髷は茶筅に限る(笑
この川に、潮が満ちるとチヌ(クロダイ)
漁業規則があるからには、漁業権も存する
広域の高原エリアを野呂山と呼ぶ。
野呂山の展望台から見た瀬戸内海。
路面状態は非常に荒れているが、コース
かつて、論文ではない作文という日記
において民主主義が云々と述べたが、
民主主義についての見識は高等学校
に進学した者は、高校時代において
すでにある程度明瞭な思惟を有して
おく必要がある。
元駿台予備校講師で中大ブント叛旗派
だった神津陽氏のサイトで以前、
「論文問題解法と解答例比較法」という
頁があり、「2001年国立大入試成績
開示の意義と論文指導の新段階」との
という興味深い項があった。
その中で、東大文Ⅰの後期論文試験の
問題「論文Ⅱ(文Ⅰ)<150分・200点>
が引用されている。
「第1問 下の文章を参考にして『戦後
日本の』民主主義について考えるところ
を1200字以内にまとめなさい。(句読点
も1字として数える。)
一九四五年,敗戦日本を占領した連合国
は,日本の政治制度について(憲法改正
を頂点とする)全面転換を進行させると
ともに,政治原理として「文明と民主
主義」の理想を宣布した。知識人・文化
人と学校体系が解説普及する「民主主義」
は,現人神天皇制を放棄した後の「精神
的空白」を埋める世俗宗教として,数多く
の(とくに青少年を中心とする)信徒を
集めた。
これに対して,堅気の生活者は民主主義
を「みんなで仲よく」という秩序原理
として理解し,秩序意識の伝統のなかに
組入れた。ここで,「みんなで仲よく」
とは前に説明した「内側の秩序」の秩序
原理であり.第一に「集団一体」(勤め
先集合体の正統性の承認),第二に「全員
参加」〔参加の民主主義),第三に「全員
一致」(採決の回避と全員の拒否権の承
認),第四に「全員均霑」(分配の政治)
を意味する。
したがって,この世間常識のなかで具体化
された民主主義の運用が「村内安全,現世
安穏」という伝統的な信仰と結合し,
「書きこまれたくない」平和主義と合流
したのは当然のことである。そして,民主
主義のこうした運用は,洋式政論として
の民主主義が指令する内容,すなわち,個性
の奨励と自由の保障.人権の確保と平等の
尊重,国民自治と国民連帯の推進といった
内容とは必ずしも一致しなかった。
(京極純一「日本の政治」より)」
高校生が読み説いて(「例文を参考にし
て」)、1200字で自己の論を展開しな
ければならない問題である。
これについての解答例と解説が展開され
ているが、大いに論理的読解力の道筋を
得るための参考になる。塾の先生の説明
だから当たり前だが。
ただし、解法を読む前には、その前段で
示されている以下の部分を熟考する必要
がある。
「く論文の基本解法の確認〉
高校まで正規の論文授業はないが,入試に
論文試験がある以上は論文解答を書かねばな
らない。論文は大学内でのテスト・就職試験・
資格試験の柱だが,驚くことに日本の大学に
は欧米のコンポジションに相当する論文構成
法の授業がないのだ。〈論文とは何か・設問に
対してどのように解答するか・解答のどこを
どう評価するか〉を明示せず論文入試を課す
怠慢に大学教員の傲慢は極まるが,論文試験
を受けて入学を希望する以上は受験生は自力
で論文解法を体得せねばならない。
まず確認すペきは国語で扱う作文・感想文
と論文の違いである。感想文は資料文を読ん
で感じたことをまとめ.作文は示されたテー
マについて思い付いたことを並べる。だが
「感じ」や「思い付き」は千差万別で評価
には採点者の主観が加わるため,感想文や
作文で可能な一般的評価は文章の巧拙に集中
する。採点者の主観に左右される作文や感想文
では資格試験や入学試験の客観性は確保出来
ない。だが論文は特定問題に対して,自分の
考え(=筈)を示し,第三者に説明する客観
評価可能な文章なのだ。
個人の考えの表明を求める論文試験は,学科
試験と異なり唯一の正解がない。だが論文試験
では(問題→解答→説明)の問題解法は誰にも
共通で,解答内容の説明の筋道は誰にも分かる。
論文試験の客観性は特定問題に対する解答成否
と内容良否の比較評価可能性に担保されている。
論文には唯一の正解がないが評価を主観に委ね
る訳ではなく,客観評価が可能だからこそ世界
の試験制度の主流に位置しているのだ。その意味
では論文学習の王道は論文構造の理解→設問別
解法の習得→過去問等での答案作成訓練に尽きる。
論文構成法には雄弁術→レトリック→コンポジ
ションの伝統があり論文解法を外しての知識量
や美文作成技術は論文試験突破には役立たない。
(間→答→説明)の論文構造は相互批判や議論
や合意や国際交渉の共通土俵であり談合・根回
しの日本的問題処理を打破する最良の解決法で
ある。
だが論文とは何かを教えず論文試験を課す大学
の姿勢は,教員間の相互批判を嫌い論文の客観
