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東京「昭和な」百物語<その44>公団住宅

2018-07-07 01:27:27 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクが小学校3年生の冬、それまで暮らしていた上板橋から荻窪へと移り住んだ。

荻窪の公団住宅に引っ越したのだ。

昭和33年の冬だったと記憶している。朝、それまで暮らしていた上板橋のハモニカ長屋を出て、越境入学をして通っていた文京区の窪町小学校へ出向き、同級生に別れを告げ、帰りは荻窪へと向かった。

昭和30年代にできた公団住宅は、間取りはほぼどこも同じようなもので、6畳と4畳半の畳の部屋に4畳半程度のキッチン、それにサービスルームのような3畳くらいの部屋がある3k、あるいは3畳のない2k、そんな間取りだった。もちろん狭い。

それでも親子4人であれば、充分に生活できた。

しかも、公団住宅はある種の文化圏を作るほどにインテリ、ホワイトカラーが集まった。言ってみれば時代の最先端を行く住環境エリアだったのだ。

各家庭に電話が入った。簡単にいえば内線電話だ。当初は電話の交換手が常駐していた。荻窪公団住宅の電話番号は一つで、そこから各部屋に割り振られた部屋番の電話につなぐシステム。

これも瞬く間に個別の電話にとって代わられた。当初はダイヤルもない黒電話だったが、数年で個人所有のダイヤル式黒電話になった。

荻窪団地は荻窪駅から歩けば15分はかかる距離にあった。800世帯3000人近い居住エリアからの要請を受け、地域のバス運行会社・関東バスは新路線を作らざるを得なかった。当初はしぶしぶだったが、やがて地域で唯一の黒字路線は荻窪駅~荻窪団地路線だけになった。

いまから考えれば、狭いは不便だはで「ありえない!」ということになるのだろうが、そこはステイタスすら生むほどの住環境だった。

もっと言えば、次に持ち家を手に入れるための勢いのあるステップ台として、公団住宅に住んでいた人が多かった。

公団住宅の近隣にはスーパーのような店舗や、魚屋、八百屋、肉屋、クリーニング店、蕎麦屋、ラーメン屋、床屋に病院と、そこそこにそのエリアの中で過不足なく生活できる環境も整っていった。

だが、公団住宅はやがて、ステップ台として住まっていた人々が思惑通りに持ち家を手にし離れていくと、ある種、負の空気が漂い始める。まるで次のステップに生き損ねた、負け組の住まうエリアの様になっていくのだ。

世間的にも負のイメージが浸透していく。高齢化も進んでいく。

隆盛を極めたのは、ほんの10年程度だったろう。

親子4人が喜んで充分に暮らせたスペースは、まるでウサギ小屋のように狭い劣悪な住環境のように言われるようになる。

確かに、狭い住スペースだったが、人間関係は濃密だった。もちろん没交渉を決め込むなど様々な人が居はしたが、基本は縦横斜めの人間関係が成立していた。

だがそれとても、前述の通り10年から15年程度で下火になっていく。

高齢化が始まり、建設されて30年も経った昭和の終わり頃には、あちこちの部屋から居住者が立ち去り、そのまま歯抜けのように人気(ひとけ)のない部屋が増え、歩くこともおぼつかない高齢者が、エレベータもない階段を必死で上り下りする姿が見られるようになった。人間関係云々どころの騒ぎではない。

周辺の商店も疲弊し始め、閉店する店が続く。

昭和30年代に建てられた公団住宅の末路は、どこも同じようなものだったろう。もうほとんどがモダンな装いを施され、建て替えられているはずだ。一部屋の広さもボクの住まっていた頃の4、5倍はあるだろう。

ボクは10年ほどで家を出た。総和44年には独り暮らし(本当は二人暮らし!)を始めた。

それでも、荻窪の公団住宅は、ある意味ボクの故郷に違いない。帰る場所はどこにもないけれど。