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東京「昭和な」百物語<その43>「VAN」ブランド

2018-07-05 01:19:26 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和のブランドって、なんだったろうか?

真っ先に思い浮かぶのは、メンズの「JUN」と「VAN」だ。

ことに「VAN」は、昭和30年代からメンズファッションの地平を切り開き、アメリカ東海岸のアイビーリーガー(東京六大学みたいなもので、8つの私立大学のスポーツ連盟のようなもの)ファッションを提唱して、一大ブームを巻き起こした。

以前にもどこかで書いたが、銀座のみゆき通りにたむろしたみゆき族は、「VAN」や「JUN」の濃い目のセピアカラー(黄銅色と言った方が良いかもしれない)の紙袋を小脇に抱え、ローファーにコッパンといういでたちでうろつきまわっていた。

みゆき族は、ちょうど東京オリンピックの前頃に全盛を極め、警察が風紀粛清の旗印でみゆき族を補導したなどというバカげた逸話も残っている。ボクもみゆき通りには中坊の分際で時々足を運んだ。タイミングが合っていたら、確実に補導されただろう、と思う。紙袋を持ってただ歩きまわる少年が、どんな程度に風紀を紊乱させたのか、知りたいものだが、時代が時代だったと言うしかない。

「VAN」の創業者・石津謙介さんとは、だいぶ後になってご自宅でお話を伺う機会があった。

原宿だったか青山だったかの、それこそアイビーの葉に覆われた瀟洒な一軒家だった。

2000年に他界されたが、お話を伺ったのはその数年前、「VAN」は78年に倒産していたが、日本のメンズファッションに対する思いは強く、再建(「VAN」ブランドの、と言うのではなく、メンズファッションそのもの)に対して意気軒高であったと記憶する。

そして、これもどこかで書いたがジーンズの「LEE」。原宿の表参道交差点に掲げられた「LEE」の看板は、長い間原宿のシンボルであり、ボクのようなファッションにはからきし疎い者にとっても強烈なシンボルだった。

実は、昭和40年代から50年代にかけて、日本の若者ファッションは大いに様変わりする。

そのバックグラウンドは「フリー(自由)」という概念だった。髪の長さはナチュラルに長くすることもありで、もちろん五厘刈りも、パンチパーマも、オールバックも、坊主も七三分けもありという時代だった。若者の気分が「はみ出し」始めた頃だったのだ。人と違うことをする方がカッコいい時代が到来したのだ。

そうした「自由」の受け皿の一つが、ファッションでは「VAN」や「JUN」だったのだ。

その頃人気の喜劇役者に伴淳三郎という方がいた。

この方の通称は「バンジュン」と言った。

ボクの頭の中で「VAN「JUN」という最先端のファッションブランドが、喜劇役者「バンジュン」となぜか切り離せなかったが、同じような気分だった人もきっといたはずだと、確信している。