人は誰しも、諍いや争いなどのトラブルを嫌うのではないでしょうか。
そのトラブルの多くは、ちょっとした言動が原因であったり、それが契機となって人間関係がこじれたりしているようです。
かねてより、【心 de 経営】ということを基本に、永年コンサルティングをして参りました。「de」は、フランス語の前置詞で、英語にしますと「of」に近い意味合いであり用法であると認識しています。
「de」を、英語の「of」の意味で用いますと「心 of 経営」、すなわち「経営”の”心」となります。「de」を、そのまま、日本語の「で」に置き換えますと「心で経営」となります。
ここでは、後者の「心で経営」に重点をおいて、経営に限らず、人間関係における「心づかいのあり方」を、平素の体験から感じるがままにを徒然に記述してまいります。それにしても、他人に優しくするには、自分に厳しくなければならないことを痛感しています。
期せずして日本経営士協会理事長の藤原久子先生も、心を大切にすることを常々口にされています。理事長とお話している中で出てきたことを中心にまとめています。ある意味では、藤原理事長との合作といえるブログです。
物事や人の心には多面性があります。お届けするブログが正論であるか否かは、皆様のご判断にお任せしますが、参考にして下さいますと幸いです。
■8 ぼろを着てても心は錦?
老師小話に「被褐懐玉(ひかつかいぎょく)」という四字熟語があります。「被」は、「着る」とか「まとう」という意味です。「褐」は「みすぼらしく粗末な衣服」のことです。「懐」は「ふところ」、「玉」は「宝石など高貴な石」という意味です。
すなわち「着ているものはみすぼらしくても、懐には玉(宝石)を抱いている」、ということから、うわべは粗末なものを着ていても、内面は熱く優れた人徳を持っている人間でありたいという意味で使われます。
星野鉄郎作詞の「いっぽんどっこの唄」を水前寺清子が「ぼろは看ててもこころの錦」とうたっているのも被褐懐玉からきているのでしょう。
作曲した安藤実親の曲もまた素晴らしいですね。日本人の心に、何か響くところがあります。
ところが、かっこいいなと思っていたら、この歌の二番は、持てない男の恋の歌であることが解ります。
表面を見ただけでは、その中身や価値はわからないものです。
私は、アメリカで学んだり、仕事をしたりした経験があります。
ある日、ホテルのレストランでお客様と昼食をとりました。何日か滞在していましたので、レストランの人が私を覚えてくれていて、私のことを名前で呼んでくれるまでになりました。
夜、疲れましたので、外に食事に行くのが億劫で、ホテルのレストランに行きました。リラックスした格好で行ったのと、レストランの担当が日中と夜とでは異なっていたため、私が、そのホテルに何日も滞在している客だということを知らない人であったことから、アメリカ人のいない、入口近くのテーブルに案内されました。
応対も粗雑なだけではなく、メニューを持ってくるまで数十分、諸事をオーダーしてから延々と待たされました。当時は、1ドルが360円の固定相場制の時代で、日本人は「カラード(有色人種」という冷たい目で見られることが多かったのです。
日中は、背広と着て、ネクタイを締めていましたので、それなりの対応でしたが、ディナータイムは、ドレスアップをしていなかったためにこのようなことなってしまったと反省しました。
どこの国でも「ファーストインプレッション(第一印象)」は大事です。アメリカのビジネスパーソンの間では「There is no second impression.(第一印象第一)」という表現がありますので、「できそうな人」という外見も重要なのです。
私の知っているある経営コンサルタントは、男性ですが、講師として登壇する前には、必ず手洗いに行き、ネクタイの締め直しと整髪とを行い、後ろ姿も鏡で確認するようにしているそうです。担当者がいれば、担当者にもチェックをお願いするほど、細やかなチェックを行っています。
また、その人は、歩く姿勢に注意を払っているそうです。登壇前に、両腕を体側に下げ、肘から下を前方水平にあげ、目をつむり、深呼吸をします。なぜかと聞きましたら、姿勢を正すことと、心を落ち着けるためなのだと笑って話しくれました。
背筋を伸ばし、首が前に出ないように胸を張って、笑顔で登壇する、その人の姿は「できる人」というオーラに溢れています。
ちょっとした心づかいで、印象が大きく異なるのですね。
着ているものはボロでも心の中は錦を着ているように気高くありなさいという、この教えは大切ですが、高価なものではないまでも、清潔な容姿と姿勢は重要ですね。
(ドアノブ)