唇よ熱く君を語れ
この曲でようやく渡辺真知子は
ヨコスカ時代の「デコちゃん」
に戻れたと思うよ。
CBSソニーからのデビューでは、
アイドル的な路線で本人も戸惑
ったと80年代に入ってから吐露
していたけど。
70年代末期に圧倒的歌唱力で
デビューした時、レコード会
社の企業としての売り込み路
線は「お嬢様」系の清楚なイ
メージで売ろうとしていた。
それはそれで私個人は嫌いで
はなかった。
「変な顔」(英語でいう映画
女優に多いいわゆる「ファニー
フェイス」。浜美枝さんのよ
うな日本人離れな顔立ち)で
当時異質だったのに可愛く思
えたし。
今の21世紀をさきどる「離れ
目」だったし(笑)。
(上掲動画より最高に良かった
この動画はサイトから削除され
ました。キャプチャのみ。笑顔
が異なる)
同時期、最も渡辺真知子らしい
本来の彼女ならではの歌唱表現
力を見せている貴重な動画。
ホールドミータイト 渡辺真知子
渡邉真知子はシンガーソング
ライターなのだが、70年代初
期~中期にかけての商業主義
に対したフォークの流れでは
なく、徹底した商業主義的音
楽シーンと中和しかけた「ニ
ューミュージック」の過渡期
において出て来たアーティスト
だった。
その先駆は中島みゆきだった
が、やがて反権力的な立ち位
置だったフォークの連中も、
ポジションをうやむやにして
商業主義になだれ込んだ。
1971年の「中津川フォークジ
ャンボリー」で、我が友のジャ
ズシンガーの安田南のステージ
は商業主義音楽と決めつけられ
て「帰れ」コールでぶっ潰され
た。
反戦歌や反体制的なポーズが
「流行り」だったからだ。
それを舞台の袖で煽っていたの
が吉田たくろうだったが、翌年
たくろうが完全な商業主義に転
じて内向的閉塞の「旅の宿」を
歌った時には、今度は自分が客
席から「帰れ」コールの大合唱
を受けた。
吉田拓郎のデビューは上智大全
学共闘会議がプロデュースした
アルバム「古い船を今動かせる
のは古い水夫じゃないだろう」
だった。
たくろうは「和製ボブディラン」
ともいわれて、いわゆる反戦や
人の社会の矛盾を曲に乗せてア
ピールするディランの表現方法
を模倣していた。それゆえ、時
代的なスカラー(特待生)の好
むような「ビレッヂフォーク」
ではない骨のある「うたうたい」
として人気を博した。
ボブ・ディランの『風に吹かれ
て』などは本気でディランがベ
トナム戦争の悲哀を歌いあげた
歴史的珠玉の名曲といえる。
ただ、たくろうの場合は、そ
うした直截な「人間のその愚
かさ」や「人類愛」を「男女
の恋愛」に落とし込むという
手法で、ある種の観方をすれ
ば偏頗で曖昧な手口を採るこ
とで万人受けするような方法
を実行した。
同時代の岡林信彦などは真逆
で直截どころかドンずばで歌詞
を曲に乗せた。
「部落に生まれたそのことが
どこが悪い 何が違う」とい
う歌詞をバン!と歌い上げた。
日本の音楽シーンでは、世界の
情勢と連動して、大きくやはり
1960年代末期にひとつの試みと
変遷の転換期があった。
1960年代のそうした混沌たる状
況下の中で完璧な商業主義に依
拠していた日本の既存の音楽は
「歌謡曲」と呼ばれ、それは
1980年代以降は「懐メロ」と呼
ばれた。
時代が過ぎて古い歌謡を「懐
メロ」と呼ぶような21世紀現
代の呼称概念はてんで歴史性
を理解していない。懐メロに
限らず、過去の概念呼称は、
たとえば懐メロならばその呼
称が発生した時点の時代性や
価値観への正しい理解なくば
的を得た視点は得られない。
日本国内の音楽シーンの戦後
の大雑把な流れとしては、
1.戦後の民主化の中での「軍歌」
の忌避
2.米軍主導のGHQへの反発と同
時に米国の開放的自由主義文
化への憧憬から来るアメリカ
ナイズ
3.日本独自の「歌謡曲」の成立。
(戦後日本の音楽的性格の代
表が美空ひばり。
暴力団層との繋がりなくば「興
行」が成立しなかったというの
は、日本の「芸能」の江戸期か
らの伝統の現出)
4.アメリカンミュージックシーン
から「無思想」の「ノリ」を日
本人が知った1950年代~1960年
代初期。日活無国籍映画大流行
の頃。ロカビリーという「過去」
のアメリカ文化への憧憬の発生
5.日本で成立した歌謡曲が「演歌」
とのちのポップスであるグルー
プサウンズという新たな音楽へ
の分化。さらに演歌はグループ
で合唱と演奏をするバンドコー
