孫が年末にやってくるというので、あれこれと準備していたものがある。
その中の一つがこのミッキーマウス。某メーカーとタイアップして作られたものらしい。生地がチェック柄だったり、普通のミッキーとは違う感じだったが、ミッキーマウスだから喜ぶかと思って孫のパジャマを買うときに一緒に買っておいた。
久しぶりの孫にこのミッキーマウスを出して見せた。
だが、反応が芳しくない。手に取ってみようとしない。それよりもテディベアの大小の方に手を出していた。娘曰く「ミッキーの色じゃないからミッキーだと思っていないんじゃないの」という。
そうなのか!
形だけ同じだったらいいかと思うわたし、浅はかだねぇ。
まぁ仕方がない。孫に振り向かれなくてもわたしが可愛がってあげるよ(笑)。ということで、孫が帰った後も棚の中に鎮座。これはこれですっきりしていて好きなんだけどねぇ。
こんな風にわたしが勝手にこんなものが好きなんじゃないかと用意しても相手が興味を示さないということは多々ある。何かを用意する、それが物だったりシチュエーションだったり、本や言葉だったり、相手のことを考えて用意するのだけど、全然伝わらなかったりすることもあるのだ。それは相手のことを深く考えているわたし、という設定におぼれてしまい、単なる自己満足となってしまっているのだろう。
こういうときにきめ細かく相手のことを考えることができる能力? を持っていると幸いだ。
わたしにはどうもそこのところが足りないようだ。自己満足で行動をする、それがこれまでも多かったように思う。自己満足で行動すると、相手の反応がいまいちだとかなりへこむ。それは相手の気持ちどうのこうのよりも、相手に自分のことを認めてもらいたいという気持ちが強いからだと思う。
誰かに認められたい、そのために何かをする。その何かが意に介さぬことであっても行動する、果たしてそれでいいのだろうか。わたしの数十年前は、認められたいということから始まったように思う。どんなに働いてもそれでいいということがなかった。自分の方がずっと働いているのだという意識が相手にあれば、わたしの働きなどとるに足らないものと映ったのかもしれない。今となってはその本意を探ることはできないが。
馬車馬のごとく働いた…… などと言えないが、一日中動き回っていた時期がある。その間、子どもたちはほったらかし状態だったろう。今となっては釈明の言葉も出ない。
人は誰かの上に立つものではない。皆、同じだと思いたい。だが、その頃のわたしにとっては自分と同等ではない人間がいて全てがその人間中心であった。そんな時代を振り返るたびにわたしの弱さを思う。弱さゆえに子供たちに辛さを与えたと。
※※※
ブログを回っていたときに、「今が一番円熟」だと言う言葉に出会った。自分が生きている今このときが自分の人生の中で一番輝いている、経験を積んできた行きつく先が今なのだと。それは明日生きていたら、明日がまたさらに一番なのだということを意味するのだろう。さらに、だから一日一日を大事にしていくことだと言えるのだろう。
生まれたときは何もできずただおっぱいを吸うことで生き伸びるすべを知った。それから数え上げればきりのないほど人間は経験を積んで人間として生きるすべを身につけてきた。その身に付けたものが今の自分に備わっている。学習したことや味わったことがわたしという人間の中身になっている。
そして、わたしは今日という日を越え、明日という未来が善き人への道に続くよう一瞬一瞬を無駄に過ごしてはならないのだと肝に銘じなくてはならない。
※※※
ミッキーマウスのことからまたまた脱線しちゃいました♪
その中の一つがこのミッキーマウス。某メーカーとタイアップして作られたものらしい。生地がチェック柄だったり、普通のミッキーとは違う感じだったが、ミッキーマウスだから喜ぶかと思って孫のパジャマを買うときに一緒に買っておいた。
久しぶりの孫にこのミッキーマウスを出して見せた。
だが、反応が芳しくない。手に取ってみようとしない。それよりもテディベアの大小の方に手を出していた。娘曰く「ミッキーの色じゃないからミッキーだと思っていないんじゃないの」という。
そうなのか!
形だけ同じだったらいいかと思うわたし、浅はかだねぇ。
まぁ仕方がない。孫に振り向かれなくてもわたしが可愛がってあげるよ(笑)。ということで、孫が帰った後も棚の中に鎮座。これはこれですっきりしていて好きなんだけどねぇ。
こんな風にわたしが勝手にこんなものが好きなんじゃないかと用意しても相手が興味を示さないということは多々ある。何かを用意する、それが物だったりシチュエーションだったり、本や言葉だったり、相手のことを考えて用意するのだけど、全然伝わらなかったりすることもあるのだ。それは相手のことを深く考えているわたし、という設定におぼれてしまい、単なる自己満足となってしまっているのだろう。
こういうときにきめ細かく相手のことを考えることができる能力? を持っていると幸いだ。
わたしにはどうもそこのところが足りないようだ。自己満足で行動をする、それがこれまでも多かったように思う。自己満足で行動すると、相手の反応がいまいちだとかなりへこむ。それは相手の気持ちどうのこうのよりも、相手に自分のことを認めてもらいたいという気持ちが強いからだと思う。
誰かに認められたい、そのために何かをする。その何かが意に介さぬことであっても行動する、果たしてそれでいいのだろうか。わたしの数十年前は、認められたいということから始まったように思う。どんなに働いてもそれでいいということがなかった。自分の方がずっと働いているのだという意識が相手にあれば、わたしの働きなどとるに足らないものと映ったのかもしれない。今となってはその本意を探ることはできないが。
馬車馬のごとく働いた…… などと言えないが、一日中動き回っていた時期がある。その間、子どもたちはほったらかし状態だったろう。今となっては釈明の言葉も出ない。
人は誰かの上に立つものではない。皆、同じだと思いたい。だが、その頃のわたしにとっては自分と同等ではない人間がいて全てがその人間中心であった。そんな時代を振り返るたびにわたしの弱さを思う。弱さゆえに子供たちに辛さを与えたと。
※※※
ブログを回っていたときに、「今が一番円熟」だと言う言葉に出会った。自分が生きている今このときが自分の人生の中で一番輝いている、経験を積んできた行きつく先が今なのだと。それは明日生きていたら、明日がまたさらに一番なのだということを意味するのだろう。さらに、だから一日一日を大事にしていくことだと言えるのだろう。
生まれたときは何もできずただおっぱいを吸うことで生き伸びるすべを知った。それから数え上げればきりのないほど人間は経験を積んで人間として生きるすべを身につけてきた。その身に付けたものが今の自分に備わっている。学習したことや味わったことがわたしという人間の中身になっている。
そして、わたしは今日という日を越え、明日という未来が善き人への道に続くよう一瞬一瞬を無駄に過ごしてはならないのだと肝に銘じなくてはならない。
※※※
ミッキーマウスのことからまたまた脱線しちゃいました♪