2019/5/26 マタイ伝9章9-13節「神はともにいる王 マタイ伝」
今月の一書説教として、マタイの福音書をお話しします。新約聖書の第一巻、最初に開かれる書。しかしご存じのように、その最初がアブラハムからダビデ、バビロン捕囚と名前が延々と綴られる系図です。聖書を読む気が失せて閉じてしまう人もいるでしょう。ぜひ、それで躓くより、そこは飛ばしていいので、読み続けていただきたい。そして、新約を読み終わったら、今度は旧約の最初から読み始めたらよいでしょう。そこでも読み慣れない所は飛ばしてでも何とか最後まで読んで、もう一度、新約を開いてください。そうしたら、読んできた旧約の人物がマタイ一章の系図に出て来て、旧約と新約が繋がっていることを実感するのです。
マタイの福音書が、新約聖書の最初に置かれているのは、旧約と新約との繋がりが最もハッキリしているからでしょう。旧約の歴史がアブラハムからモーセ、ダビデと続いてきて、長い間掛けて神の契約が現されてきました。同時に、旧約聖書が示すのは、人間の醜さや裏切り、暴力や悲しみの現実です。そうした出来事を思い出させるのが、マタイの最初の系図です[1]。そして、そのような歴史の末にイエス・キリストがおいでになったことが語られます。マタイの福音書そのものが、旧約の民の子孫、ユダヤ人を読者として想定して書かれています。本文にも旧約聖書の言葉が沢山、他の三つの福音書より多数引用されていますし、旧約の預言がイエスの御生涯によって「成就した」という言葉も沢山出て来るのが特徴です。
イエスは、今から二千年前の時代に突然現れた聖人・偉人ではありません。旧約の二千年以上の歴史を通じて、ずっと待ち望まれてきたメシア、神が遣わしてくださる本当の王。その事が、旧約聖書との繋がりを強調するマタイの福音書を通して伝わってくるのです。それは、偉大すぎて近寄りがたいメシアではありません。この福音書の中で、繰り返し語られるのは、
1:23「その名はインマヌエルと呼ばれる。」…「神が私たちとともにおられる」
18:20二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいる…。
28:20「…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
一章でも最後の二八章でも、
「ともにいます」
という言葉が出て来ます。神は私たちとともにおられる。イエスはそれを体現された神の御子であり、そう約束なさったのです。それも、旧約の歴史が、神の民とされたイスラエル人がどんどん転がり落ちてしまって、見る影もない所に、イエスは王としておいでになりました。人間の罪が明らかになっている所に、イエスは
「ご自分の民をその罪からお救いになる」
お方として来られたのです[2]。それは、他ならぬこの福音書の記者、マタイ自身の体験したイエスとの出会いだったに違いありません。今日の、
9:9イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。
収税所とは、当時のユダヤを治めていたローマ帝国が置いた事務所です。マタイは、同胞のユダヤ人から憎い敵のローマ帝国のために重税を搾り取る片棒を担いでいました。ローマ兵の威圧感を後ろ盾に、ユダヤ人から金を取り、その中から自分の取り分も集めて、裕福な暮らしもしていたかもしれません。ですが、孤独でした。ユダヤ社会では「取税人と罪人」と並ぶような扱いをされる、売国奴、呪われた人生を送っている奴と見なされていました。しかし、イエスは収税所に座って仕事をしていたマタイを見て「わたしについて来なさい」と言います。マタイの生き方を責めたり、通り過ぎたりせず、「わたしに着いてきなさい」と言われた。それはマタイがどれほど驚いた呼びかけだったでしょう。そしてマタイは取税人の仕事を捨てて、イエスに従う人生を選んだのです。それぐらいイエスの呼びかけは衝撃的でした。
この出来事の前にはずっとイエスの奇蹟が伝えられています。8章では重い病気の癒やしや、船に乗っては嵐に襲われてもイエスが風と湖を叱りつけて鎮めたり、悪霊に憑かれた人から大勢の悪霊を追い出したりした出来事が綴られます。イエスの力は凄いなぁと思うのですが、その華々しい出来事の流れに、取税人マタイとの出会いがあるのです。これは、マタイが参考にしたマルコの福音書の流れに沿ったものではありますが[3]、そこにマタイが(恐らくは)自分の名前を明記して「マタイという人が」と書いたのだとすると、それはイエスが自分に声をかけてくださったことが奇蹟中の奇蹟だと言いたいのではないでしょうか。イエスが自分を呼んで下さった。新しい人生を下さった。イエスは、私にも声をかけてくださったお方。私に一緒にいることを求め、世の終わりまでともにいると約束してくださった方。そのイエスが神の子であって、神ご自身が私とともにいる神なのだと、イエスを通して、マタイは知って、人生が変えられる奇蹟が起きたのです。それは、当時のユダヤでは冒涜とも見なされました。10節でイエスがマタイたちと一緒に食事をしています。取税人や罪人と呼ばれた社会の除け者たちが大勢来ていました。それ自体あり得ないことでした。だから11節で、禁欲的に真面目に神の掟を厳格に生きようとしていたパリサイ人たちは、「なぜあなたがたの先生は」と非難をするのです。あんな奴らと一緒に食事をするなんて、と言うのです。
