渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ブッシュクラフトと武術から何を学ぶか

2017年07月29日 | open


ケラム製J.P.ペルトネン(フィンランド)。
軍人からの頂き物。


北欧系ナイフ=puukko ナイフは、軍用
ナイフであっても、

ベースはラップナイフ(フィンランドの
民族ナイフ)であり、
そのままの形状で
ブッシュクラフトに適している。


ラップナイフ(マルティーニ/フィンランド)




ラップナイフは元々は実用ナイフである
ので、金額は高くはない。

だが、最近は北欧ナイフブームのためか
普通に1万円を超える
価格で日本では販売
されていたりする。私が頂いたプーッコも
日本
国内で入手しようとすると日本円では
2万円近くしてしまう。

だが、一般的に北欧現地で手に入るラップ
ナイフは日本円にすると
3,000円~5,000円
程だ。

しかし、価値は金額の高さではない。
実用性は非常に優れている。ある場面では

アメリカンナイフよりもずっと優れている。

北欧のナイフの形状は日本刀にどことなく
似ている。
プッコについての過去記事 ⇒ プッコ

ラップナイフの典型的な姿。
このナイフなどは、とてつもなく使い勝手
がよさそうだ。


日本の和式刃物(短刀を含める)に太めの
柄を着けたような姿だ。

この太い柄というのはとても大切で、北欧
の樹木を削ぎ落す作業
では細いハンドル
だと力負けしてしまうため、この太さは
必須なの
である。物理的な必要性からこの
形状が誕生した。手の内を利か
せるために
細い柄に進化した日本刀の柄の思想とは
用法が違う
ために物理的な姿も違う物と
なっており、これは比較文化として
非常に
面白い現象だ。


フィンランドのエンゾーも非常に日本刀の
形に似ている。

私のプッコとほぼ同形状といえる。
こういうことから、北欧ナイフは
何を求め
て進化したのかという点に考察が及ぶ。



ブッシュクラフト三点セット。
斧、ナイフ、ククサ。なぜククサかという
と、現代化学素材を極力
忌避するという
思想性がブッシュクラフターの心の中には
あるから
である。
そのために、ファイアークラフトにおいて
も、ガスライター
や着火剤は使わずに、
極力火打石と火口(ほくち)を用いて着火

し、火を育てるワーキングを行なうのが
ブッシュクラフターだ。



私のプッコで火口(ほくち)であるフェザー
を作る。かなり使い易い。



シュッシュとフェザーが作れる。


火口は火山の噴火口ならば「かこう」、
鍛冶炉の空気穴ならば「ほぐち」、火の
焚き付けならば「ほくち」と読む。
それぞれ全部意味が異なる。
日本語の場合、「音(おん)」が同じ
ならば漢字の区別には厳密さは求めない
という文化が明治までは存在した。
そのため、音が同じであれば借り物の
外来文字である漢字などはどうでもいい、
というのに近い感覚があった。松五郎は
末吾郎でもよいし、満津五朗でもよかっ
たのである。
また、逆に、音が違えば別な事象を表し
ていることが日本語には多い。
そのため、当て字である漢字による
表記は、どのように読むかによって
意味がまるで異なる別な事象を表現
しているケースが日本語には多い。
本数の読み方のように、別音ながら
同じ意味というケースは、日本
語ではあまり多くはないのである。

[本の読み方]

1・・・ぽん
2・・・ほん
3・・・ぼん
4・・・ほん
5・・・ほん
6・・・ぽん
7・・・ほん
8・・・ぽん
9・・・ほん
10・・・ぽん

これには外国人は非常にとまどう
らしい。
そして、「火口」は焚火において
は「ほくち」と読み、焚き付けの
火種のことである。

ブッシュクラフトにおいて木片を削り
そいでフェザーを作るのは、着火し
易い形状に木片を変化させるのが
目的であり、フェザーを作る事そのもの
が目的ではない。
ここ、結構大切で、この本質を心得
違いすると、フェザーを作ることが
目的化して、ブッシュクラフトを
単なる小手先の表層を求めることに
矮小化してしまい、ブッシュクラフト
本来の思想性と大きく乖離してしまう。
それらは道具自慢のキャンプや庭先
友人招待バーベキューで高級ワインを
開ける方向と同じ方向性に視点が向く
ことになる。

ブッシュクラフトはそうしたことをやる
アウトドア活動ではない。
フェザーを作ることが目的化するという
ことは、着火においてもガスバーナー
でもよいということに繋がる。
理由は、本来の目的が目的として意味
を成していなくなるからだ。
買い物をするのは、その物品を入手する
ことが目的であり、その物品の入手目的
は何かにその物品を供するためである。
ところが、買い物そのものが目的となり、
買ったらポイ、次にまた別な物に目が
移り買うということになってしまったら、
それは一種の精神的な迷路に落ちている。
さらに喩えるならば、例えばフライ
フィッシングにおいて、綺麗で見栄えの
良いフライを巻くことが目的化して毛鉤
のフライタイイングに精を出すような
もので、絶対的に本末転倒なのだ。
フライフィッシングのフライ=毛鉤は
トラウトという鱒類の魚を釣るために
作製される。毛鉤を作るために毛鉤を
作るのではないのである。
ここのところをブッシュクラフターは
よくよく自問することが結構大切
なことだろうと私は思う。
要するに、本質性の希求から乖離して
目的と手段を逆転させると本道を見失う。
どの分野でもただの知識のコレクション
などはそれの典型例で、実に空虚になる。

