![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/c7/89303fee79ce3dba66c3956798068e4d.jpg?1629639013)
横浜市長選。
横浜市民の声は「カジノいらね」だ
った。
横浜市民の友人が朝話を振って来た
ので、いろいろきいてみた。
ハマにカジノあってもいいじゃん、
と言う私に対していろいろ説明して
くれた。
やっぱ、米軍跡地とずぶずぶの自民
土建屋政治みたいなのの利権がらみ
で真っ黒けっけの流れみたいなのを
作ろうとしている動きがあって、
そうじゃねえだろ、今、そんなのより
コロナ対策どうすっかだろ、てな
ところで彼はカジノ建設撤回候補を
推したという。
なるほどねーと思った。
そらそうだ。今の時期、博打場建設
よりもやることあるだろ、と。
そして多くの横浜市民の声はそれだ
った。自民保守は内紛分裂で軸ブレ
敗北だ。
選挙結果は圧倒的だ。カジノ反対の
若き候補者が当選した。埼玉県出身。
早稲田大学卒。コロナに詳しい。
プロとして政治に詳しいかどうかは
知らない。
ハマの人間は「横浜」といえば横浜駅
を思い浮かべはしない。浜の中のハマ
といえば山下公園付近の港ヨコハマと
中華街界隈と元町を想い浮かべる。
「横浜=横浜駅」だとか、「東京=
東京駅」という発想はおのぼりさんの
地方人しかそういう発想はしない。
代官山を登山する山だと思ったりと
かね。
ある地方出身の芸能人が言ってたけど。
「上京したての時に事務所が用意して
くれたマンションが代官山で、都会に
憧れて東京に来たのに、なんでわざ
わざ山に住まなきゃならないんだ、と
思った」と。
ネタではなく本当にそう思ったのだ
ろう。
何が言いたのかというと、地元の
感覚や実態はジモチーとしてそこに
住する人間にしか理解できない。
「どこでも一緒」などという十把
一絡げなどの事実は世の中には存在
しない。また、一絡げの感覚で世の
中を見ようとするのは視野狭窄で
あり、事実無根の事を妄想で事実だ
とする危険性を持つ。
そして、そうした事実と無縁の一絡げ
感覚は、大抵は価値観の押し付けを
ごり押ししたりする。そういうのが
集団的に大好きな地方もあったりする
のだが、本人たちは全国区の視点を
持っていないので、自分たちの悪しき
面については気づかないし、気づこう
という自発性も存しない。指摘され
たら切れるだけだ。これまた集団的に。
そういう地方も日本には存在する。
近頃はどうなのだろう。
鉄道のいろんな路線が集約されている
横浜駅は国鉄時代からず~~っと拡張
工事をしていた。私が子どもの頃から。
まだ駅前からトロリーバス(電気バス)
が出ていた頃から。
その横浜駅のある鉄道のホームの
階段の裏側にはホットドッグ屋が
あった。ホームの駅蕎麦みたいな
感じで。
1970年春。9歳の私は横浜から東横線
に乗って中目黒の歯医者まで通って
いた。
お金がある時はそこのドッグ屋で
ホットドッグを歯医者の帰りに買って
食べたが、これが殊の外うまかった。
少し酸味が利いた刻み野菜が入って
いて、それがピクルスだと知ったの
はずっと後年の事だった。
1970年は二度目の日米安保反対闘争
の決戦の年、浮かれた大阪万博の年、
昭和元禄の最高潮の年だった。
ベトナムではベトナム戦争でベトナム
人が米軍によってドバドバ殺されて
いた。そのベトナム人殺しの爆撃機
はバンバン日本から飛び立っていた
し、艦隊も横須賀や沖縄から出ていた。
ベトナム人を殺すことがアメリカと
日本の「正義」として実行されていた
ベトナム戦争激化頂点が1970年だった。
鉄道で横須賀まで米軍の軍事車両を
貨物輸送しているのは横浜に住んで
いたら毎日のように見ていた。
小学生の私でも「これが人を殺しに
行くのか」と思わざるを得ない光景
を日常的に見せられていた。
同時に、米軍基地のすぐ横に住んで
いた私は、金網越しに米軍兵士の子
どもたちと言葉は通じないながら
も仲良くなっていたので、国は違え
ど、あんないい奴らなのに、どうして
人間同士が戦争で互いの家族たちを
殺し合うような事をするのか、それ
はもう小学校低学年の頃から疑問に
思わざるを得なかった。目の前に
「アメリカ」があったのだから。