ラス系のムード音楽と和風な魂
を歌う個人的な「演歌」に分離
6.米国のカレッジフォークの影響
を受けた大学生や若者を中心と
するギターをメイン楽器とする
「軽音楽」の台頭。主として
1960年代中期以降
7.ボブディラン等の反戦アーティ
ストに影響を受けたベトナム戦
争反対、全世界の戦争に反対す
る「ラブ&ピース」の時代-
1960年代中期~末期
8.カレッヂフォーク(大学生など
の青年インテリゲンチャー)が
主導した平和と自由と博愛を謳
う地球規模の時代(1960年代末
期)
9.日本におけるフォークの誕生。
(原初はマイク真木の「バラ
が咲いた」とされるビレッヂ
フォーク系。直截な反戦思想
は伏せて遠隔表現で人の「生
と死」を歌った)
10.日本国内でのフォークの大流行
(1970年前後)
11.商業主義的音楽製作への懐疑
と日和見の時代(1970年代初
期)
ビートルズが女王陛下から下さ
れた勲章を返却したビートルズ
のその平和博愛主義を忘却した
日本の音楽シーンの中の「反体
制」主義者たちの転向。(ビー
トルズは決して商業主義ではな
く、ロックを通して音楽による
人々の平和の心を求めていた。
元々は革ジャンを着てロックン
ロールをやっていたビートルズ
の原点にはそのロックの魂が厳
として存在している。ビートル
ズを理解しない者は、そのニュー
トラルな耳あたりの良い音楽性
のみに着目して模倣するが、彼
らの人類愛への思想性を理解せ
ずに、彼らのロック魂を理解す
る事は不能だ)
12.日中国交樹立の1972年から
始まる、雪崩のような日本の
「商業音楽とアマプロの垣根
を超えた音楽との乖離」の開
始、かつ商業主義音楽の完全
なる日本の全音楽の取り込み
の開始。
13.1972年から始まる、それまで
の反戦・反体制的なフォークに
よる「抵抗」の敗北宣言的楽曲
の量産(代表が吉田拓郎)。井
上陽水は葛藤しつつも後に商業
主義に迎合。さだまさしの「グ
レープ」は、文学的叙情路線
で新世界を開拓。
他は似たりよったりの商業主義
での「無思想」を表明し、男女
の恋愛物を歌う事で音楽を単な
る「男女の恋愛」に落とし込む
狭窄を捻出し始めた。
ビートルズの愛は「人類愛」。
日本のフォークとロックのいう
愛は男女の「恋愛」。まやかし
があたかも美しいかと多くの
日本人が誤認した時代がこの
1972年から70年代中期の短期
間の時期だった。
だが、国内では別な反作用も起
き、「アイドル」という新ジャ
ンルが音楽界で発生した。(す
べては仕掛け人がいる)
14.内向的後退性自己満足の「四
畳半フォーク」の流行。代表
「かぐや姫」他(1972~1975)
15.1975年の「中島みゆき」の登
場。
それまで否定的かつ批判的に喧
伝されていた商業主義的な音楽
産業の内側に入り込む事によっ
てかつてのロックやフォークが
目指した「心根」を直截かつ高
度な技巧的な歌詞まわし(隠喩
を多用)や曲編成により展開す
ることが日本で初めて開始され
た。(中島みゆきは日本の歴史
の中の音楽ジャンルの偉大な開
拓者であるといえる。周辺の日
和っていたフォーク=アコース
ティック楽曲の音楽人は全員そ
れ以降真似をした)
16.1970年代中盤~後半。商業主
義的音楽産業は「ニューミュ
ージック」というカテゴリー
を創作して、フォークとロッ
クの融合を試みると同時に、
すべてを商業主義に取り込
む措置を開始する。
その流れに抗した極が森田
童子や旧フォークを固守す
る人々の存在の発生
17.1970年代後半。完全に商業
主義が日本国内の全音楽シー
ンを席巻し、完全制覇の絶対
的権力を握った時代。
これ以降、かつて吉田拓郎が
上智大学全学共闘会議のプロ
デュースによりレコードデビ
ューしたようなシーンは消滅
した
18.1980年代に、日本の音楽シー
ンを再考するルネッサンス的
活動が開始され、アマチュア
バンド(技法はプロなみ)た
ちによる「インディーズ」と
いう新ジャンルが確立される。
これは主として英国の反体制
的ロックであるパンクの影響
を受けた音楽人たちが実践を
開始した。アトミックカフェ
やその他の新しい(しかし20
年程前の潮流の正統な流れを
汲む思潮)シーンが登場する
19.1980年代に入り、ほぼ日本国
内の音楽は企業によるCM(製
品を売る為の販売情宣)との
コラボを全肯定する方向に向
かう
20.秋元康による完全商業主義