評価を避け程度に依拠する大学の情けない現状
の反映とも言える。戦後民主主義評価や社会的
公平を出題する問題意識は科学的な論文解法と
評価法を明示してこそ,大学内の開明的な相互
関係に貫流し得るのではないか。論文入試は
大学を国民に開き,実社会における能力評価の
基準や国際社会における相互理解の糧となり
得る知恵の宝庫の筈なのだ。」
卓見である。実に新左翼らしい視点
ではあるが。
確かに、談合・根回しを得意とし、
それを頑なに志向する前時代的村落
共同体意識の集団は、相互批判や議論
や合意や国際交渉の共通土俵である
論文構造の解法=論理的思考に疎い
ばかりか、殆ど思惟において国際的
共通項である論理性をも拒否すると
いう事実を現実社会の身の周りで嫌
という程痛感させられてきた。
末尾の大学構造論については観念的
すぎて突っ込みどころもあるが、ここ
では割愛する。
ただ、着眼点は鋭く、システマティ
ックな方法論は高校生に道筋を示す
ものとしては秀逸といえる。ブント
内で観念一派だった叛旗派とも思え
ない(苦笑)。
最近は三上氏と折り合いが悪いと耳に
するが、叛旗同士の方々の事だから私
は不知としよう。
さて、上記神津氏の記述は学習指導者
側の立場としての記述であるが、学ぶ
側も受験問題で論文問題が出題される
以上、このような思考基準というもの
は高校3年生の時期には既知の領域と
して得ていなければならないだろう。
例題は大学(東大文Ⅰ)の後期受験
問題だとはいえ、少なくとも大学を
受験するという人間には、大学入試前
段階での知的素地としてこうした問題
が解ける(読み解くという思考能力を
得ること)ことが必要になってくる。
また、感想文と作文と論文の読解方法
が自己の中で弁別できずに混濁させて
いる「大卒(含む中退)」に限って人
の文章に難癖をつけて非難したりする。
その手法論調は稚拙な感情的領域を出
ず、全く論理的に破綻していることが
多い。
この試験問題の解法にあるような論理
的思考と読解力がないのは明白だが、
学業以外にもっと大切なことを小学校
からやり直して来た方が良いと思われる。
かといって、私自身の高校時代はとも
かく、現在の高校生たちが大学受験に
際して論理的な読解力が学力として
備わっているかどうかというと甚だ
疑問である。
高1段階で現代国語の偏差値がたとい
全国模試で高偏差値であろうとも、
「論文を読み解く」という学力を身に
つけるための授業が現行高校授業の
カリキュラムにどのように有機的に
採り入れられていてそれとどのように
生徒自身が連動して学習しているか
が不明だ。
私の時代の高校の講義ではこの神津氏
が示すような論文読解のシステマティ
ックな授業は存在しなかった。解決策
としては徹底的に論説なり論文を乱読
するしかなかった。
とにかく量を読み倒すのだ。それも
高校3年までの間に。速読ではない。
咀嚼して熟読するのである。すると
自ずと読解力は養われる。『シジフォ
スの神話』でも『嘔吐』本体でもよいが、
パターンとしてはそれらについて書か
れた物を徹底的に読み倒すのだ。
しかし、私や私の周辺関係者のように、
高校時点において論文解法のみに時間
を割き、他の科目が疎かになってしま
っては、無論国立大学の入試などおぼ
つかないどころか、東大の滑り止めや
それより難易度の低い私立大学の入試
さえ突破できないことになる。
こういうのは正に本末転倒と言わざる
を得ない。東京大学の文Ⅰ試験に合格
する者は、200点という重要な幹を占め
る論文試験以前に他の試験においても
高得点を得る基礎学力が備わっている
のである。いかに学業において時間配分
を効率よくこなすことが小中学生の段階
からできているかが窺い知れる。
現実的に東大文Ⅰの時代から知っている
人間と同職場で仕事をした経験があるが、
時間の使い方が実にうまい。本人は高校
時代はラグビーばかりに明け暮れていた
が、現役で東大文Ⅰに合格している。大学
ではラグビーさながらの肉弾戦を別分野
で発揮というのは置いといて、私と私の
周辺部分のような一極集中特化偏向型
ではなく、実にバランス配分がとれた
対処で学業に接していたことがその職場
同僚の友人と接していて理解ができた。
大学受験に関しては、一点突破の全面
展開は通用しないのである。(大学時代
は別大学の為、学習会や会議以外で席を
共にしたことがないのでその友人のバラ
ンス面がよく判らなかった。ただし学生
時代には、突出した奇抜性のある発想力
や機転は私の周囲では東大よりも私大の
人間の方が色が鮮明であった。)
現在の高校の授業がどのようなもので
あるのかは私は知らない。
ただ、現在の高校生諸君には、論理的
思考がおぼつかないのに、論理的に記述
された文章を読み解けもしないままその
記述者に難癖をつけるような人間には
なってほしくないと願うばかりである。
(2011/12/18)