なぜフェンスがあって、「こっちに
来いよ、一緒に遊ぼうぜ」と同世代
のアメリカの子どもたちが手招き
するのに垣根を越えて向こうに行け
ないのか、また、あの子たちもこちら
に来れないのか、という「そこにある
現実」を見ない訳にはいかなかった。
そして、戦争支援国として自分の国
があったのだから、大量の兵器を
毎日見せられて「人殺しが正義なの?」
という疑問を持たずにはいられなかっ
た。
当時のハマっ子で、米軍基地とベト
ナム戦争というその日常的な情景を
毎日見ていて、国家間の問題に疑問を
抱かない小学生がいたとしたら、よ
ほど間抜けな我関せずの自己中だ。
うすら寝ぼけた現実を見ないガキで
しかない。メンコやビー玉やってて
も、アメリカンクラッカー登場を
見たら「はっ」となった筈だ。
そこに文化の差異、異文化や「違う
もの」の存在とはどういうことかと
気づかされた筈だし、そのガキの
メンコと横浜で流行ったアメリカン
クラッカーのカンカン叩くキャノン
ボールの同時存在に異文化存在の
根源性に関して何かを感じた筈だし、
その社会的感受性の萌芽はそうした
「日常」の中にこそあった。
それがヨコハマだ。
ヨコハマは特定勢力以外のマイノリ
ティを排除しない。
ヨコハマならベイスターズを応援
せんといけんじゃろう、などと公共
放送で宣伝したり、それに反する感覚
を持つ者を集団的に排斥したりする
精神性は存在しない。それが横浜だ。
「横浜なめんじゃねーぞ」の例の奴
はハマ人ではなく似非だろう。
対立ではなく融和と平和共存の道筋
を考えるヒントがガキの遊びの中に
確実にあった筈だ。ヨコハマに住ん
でいるのであるならば。
それをガキだろうと鋭敏に感じ取る
土壌が横浜にはあったし、今もある。
その1970年は、まだ日本国内にホット
ドッグが出始めてほんの数年の頃で、
ドッグはめちゃくちゃ高かった。
それ以前、学校給食で日本人の食の
欧米化を推進せんと、パン食が開始
されていて、私の頃(1967~1973)
の小学校ではコッペパンが毎日の
給食の主食だった。ホットドッグの
パンのような。
横浜市民の声は「カジノいらね」だ
った。
横浜市民の友人が朝話を振って来た
ので、いろいろきいてみた。
ハマにカジノあってもいいじゃん、
と言う私に対していろいろ説明して
くれた。
やっぱ、米軍跡地とずぶずぶの自民
土建屋政治みたいなのの利権がらみ
で真っ黒けっけの流れみたいなのを
作ろうとしている動きがあって、
そうじゃねえだろ、今、そんなのより
コロナ対策どうすっかだろ、てな
ところで彼はカジノ建設撤回候補を
推したという。
なるほどねーと思った。
そらそうだ。今の時期、博打場建設
よりもやることあるだろ、と。
そして多くの横浜市民の声はそれだ
った。自民保守は内紛分裂で軸ブレ
敗北だ。
選挙結果は圧倒的だ。カジノ反対の
若き候補者が当選した。埼玉県出身。
早稲田大学卒。コロナに詳しい。
プロとして政治に詳しいかどうかは
知らない。
ハマの人間は「横浜」といえば横浜駅
を思い浮かべはしない。浜の中のハマ
といえば山下公園付近の港ヨコハマと
中華街界隈と元町を想い浮かべる。
「横浜=横浜駅」だとか、「東京=
東京駅」という発想はおのぼりさんの
地方人しかそういう発想はしない。
代官山を登山する山だと思ったりと
かね。
ある地方出身の芸能人が言ってたけど。
「上京したての時に事務所が用意して
くれたマンションが代官山で、都会に
憧れて東京に来たのに、なんでわざ
わざ山に住まなきゃならないんだ、と
思った」と。
ネタではなく本当にそう思ったのだ
ろう。
何が言いたのかというと、地元の
感覚や実態はジモチーとしてそこに
住する人間にしか理解できない。
「どこでも一緒」などという十把
一絡げなどの事実は世の中には存在
しない。また、一絡げの感覚で世の
中を見ようとするのは視野狭窄で
あり、事実無根の事を妄想で事実だ
とする危険性を持つ。
そして、そうした事実と無縁の一絡げ
感覚は、大抵は価値観の押し付けを
ごり押ししたりする。そういうのが
集団的に大好きな地方もあったりする
のだが、本人たちは全国区の視点を
持っていないので、自分たちの悪しき
面については気づかないし、気づこう
という自発性も存しない。指摘され
