河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

吉備リハ時代の林原の思い出

2011-01-27 | 医学・医療
昨日、新聞で経営危機が伝えられた林原であるが、以前カンブリア宮殿でも取り上げられたことがある。
その内容は非常におもしろいものであった。

以下、引用。
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1883年岡山市で創業。水あめの生産から始まった。甘味料不足で、1950年には水あめ生産で日本一になった。そのときの社長が林原一郎。健の父である。ところがガンで53歳で死去し、慶応大学の学生だった健が19歳で社長に就任。
会社は大混乱していた。親戚で遺産相続が争われ、砂糖やブドウ糖の生産によって水あめは売れなくなっていた。累積赤字も増加。4代目は水あめをやめてでんぷんの研究開発に取り組んだ。この狙いは当たり、マルトースの抽出に成功し、1973年にはプルラン、1979年にはインターフェロンなど、今では5000以上の特許を持つ会社に成長した。
5つ年下の弟の靖も会社に入り、営業畑で協力している。
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私は昭和62年4月に吉備高原に新しくできた吉備高原医療リハビリテーションセンターに医局人事で赴任したが、ちょうど同じ頃、吉備高原に林原のインターフェロン生産のための工場ができた。
工場の詳細はよく知らないが、何でもマウスをたくさん飼育してインターフェロンを作るのだと聞いていた。
上司が産業医としてその工場に行き、そこのランチの豪華なことにびっくりしたとのことだった。
何でもどこかの高級ホテルのシェフを雇い、毎食フランス料理が出るのだとか。
そんな豪華なランチならいつか食べてみたいと思っていたがそのチャンスはなかった。
たまにその工場で働く職員が、何らかの病気やけがで外来を受診してくることがあったが、その時ランチのことを尋ねてみると、意外なことに毎日フランス料理を食べているといい加減飽きてくるのだそうだ。
林原ならではの贅沢な悩みだと思ったが、今はそのランチはどうなっているのだろうか。
コメント
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