の覇権確立。→35年後の2021
年の現在に至る
という大雑把な流れ。
実は日本の音楽シーンは「社会
的な思潮との完全乖離」をみた
1980年代中期からは、テクニカ
ルな音楽面での変化は現認でき
ても、「シーン」としてはさし
て新機軸は出ていない。
焼き直しと二匹目のドジョウ狙
いばかりが続いている。
世代には断絶が存するので、秋
元などの「巧者」は、それを狙
いすまして自身が手掛けた85年
おニャン子と同じ手法で集団商
品により新世代を取り込むこと
をして「成功」した。
つんく♂の挑戦と「成功」から
ヒントを得て、古いやり口をア
レンジする事で爆発的な「ブー
ム」を創作する事に秋元は「成
功」した。
だが、そこでの内実は、商品た
ちが実行者であると甚だしく勘
違いし、同商品内での嫉妬と憎
悪と「蹴り落とし」の総選挙で
あり、一切「音楽」とは関係が
無い興行として音楽が「利用」
されている醜い状態が実はそれ
ら集団商品音楽の裏側の素顔だ。
その日本国内音楽的シーンで秋
元スタイルが莫大な利益を得ら
れるような社会情勢全般におけ
る技法表現のコアな部分におい
ても、1991年にMTVでエリック・
クラプトンが音楽的啓蒙として
始めたアコースティックへの回
帰と音楽的原点の見直しを提言
して表現実行した「アンプラグ
ド」においては、日本人アー
ティストたちはこぞって表面の
みを猿真似して、エレキギター
から生ギターに持ち替える事で
本物の演者の猿真似をした。
いわんや、秋元とどっこい大作
だ。
ゆえに、1990年代以降は、日
本国内で再度アコギが流行した。
だが、クラプトンの試みた音楽
的な思想を誰一人として日本人
の「ロック」のアーティストは
理解していなかったのかも知れ
ない。なぜならら、明らかに
「真似」だから。
日本の洋楽の限界性はそこに
ある。
すべて後からの猿真似であって、
音楽文化を世界に先駆けて切り
拓く事をしていない。
フォルクローレや、JAZZやロッ
クというような「本場の本職」
たちの真似をする事で、「コス
プレ」としてのアイデンティ
ティを自覚しない。
その中でも切り拓いているミュ
ージシャンはごく僅かながら
日本国内にもいるが、大抵は会
社勤めと同じく「うまくやった
者が出世する」式の手法を無軌
道に採る。
そして「売れたらそれが官軍」
的な発想で音楽と接している。
それは、果たして真のミュージ
シャンであるのか。
そこに音楽の魂は存在しない。
すべて
音楽を利益のためだけに「利用」
している。なぜ、アマディウス
がモーツァルトとして革命的な
音楽家であったのか。
そこなのだ。
渡邉真知子という稀有なアー
ティストの「うたうたい」は、
デビュー当時は爆発的に売れ
はしたが、「ヨコスカのデコ
ちゃん」を表現できない苦し
さはあっただろうと思う。
今では一般的になっているが、
単音を譜面を無視して半音上
下に転がす歌い方をしたのは
テレビに出るメジャー歌手
では渡辺真知子が最初だった。
原初はその数年前の高木麻早
にみられたが、それはマイナー
だった歌唱法だった。(高木
麻早の『オー・マイ・ラブ』
をリメイクカバーした石川優
子は全く高木麻早の転がし歌
唱法を謳えずにクリアなピッ
チの歌い方にしていた。
その後、渡辺真知子のあとに
竹内まりやが渡辺真知子の歌
い方の技法を表現するように
なったが、それは80年代に
入ってからのことだった)
個人的には私は渡辺真知子の
当時の19才からハタチ頃の顔
も大好きだったが、その独自
の音楽性に瞠目した。
アマチュアの頃に密かなファ
ンを有したカーリーヘアーの
スカのデコちゃんがメジャー
デビューでお嬢様容姿になっ
た時には、「なんで?」と思
ったが、私はこの『唇よ、熱
く君を語れ』でやっと横須賀
のデコちゃんが思いっきりま
たあのアマチュアの頃の昔の
ように「うたい」始めたと私
は感じた。
その後、おばはん(笑。だれ
でもなる)となってからは、
彼女は「自分の世界」全開
だ。本当はそれがナチュラル。
デコちゃん渡辺真知子が、彼
女らしい
バラードを「うたった」貴重
な動画映像がある。これは貴
重な映像だ。
この動画に収められた渡辺真
知子は実に彼女らしいと思う。
これ、いわゆるこれがデコちゃ
ん。
しかし、「うた」の途中でなぜ
涙が彼女の頬をつたうのか。
この曲には、彼女自身の個人的
な「背景」があるのだろう。
きっと。
渡辺真知子 たかが恋