喉元過ぎればなんとやら……。
もう、多くの人は地震も津波も忘れはじめている。
いや、むしろ人間という生き物は、忘れるようにできているといった方が良いかもしれない。
忘れることが、当たり前のことなのだ。
忘れなければ生きていけないと言い換えても良いかもしれない。
とはいっても、忘れてしまうことの恐ろしさは、実は人間が一番よく分かっているわけで、忘れることは当たり前ではあるけれど、忘れる前に次の世代にしっかりと伝える作業をしなければいけないとは思う。
ところが次の世代はすでに、実体験を伴わないから言葉だけで理解し受け継ごうとする。言葉は空洞化し、実の伴わない、痛みや苦悩もないぺらぺらの伝達書のようなものを受け継ぐ形になっていく。
戦争体験などは明らかにそうだ。すでに戦争の恐ろしさを知っている者はこの日本にはほとんどいないし、世界にも紛争地帯の人々以外にはいない。この事実が、実は再び戦争を招く。なにしろ戦争の恐ろしさも痛みも、実は理解できない世代が大半を占めているのだから。
これはなんでもそうなのだが、次の世代に受け継ぐと言うことがどれほど至難の業か、誰でも知っている。
善きことも悪しきことも、どれほど伝え難いか!
よく言われるのが、会社の創業者とその跡継ぎ。二代目は創業者の苦労も多少は理解できるから多くの場合「専守防衛」的なスタンスで会社を守り抜く。だが三代目は、苦労も知らず多くの場合会社を潰し、傾かせる。
要は、肝心なもの、大切なことが喉元を過ぎてしまったわけだ。
地震、戦争、会社の経営はまるで無関係のことだけれど、この「喉元過ぎれば~」という「律」は同様に働く。
だからボクらは、伝えることの大事さをどんなモチーフであれ、常に自覚し続けなければならないのだ。喉元を過ぎる前に、喉に手を突っ込んで引きずり出してでも、人々に実記憶として引き継いでもらわなければならない。
どんな些細なことどももだ。
だからもの書きは、自分の喉元を「鵜飼の海鵜」のように縛り上げ、物事が喉元過ぎ去ることを拒絶し、どれほど貧しくとも生き残り、書き続けなければならないのだ。
もう、多くの人は地震も津波も忘れはじめている。
いや、むしろ人間という生き物は、忘れるようにできているといった方が良いかもしれない。
忘れることが、当たり前のことなのだ。
忘れなければ生きていけないと言い換えても良いかもしれない。
とはいっても、忘れてしまうことの恐ろしさは、実は人間が一番よく分かっているわけで、忘れることは当たり前ではあるけれど、忘れる前に次の世代にしっかりと伝える作業をしなければいけないとは思う。
ところが次の世代はすでに、実体験を伴わないから言葉だけで理解し受け継ごうとする。言葉は空洞化し、実の伴わない、痛みや苦悩もないぺらぺらの伝達書のようなものを受け継ぐ形になっていく。
戦争体験などは明らかにそうだ。すでに戦争の恐ろしさを知っている者はこの日本にはほとんどいないし、世界にも紛争地帯の人々以外にはいない。この事実が、実は再び戦争を招く。なにしろ戦争の恐ろしさも痛みも、実は理解できない世代が大半を占めているのだから。
これはなんでもそうなのだが、次の世代に受け継ぐと言うことがどれほど至難の業か、誰でも知っている。
善きことも悪しきことも、どれほど伝え難いか!
よく言われるのが、会社の創業者とその跡継ぎ。二代目は創業者の苦労も多少は理解できるから多くの場合「専守防衛」的なスタンスで会社を守り抜く。だが三代目は、苦労も知らず多くの場合会社を潰し、傾かせる。
要は、肝心なもの、大切なことが喉元を過ぎてしまったわけだ。
地震、戦争、会社の経営はまるで無関係のことだけれど、この「喉元過ぎれば~」という「律」は同様に働く。
だからボクらは、伝えることの大事さをどんなモチーフであれ、常に自覚し続けなければならないのだ。喉元を過ぎる前に、喉に手を突っ込んで引きずり出してでも、人々に実記憶として引き継いでもらわなければならない。
どんな些細なことどももだ。
だからもの書きは、自分の喉元を「鵜飼の海鵜」のように縛り上げ、物事が喉元過ぎ去ることを拒絶し、どれほど貧しくとも生き残り、書き続けなければならないのだ。