ブッシュクラフトにおいて、火を熾す
ためではなく、フェザースティックを
作ることが目的となってしまうような
精神性というものは、森で道に迷うよう
なことなので、アウトドアマンはブッ
シュクラフターとなりたいのであるなら
ば、充分に自問して自戒する必要がある
と私は思う。
道具自慢や知識自慢の知識収集家と何ら
変らない行為はブッシュクラフトに
おいては「不要」そのものであるのだ。
そういう暗愚に包まれて前後不覚に
なるためにブッシュクラフトがあるの
ではない。
ブッシュクラフトに「こうあるべきだ」
という定義も縛りも規則も何も無いが、
何も無いがゆえ、なおさらに、ブッシュ
クラフターたらんとするアウトドアマン
は、己の立ち位置、精神性に確固たる
思想性が必要となってくると思料する
のである。
それは何か。

フェザースティックはナイフの刃付け
や断面形状により簡単に出来る場合と
出来ない場合がある。
手持ちナイフでフェザーがうまく作れ
なかった場合は、このようなチップ
でもよいのである。目的はフェザーを
作るのが目的ではないから。


フェザーはあくまで「火口(ほくち)の
一つ」なのだとしっかりと捉えることが
必要なのだ。
フェザースティックでなくとも、解いた
ヨリ縄でもよいし枯葉でもよい。
枯草などは最適だし、松類等の針葉樹林
は油分が多く燃えやすい。
「目的は何か」ということを見失わない
ことが、ブッシュクラフトで得よう
とする人としての学習のコア部分なのだ。

これまた、なぜか。
ブッシュクラフトはサバイバルワーク
ではないあくまで「趣味」「嗜好」の
領域に属するものであるが、「ブッシュ
クラフトから何を学ぶのか」ということ
こそがブッシュクラフトの目的だからだ。
無論、ブッシュクラフトによって心の
癒しを感じる人もいるし、そうでなく
ストレスを感じる人もいる。
しかし、それらを行なっているのは「人」
である。
人について見つめ直す時間と行為、これ
こそがブッシュクラフトの中心領域を
構成しているのである。
フェザースティックはなぜ必要なのか。
では、火口はなぜ必要なのか。
さらにならば火はなぜ必要なのか。
ナイフはなぜ絶対に必要なのか。
そうしたことを常に感知して体感して、
そのアウトドアワークから人が
人として生きることの意味を学ぶのが
ブッシュクラフトだ。

武術、武道において目的が「稽古する
こと」や「知識を集めること」という
ようなことに矮小化された本末転倒現象
が起きるのは、武術の本当の目的が
現代社会においては物理的に認められ
ないこととも大きく関係がしている。
それは人の死を直接司ることがかつての
武術の存在意義であったからだ(武道に
しても根源的には同)。
だが、人を殺してはいけないことと
なった現代であるからこそ、なおさら
武術の持つ意味をしっかりと捉える必要
が生じてくる。
これはある意味、武術の単純目的通りに
完遂してそれが良とされた時代よりも
厳しい視点と自覚が現代人には問われて
いるということでもある。
そのことをどれほどの武術を行なう人が
自覚しているのだろうか。

現代において武術、武道を何の為に
修練するのか。
無論、鍛練・訓練・修練・稽古すること
が目的ではない。
では何か。
かつて人の死に直截に関与した武術という
ものを現代人が学ぼうとするのはなぜか。
その目的は何か。
何を得ようとしているのか。
それは、武術がかつて持っていた本質的
目的の自己否定化に向かわない限り、現代
における武術修練の意義は見いだせない。
武術の神髄を知れば知る程、習得すれば
する程、目を逸らさずに人の死と面と
向かうことになり、人を大切することの
重要さを思い知ることになる。
そうしたところが見えていないと、人は
武術餓鬼となり、「強くなること=偉い
こと」とか、「人を虐げること」とか、
「人より優越している」などということを
嗜好する方向に精神が向かい、心はどんどん
ダークサイドに支配される。
事実、そうした実例は腐るほどある。
暗黒面に心が支配された武術餓鬼はこの世に
非常に多く、武術をやっていることが偉い
ことであるとか、人より優れているとか
大きな勘違いをして道を外すことを自分で
選ぶ。
暗黒面に心が支配された武術餓鬼は、
かつて本来は人の死を司った時代の武術の
表層面だけを形だけなぞって、武術家に
でもなったようなつもりになる。
暗黒面に陥った愚者の行ない、大きな
心得違いは個人的な問題だけではなく、
社会的な問題性を惹起する。
これは現実にあちこちで発生しており、
人が人を傷つけ、踏みつけ、愚弄し、
嘲笑し、罵り、睥睨し、差別して排外
することを好む人間が自称武術家を
名乗っていたりするという現象を生じ
させている。

武の象徴の一つを剣とするならば、
剣は心である。心正しからずんば剣また
正しからず。
そして、現代剣士は剣士であるがゆえ、
換言すれば武人であるがゆえを以って
人の上に立つものではない。人は人で
あり皆同列だ。
やっと人が人として認められ認め合う
ことが許される時代が来たのである。
現代武術者は、心得違いをして人の道
を外してはならない。

ブッシュクラフトというアウトドア
活動は、自然の中で人間が生活時間
を持つことで、危険や死を身近に意識
して、それを回避し、人として生き延び
ることの意味を自問する環境に自らを置く。
そこで得るものは、現代人が武術修練
で得る本質的なものと共通する精神的
な面が非常に強い。
「人を大切にすることの重要さ」
これを得ない現代における武術修練や
ブッシュクラフトなどは、一切意味を
持たない。