡なのではないかと書きました。

 以前どこかのシンポジウムで話したことがあるのですが、kaneurikichiji はこの室の樹遺跡こそ、衣川館(ころもがわのたち)すなわち源義経の最期の場所だったのではないかと考えています。その理由はこうです。

  1.昨日も記した通り、ここにある巨石が長者ヶ原廃寺跡と同じく北上山地から運ばれていて、
   ここに礎石建物があった可能性が高いこと。

  2.(故人ですが)近所の方によれば、ここは以前畑で、何かの工事の時に人の頭ほどの
   大きさの川原石が敷き詰められていたのを見たことがあるといいます。もしかすると、苑地の
   州浜(すはま)の可能性があります。

  3.すぐ隣の家の屋号は「中島」で、周りより若干高くなっている地形(かもしくは苑地に設けられた
   中島)がその由来だと思われること。


 さて、義経最期の地として、人口に膾炙しているのは平泉町の高館(たかだち)でしょう。

 しかし、義経最期の様子を記した『吾妻鏡』という歴史書には、

   与州(義経のこと)は民部少輔基成朝臣の衣川館にあり。泰衡、兵数百騎を従え、その所に
  馳せ至りて合戦す。与州と家人などあい防ぐといえども、ことごとく以て敗績す。与州持仏堂に
  入り、まず妻・子を害し、次いで自殺す。


とあります。

 この衣川館(ころもがわのたち)が現在の平泉町高館にあったとするようになったのは江戸時代になってからで、しかも根拠があるわけではないようです。

 したがって今となってははっきりしないというのが正確です。ただ、衣川館というからには衣川地区にあるのが自然でしょうし、現に多くの中世史研究者はそのように考えています。

 一時、接待館遺跡が衣川館なのではないかと言われていましたが、少なくともここに持仏堂(そこに住む人物が毎日礼拝する仏像を安置するお堂のこと。普通は礎石建物)があった痕跡はありません。

 というわけで、kaneurikichijiは、州浜を持つ苑地と礎石建物があった可能性がある室の樹遺跡が衣川館ないしはその持仏堂なのではないかと考えています。もっとも本格的な発掘調査も行われておらず、あくまでも可能性の話ですが。

 それはともかく、室の樹遺跡には基衡の妻が仁和寺から移植したものではありませんが、今でも多くの桜が春になると見事に咲き誇ります。ぜひ、春には室の樹遺跡の桜を見に来て下さいね。


長者ヶ原廃寺跡・南門跡から室の樹遺跡を臨む。写真中央の木立の手前が遺跡です。
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