たら切れるだけだ。これまた集団的に。
そういう地方も日本には存在する。
近頃はどうなのだろう。
鉄道のいろんな路線が集約されている
横浜駅は国鉄時代からず~~っと拡張
工事をしていた。私が子どもの頃から。
まだ駅前からトロリーバス(電気バス)
が出ていた頃から。
その横浜駅のある鉄道のホームの
階段の裏側にはホットドッグ屋が
あった。ホームの駅蕎麦みたいな
感じで。
1970年春。9歳の私は横浜から東横線
に乗って中目黒の歯医者まで通って
いた。
お金がある時はそこのドッグ屋で
ホットドッグを歯医者の帰りに買って
食べたが、これが殊の外うまかった。
少し酸味が利いた刻み野菜が入って
いて、それがピクルスだと知ったの
はずっと後年の事だった。
1970年は二度目の日米安保反対闘争
の決戦の年、浮かれた大阪万博の年、
昭和元禄の最高潮の年だった。
ベトナムではベトナム戦争でベトナム
人が米軍によってドバドバ殺されて
いた。そのベトナム人殺しの爆撃機
はバンバン日本から飛び立っていた
し、艦隊も横須賀や沖縄から出ていた。
ベトナム人を殺すことがアメリカと
日本の「正義」として実行されていた
ベトナム戦争激化頂点が1970年だった。
鉄道で横須賀まで米軍の軍事車両を
貨物輸送しているのは横浜に住んで
いたら毎日のように見ていた。
小学生の私でも「これが人を殺しに
行くのか」と思わざるを得ない光景
を日常的に見せられていた。
同時に、米軍基地のすぐ横に住んで
いた私は、金網越しに米軍兵士の子
どもたちと言葉は通じないながら
も仲良くなっていたので、国は違え
ど、あんないい奴らなのに、どうして
人間同士が戦争で互いの家族たちを
殺し合うような事をするのか、それ
はもう小学校低学年の頃から疑問に
思わざるを得なかった。目の前に
「アメリカ」があったのだから。
なぜフェンスがあって、「こっちに
来いよ、一緒に遊ぼうぜ」と同世代
のアメリカの子どもたちが手招き
するのに垣根を越えて向こうに行け
ないのか、また、あの子たちもこちら
に来れないのか、という「そこにある
現実」を見ない訳にはいかなかった。
そして、戦争支援国として自分の国
があったのだから、大量の兵器を
毎日見せられて「人殺しが正義なの?」
という疑問を持たずにはいられなかっ
た。
当時のハマっ子で、米軍基地とベト
ナム戦争というその日常的な情景を
毎日見ていて、国家間の問題に疑問を
抱かない小学生がいたとしたら、よ
ほど間抜けな我関せずの自己中だ。
うすら寝ぼけた現実を見ないガキで
しかない。メンコやビー玉やってて
も、アメリカンクラッカー登場を
見たら「はっ」となった筈だ。
そこに文化の差異、異文化や「違う
もの」の存在とはどういうことかと
気づかされた筈だし、そのガキの
メンコと横浜で流行ったアメリカン
クラッカーのカンカン叩くキャノン
ボールの同時存在に異文化存在の
根源性に関して何かを感じた筈だし、
その社会的感受性の萌芽はそうした
「日常」の中にこそあった。
それがヨコハマだ。
ヨコハマは特定勢力以外のマイノリ
ティを排除しない。
ヨコハマならベイスターズを応援
せんといけんじゃろう、などと公共
放送で宣伝したり、それに反する感覚
を持つ者を集団的に排斥したりする
精神性は存在しない。それが横浜だ。
「横浜なめんじゃねーぞ」の例の奴
はハマ人ではなく似非だろう。
対立ではなく融和と平和共存の道筋
を考えるヒントがガキの遊びの中に
確実にあった筈だ。ヨコハマに住ん
でいるのであるならば。
それをガキだろうと鋭敏に感じ取る
土壌が横浜にはあったし、今もある。
その1970年は、まだ日本国内にホット
ドッグが出始めてほんの数年の頃で、
ドッグはめちゃくちゃ高かった。
それ以前、学校給食で日本人の食の
欧米化を推進せんと、パン食が開始
されていて、私の頃(1967~1973)
の小学校ではコッペパンが毎日の
給食の主食だった。ホットドッグの
パンのような。
1970年当時横浜駅のホットドッグ1個
が150円だった。
1970年昭和45年の物価は以下だ。
・大卒初任給(公務員) 31,510円
・高卒初任給(公務員) 23,140円
・牛乳 25円
・かけそば 100円
・ラーメン 110円
・喫茶店(コーヒー) 120円
・銭湯 38円
・週刊誌 70円
