夕べは久しぶりにお湿り。多聞あれくらいじゃ直ぐに吸収されちゃうほどの乾燥状態だと思うけどね。
今朝、通勤の途中で手袋を出そうとしたら・・片方しか見つからない。あれ??
家に忘れてきたかな??なんて出勤したら・・イスの上にありました。
つまり、夕べかたら忘れていたということ。まったく今朝になって気がつくんだからね。
モスクワの空港でテロがあったとか。
kおばちゃんはモスクワの空港は利用したことがないけれど、手荷物受取場所とか。ということは、その荷物は飛行機で運ばれてきた・・か、少なくとも厳重な検査をくぐって空港に持ちこまれたと言うことですよね。
となると・・荷物検査の意味が吹っ飛んだということ。何だかね。
民族関対立のテロか、イスラム系のテロか未だわからないといっているけれども、昨年のモスクワ地下鉄テロもチェチェン関係の女性自爆犯による事件だったと思うけど、今回もそうでしょうかね?
また思い出してしまいました。この番組
前にも書いた通り、夜中にむっくり起きて偶然に見てしまった番組です。
『黒い未亡人』と呼ばれる彼女達。未亡人の名が示すとおり、一度は結婚した女性。
純潔を尊ばれるイスラム教では、彼女達のような立場になってしまったら『アッラー』のために働くことこそ偉大な行為と叩き込まれて実行するのでしょう。
何だかな。同じ女性として生まれて、そう言う考え方の環境に生まれ出なかったことを幸せに思わなきゃいけないなんてね。
いえ、『黒い未亡人』が実行したとは未だ決まってませんよ。
○12月30日(木)
さて、お腹もいっぱいになってお昼ね・・とゆきたいところですが、せっかくここ北キプロスまで来たんですからね。観光しなきゃ!
でも、kおばちゃんの本命はここからちょっと離れた場所なので、今日はちょっと無理・・とあきらめました。
その代わり・・と言うのもなんですが、kおばちゃんの滞在しているギルネGirneはこの国では結構な都会なのです。
その歴史は・・もちろん神話の世界からあります。紀元前10世紀には人の居住があったとか。
そんな中でもアルカディアArcadiaから来たケーペウスKepheusがこの町の祖とされているようです。
ですか歴史的?観光地でもあるんですよね・・手持ちのガイドブックはそれこそ2年前にキプロスを訪れたときに利用したもの。それをもって出発です。
で、とりあえず町の中心地と思われるところにパーキングが在る印がガイドブックにあえるので、それを捜してコルドバ爺を駐車です。
北キプロスも南のキプロスと同様、レンタカーは赤い色のナンバープレートで、一目瞭然です。
忘れない為に画像を撮っておきましょう。
かなり大きな駐車場です。
ここで、駐車するお客さんを見ていて・・あれ?と思いました。観光客というよりは地元の人が多いようです。
何故かというと、ここから一番近い観光地は海側にあるギルネ城Girne Kalesi- Kyrenia Castleですが、皆反対側の方向に歩いてゆきます。
kおばちゃんはとりあえずお城を目指します。でも・・そこに見えてるけど・・行く道がわかりません。
うろうろして駐車場の片隅冒頭の画像のような建造物を見つけました。
後で調べたら(いつもですが)どうもここはオスマン時代の墓地につくられているようです。
駐車場の周りをうろちょろしてやっと下に降りる道を見つけました。
城壁沿いに歩いてゆくと・・海が見えてきました。
昔のギルネ港でしょうね。お城の付け根にあります。現在はヨットハーバーのようです。
あら、港の向こう側は随分と賑やかですね。ホテルの看板が沢山見えます。
さて、本命のお城はここから登ってゆくようですね。
アラ、大変。冬場は開館時間が短いようです。急がなくっちゃ。1時間くらいしかないかしら。
受付で入場券を購入し、石橋を渡ります。石橋の下はkおばちゃんがさっき通ってきた道です。
上から海を眺めると・・結構波が高いですね。地中海性気候というやつでしょうね。
さあ、この入り口から城内へ入ります。
まだ城壁の間というところにこのような看板がありました。ビザンチンの教会?
元々このお城はビザンチンの東ローマ帝国の時代7世紀にに、アラブの覇権を得る為に造られたものが基礎になっているとか。
その後、リチャード獅子王が三回目の十字軍遠征のおり、1191年に中継地として利用したんでしょうか?自らここの皇帝であると宣言したようです。その後、彼はここをテンプル騎士団に売り払ってしまったとか。
案内板によるとここは『聖ジョージ教会』だったとかです。その当時の建造物のようです。
といっても今は昔の物語
構造物として残っているだけです。
どうも、内部のドームは英国統治下の時代に再建されたもののようです。
これが城壁内の外側です多聞こちらがビザンチンのオリジナル??なんて思うのですけど。
更に城壁内を進むと、このような案内板がありました。
青い色の部分はビザンチン時代のモノ、赤色の部分は10世紀のフランス系のリュジニャンLusignan朝時代のモノ、グレーの部分はその後のベネチア帝国時代のもの。
そして濃い青色はオスマン帝国時代のモノ、最後の茶色の部分は英国支配の時代のものだそうです。
そしてこの通路の傍らになにやら古いものがおかれています。
これは1570年にギルネを征服したオスマン帝国の提督サディックパシャSadik Pashaのお墓だそうです。
さあ、あそこをくぐれば本当の城内に入りますね。
今朝、通勤の途中で手袋を出そうとしたら・・片方しか見つからない。あれ??
