世界中から、無差別殺人のニュースが聞こえてくる。
例を挙げるのも煩雑で嫌になるほどだ。
シリア、クリミヤ半島、新疆ウィグル自治区などに端を発するそれは、極めてポリティカルで、はっきりした動機があるように思えるが、それ以外の中国、アメリカやヨーロッパ、そして日本でのそれは、詳細は不明だが動機らしい動機もない。
「殺したいから殺す」と言われて殺されるのは、あまりの不条理に殺される側としては、どうにも納得がいかない。
最悪の結果にならなくてまったくよかったが、AKBの握手会でのノコギリ男の蛮行は、犯人の意識は、あたかも何者かにコントロールされているのではないかと思えるほど、男を通しては、何一つ鮮明に見えるものがない。
「誰でもよかった」という言葉には、動機を裏付ける何の糸口も見つけられない。
言い方を変えれば、殺意は溢れるほどあるが、殺意を向ける対象を見つけられなかったということになるが、その溢れるほどの殺意は、どこから生まれたモノなのか?
根拠のない殺意は、どこから生まれてくるのだろうか?
誰でも、生涯に一度くらいは「殺してやりたい」相手に巡り合うことはあるだろう。具体的な相手がいないとしても、理不尽な出来事、例えばセオウル号の沈没事件の報道を見ていて、意味もない殺意が湧き上がった人もいるかもしれない。
だがそうした意味のない殺意は、妄想のものであって、具体的な殺意を完遂するための端緒・プロセスにはならない。それ以前に自制がある。
だがその自制というバリアが、あっけなく外れるシチュエーションがないとは言えない。
戦争だ。
一つだけ思い当たるのは、少し荒唐無稽なことかもしれないが、そうした殺意のコントロールができない、する術を知らない人間が多くなっているのは確かだということ。理由は、何者かの意志で、敢えて誰も教えなかった、伝えなかった、教育しなかったということなのではないか? ということ。
逆に言えば、そうした人間をむしろ積極的に作り出す環境を整えているのではないかということ。それぞれにトリガーは違うのだろうが、何かに触発された瞬間に、殺意というヒキガネを容易に引くことのできる人間が、敢えて生み出されているのではないか? ということ。
無差別殺人などに対しても、精神病理学的・社会病理学的な考察もかつてほどには行われなくなった。異常な出来事も、案外普通のことととしてスルーされる。
要するに、悪いのはその犯人だけという単純化が行われていて、人が人を殺すことに対して、誰も彼もが昭和の時代ほどには興味を失っている。
これは、本当は恐ろしく怖いことなのだが……。戦争が近いのかもしれない……などと穿った見方をしてしまいそうで、それも怖い。
ノコギリ男に、例えば戦争という、殺意を具体的に発揮できる場・方向性を与えれば、良い兵士になるだろうと、何時か誰かが考え、初めはやんわりとだが言い出しそうな気がして仕方ないのだ。
例を挙げるのも煩雑で嫌になるほどだ。
シリア、クリミヤ半島、新疆ウィグル自治区などに端を発するそれは、極めてポリティカルで、はっきりした動機があるように思えるが、それ以外の中国、アメリカやヨーロッパ、そして日本でのそれは、詳細は不明だが動機らしい動機もない。
「殺したいから殺す」と言われて殺されるのは、あまりの不条理に殺される側としては、どうにも納得がいかない。
最悪の結果にならなくてまったくよかったが、AKBの握手会でのノコギリ男の蛮行は、犯人の意識は、あたかも何者かにコントロールされているのではないかと思えるほど、男を通しては、何一つ鮮明に見えるものがない。
「誰でもよかった」という言葉には、動機を裏付ける何の糸口も見つけられない。
言い方を変えれば、殺意は溢れるほどあるが、殺意を向ける対象を見つけられなかったということになるが、その溢れるほどの殺意は、どこから生まれたモノなのか?
根拠のない殺意は、どこから生まれてくるのだろうか?
誰でも、生涯に一度くらいは「殺してやりたい」相手に巡り合うことはあるだろう。具体的な相手がいないとしても、理不尽な出来事、例えばセオウル号の沈没事件の報道を見ていて、意味もない殺意が湧き上がった人もいるかもしれない。
だがそうした意味のない殺意は、妄想のものであって、具体的な殺意を完遂するための端緒・プロセスにはならない。それ以前に自制がある。
だがその自制というバリアが、あっけなく外れるシチュエーションがないとは言えない。
戦争だ。
一つだけ思い当たるのは、少し荒唐無稽なことかもしれないが、そうした殺意のコントロールができない、する術を知らない人間が多くなっているのは確かだということ。理由は、何者かの意志で、敢えて誰も教えなかった、伝えなかった、教育しなかったということなのではないか? ということ。
逆に言えば、そうした人間をむしろ積極的に作り出す環境を整えているのではないかということ。それぞれにトリガーは違うのだろうが、何かに触発された瞬間に、殺意というヒキガネを容易に引くことのできる人間が、敢えて生み出されているのではないか? ということ。
無差別殺人などに対しても、精神病理学的・社会病理学的な考察もかつてほどには行われなくなった。異常な出来事も、案外普通のことととしてスルーされる。
要するに、悪いのはその犯人だけという単純化が行われていて、人が人を殺すことに対して、誰も彼もが昭和の時代ほどには興味を失っている。
これは、本当は恐ろしく怖いことなのだが……。戦争が近いのかもしれない……などと穿った見方をしてしまいそうで、それも怖い。
ノコギリ男に、例えば戦争という、殺意を具体的に発揮できる場・方向性を与えれば、良い兵士になるだろうと、何時か誰かが考え、初めはやんわりとだが言い出しそうな気がして仕方ないのだ。