・新聞購読料 750円
・映画館 700円
給与ベースで2021年の現在と比較
すると、2021年令和3年の公務員の
初任給は以下。
・大卒初任給(公務員) 232,840円
・高卒初任給(公務員) 225,840円
大卒初任給基準で1970年昭和45年
の150円を今の2021年に換算すると、
150:χ=31510:232840 で≒1108
となる。
今でいうとホットドッグ1個が1,108
円。こりゃ高い。初任給換算でも
それだが、当時の感覚としては今の
1,500円位の感覚があった。
このホットドッグの当時の高値は
どういうことかというと、それだけ、
まだ戦後25年目の日本はいくら高度
経済成長真っただ中とはいえ、食
生活全般まではアメリカナイズされ
ておらず、米国物の食品部門を扱う
業者が多くはなかったゆえ、過当
競争による価格引き下げがあまり
発生していなかった、ということだ。
国産自動車産業の製品の金額が
現在比較でバカ高かった1960年代
の背景とは多少食品関係は価格存在
の実相が異なっていた。
1950年代末期~1960年代初期など
は、日本国内で四輪自家用車を所有
しているのは大金持ちしかいなかっ
たのは事実だが、それを今語っても
歴史を知らない、見えない人には
俄かに措信し難い事として映るら
しい。目の前の今の時代がすべてで
最初からあった世界だと思い込んで
いるから。
だが、歴史を知らない者は未来を
見据えることはできない。
今の今は大切だが、過去からの歴史
の延長線上に今があり、たった今の
今は、今を認識した時点ですでに
過去である事を認知しないならば、
未来の方向性を作る事などできない。
それでも、今の今なにを為すべきか
を忘れて目先の利益に走ったら、
政治的舵取りなどは不可能だろう
とは思う。泥の船に誰も乗りたいと
は人は思わない。
横浜市長選を横浜市の外から見てい
て、時代的遷移と51年前の駅売りの
ホットドッグを思い出した。
が150円だった。
1970年昭和45年の物価は以下だ。
・大卒初任給(公務員) 31,510円
・高卒初任給(公務員) 23,140円
・牛乳 25円
・かけそば 100円
・ラーメン 110円
・喫茶店(コーヒー) 120円
・銭湯 38円
・週刊誌 70円
・新聞購読料 750円
・映画館 700円
給与ベースで2021年の現在と比較
すると、2021年令和3年の公務員の
初任給は以下。
・大卒初任給(公務員) 232,840円
・高卒初任給(公務員) 225,840円
大卒初任給基準で1970年昭和45年
の150円を今の2021年に換算すると、
150:χ=31510:232840 で≒1108
となる。
今でいうとホットドッグ1個が1,108
円。こりゃ高い。初任給換算でも
それだが、当時の感覚としては今の
1,500円位の感覚があった。
このホットドッグの当時の高値は
どういうことかというと、それだけ、
まだ戦後25年目の日本はいくら高度
経済成長真っただ中とはいえ、食
生活全般まではアメリカナイズされ
ておらず、米国物の食品部門を扱う
業者が多くはなかったゆえ、過当
競争による価格引き下げがあまり
発生していなかった、ということだ。
国産自動車産業の製品の金額が
現在比較でバカ高かった1960年代
の背景とは多少食品関係は価格存在
の実相が異なっていた。
1950年代末期~1960年代初期など
は、日本国内で四輪自家用車を所有
しているのは大金持ちしかいなかっ
たのは事実だが、それを今語っても
歴史を知らない、見えない人には
俄かに措信し難い事として映るら
しい。目の前の今の時代がすべてで
最初からあった世界だと思い込んで
いるから。
だが、歴史を知らない者は未来を
見据えることはできない。
今の今は大切だが、過去からの歴史
の延長線上に今があり、たった今の
今は、今を認識した時点ですでに
過去である事を認知しないならば、
未来の方向性を作る事などできない。
それでも、今の今なにを為すべきか
を忘れて目先の利益に走ったら、
政治的舵取りなどは不可能だろう
とは思う。泥の船に誰も乗りたいと
は人は思わない。
横浜市長選を横浜市の外から見てい
て、時代的遷移と51年前の駅売りの
ホットドッグを思い出した。