家に忘れてきたかな??なんて出勤したら・・イスの上にありました。
つまり、夕べかたら忘れていたということ。まったく今朝になって気がつくんだからね。
モスクワの空港でテロがあったとか。
kおばちゃんはモスクワの空港は利用したことがないけれど、手荷物受取場所とか。ということは、その荷物は飛行機で運ばれてきた・・か、少なくとも厳重な検査をくぐって空港に持ちこまれたと言うことですよね。
となると・・荷物検査の意味が吹っ飛んだということ。何だかね。
民族関対立のテロか、イスラム系のテロか未だわからないといっているけれども、昨年のモスクワ地下鉄テロもチェチェン関係の女性自爆犯による事件だったと思うけど、今回もそうでしょうかね?
また思い出してしまいました。この番組
前にも書いた通り、夜中にむっくり起きて偶然に見てしまった番組です。
『黒い未亡人』と呼ばれる彼女達。未亡人の名が示すとおり、一度は結婚した女性。
純潔を尊ばれるイスラム教では、彼女達のような立場になってしまったら『アッラー』のために働くことこそ偉大な行為と叩き込まれて実行するのでしょう。
何だかな。同じ女性として生まれて、そう言う考え方の環境に生まれ出なかったことを幸せに思わなきゃいけないなんてね。
いえ、『黒い未亡人』が実行したとは未だ決まってませんよ。
○12月30日(木)
さて、お腹もいっぱいになってお昼ね・・とゆきたいところですが、せっかくここ北キプロスまで来たんですからね。観光しなきゃ!
でも、kおばちゃんの本命はここからちょっと離れた場所なので、今日はちょっと無理・・とあきらめました。
その代わり・・と言うのもなんですが、kおばちゃんの滞在しているギルネGirneはこの国では結構な都会なのです。
その歴史は・・もちろん神話の世界からあります。紀元前10世紀には人の居住があったとか。
そんな中でもアルカディアArcadiaから来たケーペウスKepheusがこの町の祖とされているようです。
ですか歴史的?観光地でもあるんですよね・・手持ちのガイドブックはそれこそ2年前にキプロスを訪れたときに利用したもの。それをもって出発です。
で、とりあえず町の中心地と思われるところにパーキングが在る印がガイドブックにあえるので、それを捜してコルドバ爺を駐車です。
北キプロスも南のキプロスと同様、レンタカーは赤い色のナンバープレートで、一目瞭然です。
忘れない為に画像を撮っておきましょう。
かなり大きな駐車場です。
ここで、駐車するお客さんを見ていて・・あれ?と思いました。観光客というよりは地元の人が多いようです。
何故かというと、ここから一番近い観光地は海側にあるギルネ城Girne Kalesi- Kyrenia Castleですが、皆反対側の方向に歩いてゆきます。
kおばちゃんはとりあえずお城を目指します。でも・・そこに見えてるけど・・行く道がわかりません。
うろうろして駐車場の片隅冒頭の画像のような建造物を見つけました。
後で調べたら(いつもですが)どうもここはオスマン時代の墓地につくられているようです。
駐車場の周りをうろちょろしてやっと下に降りる道を見つけました。
城壁沿いに歩いてゆくと・・海が見えてきました。
昔のギルネ港でしょうね。お城の付け根にあります。現在はヨットハーバーのようです。
あら、港の向こう側は随分と賑やかですね。ホテルの看板が沢山見えます。
さて、本命のお城はここから登ってゆくようですね。
アラ、大変。冬場は開館時間が短いようです。急がなくっちゃ。1時間くらいしかないかしら。
受付で入場券を購入し、石橋を渡ります。石橋の下はkおばちゃんがさっき通ってきた道です。
上から海を眺めると・・結構波が高いですね。地中海性気候というやつでしょうね。
さあ、この入り口から城内へ入ります。
まだ城壁の間というところにこのような看板がありました。ビザンチンの教会?
元々このお城はビザンチンの東ローマ帝国の時代7世紀にに、アラブの覇権を得る為に造られたものが基礎になっているとか。
その後、リチャード獅子王が三回目の十字軍遠征のおり、1191年に中継地として利用したんでしょうか?自らここの皇帝であると宣言したようです。その後、彼はここをテンプル騎士団に売り払ってしまったとか。
案内板によるとここは『聖ジョージ教会』だったとかです。その当時の建造物のようです。
といっても今は昔の物語
構造物として残っているだけです。
どうも、内部のドームは英国統治下の時代に再建されたもののようです。
これが城壁内の外側です多聞こちらがビザンチンのオリジナル??なんて思うのですけど。
更に城壁内を進むと、このような案内板がありました。
青い色の部分はビザンチン時代のモノ、赤色の部分は10世紀のフランス系のリュジニャンLusignan朝時代のモノ、グレーの部分はその後のベネチア帝国時代のもの。
そして濃い青色はオスマン帝国時代のモノ、最後の茶色の部分は英国支配の時代のものだそうです。
そしてこの通路の傍らになにやら古いものがおかれています。
これは1570年にギルネを征服したオスマン帝国の提督サディックパシャSadik Pashaのお墓だそうです。
さあ、あそこをくぐれば本当の城内に入りますね。