12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
13『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです[4]。
イエスにはマタイも取税人も「罪人」も、無価値でダメな存在ではなく、大切な存在でした。神は正しい人を喜ぶのではなく、すべての人を真実に愛することを喜ばれます。罪人のためにこそ、神から犠牲を惜しまず、近づいて癒やしてくださるのです。私も高校の時この言葉で人生が変わりました。パリサイ人やユダヤ社会、現代の私たちや教会も「神が求めるのは正しい生き方で、正しくない生き方をする者を神は裁かれる」と考えます。その発想がある限り、真実の愛よりも評価や軽蔑や上下関係が生まれます。「ユダヤ人は敬虔で、異邦人は呪われている。ユダヤ人でも、取税人はダメ、律法に従えない人は罪人」。生まれや行いや何かで、人の価値に上下を付けて安心しようとするのです。そんな考えをイエスは悉(ことごと)く覆(くつがえ)します。説教でも譬え話でも、イエスは当時の理解に挑戦します[5]。マタイが繰り返す言葉の一つは
「最も小さな者のひとり」
です。人の社会の中で「最も小さな者」と蔑んでいるような、その一人に神は目を留めておられる。そしてイエスは最も小さな人の一人になります。病気を癒やし、嵐も鎮め、奇蹟を起こす権威を持ちながら、しかしその力で社会を引っ繰り返すよりも、最も小さな者、貶められて阻害されている人の友となり、小さな一人となって殺される道を選ばれました。それが、イエスという王の示した道でした。「真実の愛」をもって、誰一人として蔑まず、ともにいてくださる王。そして、そのようなイエスのお姿そのものが、マタイを変え、神の御業の始まりになり、ユダヤ人から始まる「神の国」の広がりになっていくのです。マタイは、イエスがまずユダヤ人に語ったことを伝えながら、いつも、周りにはユダヤ人以外の異邦人の存在にも目を向けさせます。ユダヤ人より純粋な礼拝者の東方からの博士たち[6]、イエスも驚く程の信仰を持つ百人隊長[7]、ユダヤ人よりも熱心に求めるツロ・フェニキアの母親[8]、十字架の下で「この方は本当に神の子だった」と告白したローマ兵[9]。そして、最後は28章で、
18イエスは…「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…
と全世界へと派遣されるのです。そのイエスの派遣によって、マタイも弟子たちもイエスのあわれみを伝えました。その末に、今私たちもここでイエスの福音を聞いています。私たちもここで、イエスがこの私をも招いてくださって、いつまでもともにいると約束されているのです。
「マタイを召された主よ。王であるあなたは、病人や罪人の私たちを救うため、神の民として生き返らせるため、この世界に来て、最も小さくなってくださいました。この驚きと感謝が込められたマタイの福音書を与えてくださり有難うございます。どうぞ私たちの歩みや私たちの心にも語りかけ、働きかけて、小さい一人を愛するあなたの御国をこの地に拡大してください」
[1] 一章の系図、四人の女性は、男性側の暴力に巻き込まれた面が大きい。しかも全員が、ダビデ以前。理想化されたダビデだが、曰く付きの面をマタイは抑える。しかし、それはダビデを非難するためでなく、そうした問題ある過去を抱えたダビデと、イスラエルの末に、イエスが王として来られたことが福音書に展開される。
[2] マタイ一21~23「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」
[3] マタイとマルコとルカの福音書は、内容に共通するものが多いことから「共観福音書」と呼ばれます。中でもマルコが最初に福音書を書き、それをマタイとルカが参考に、アレンジしつつ書き写したと考えるのが、新約聖書の編纂史についての主流の理解です。これに、マタイとルカとが共通して参考にした「Q資料」というものがある、という学説も根強くありますが、それについては異論もあり、私もこの点は断定しなくてよいと考えます。まして、「Q資料」の復元などは不可能だと考えています。
[4] この「真実の愛」とは直訳すると「あわれみ」という言葉ですが、元々の引用されたホセア書の言葉が「真実の愛」でした。この事に関しては、「受難週「棕櫚の主日」礼拝 マタイ26章36~46節「イエスの祈り」」でお話ししました。ご参考に。
[5] マタイの特徴の一つは、「説教集」でもあることです。いずれも「イエスがこれらの言葉を語り終えると」で結ばれる五つの説教集は、5~7章「山上の説教」、10~11:1「派遣の説教」、13章「天の御国の譬え」、18:1-19:1「弟子たちの交わりの問題」、24-25章「終末について」(パリサイ人の偽善の23章は前置き)です。マタイ全体が、小さい者への光とともに、当局の「権力者」への批判で貫かれており、それ自体が、イエスがどのような王であるかを示している。5つの説教集もそこに向けています。特に、第五説教集の導入と言える23章はその面が強烈です。
[6] マタイ2章。
[7] マタイ8章5節以下。
[8] マタイ15章21節以下。
[9] マタイ27章54節「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」
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