く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

「大地讃頌」震災復興へ 届け!合唱のエール

2012年01月26日 | 音楽

【心に染みる歌詞と旋律】

 最近、その歌詞の深い味わいと温かみ、旋律の感動的な雄大さから、しばしば胸中を去来する合唱曲がある。ちょうど今から50年前、大木惇夫の作詞、佐藤真の作曲で誕生した「大地讃頌(さんしょう)」という曲だ。7つの楽章から成る「混声合唱とオーケストラのためのカンタータ・土の歌」の中の最終楽章である。

  母なる大地の懐に 我ら人の子の喜びはある
  大地を愛せよ 大地に生きる
  人の子ら 人の子 その立つ土に感謝せよ
  (人の子ら 人の子ら 土に感謝せよ)
  平和な大地を 静かな大地を 
  大地を誉めよ 頌(たた)えよ 土を
  恩寵の豊かな 豊かな大地 大地 大地
  (我ら人の子の 我ら人の子の 大地を誉めよ)
  頌えよ 頌えよ 土を(誉めよ 頌えよ)
  母なる大地を 母なる大地を
  頌えよ 誉めよ 頌えよ 土を
  母なる大地を ああ 頌えよ 大地を ああ

 合唱コンクールや卒業式などでしばしば取り上げられてきた。今も中学の音楽教科書などに掲載されている。これまでに何万人、いや何十万人が歌ってきたのだろうか。久しぶりに思い出されたのはちょうど1年前の東日本大震災の直後だった。大津波が営々と築き上げてきた東北の町並みを、歴史遺産を、そして多くの人々をも瞬時にのみ込んでいく。まさに大地そのものを削り去るように。テレビでそのさまを繰り返し目にするうちに、この「大地讃頌」の歌詞がふいに脳裏に浮かんできたのだ。

【初演指揮、小澤・N響の確執で急きょ岩城に】

 初演は岩城宏之の指揮、NHK交響楽団の演奏で行われた。初めは小澤征爾が振る予定だったが、N響との間の確執から急きょ岩城に交替した。この曲が生まれた1962年、小澤はN響との間で客演指揮者として契約したばかりだった。ところが、フィリピンなど東南アジアへの演奏旅行中、小澤とオーケストラとの間にさまざまな〝不協和音〟が生じ、契約打ち切りを巡って小澤側が訴える事態にまで発展した。

 翌年、黛敏郎などの仲介で和解したものの、小澤とN響の関係はその後長らく実質的な断交状態が続いた。「カンタータ・土の歌」はこうした波乱の中で、N響・岩城の組み合わせで世に出たのだった。小澤がN響の指揮台に再び立ったのは阪神大震災直後の1995年1月23日。実に32年も過ぎていた。この日、阪神大震災の犠牲者追悼のため、バッハの「G線上のアリア」や「無伴奏チェロソナタ第5番」(チェロ・ロストロポーヴィチ)などが演奏された。

【各地の復興支援コンサートで響き渡る「大地讃頌」】

 東日本大震災で「大地讃頌」が脳裏に浮かんだのは私だけではなかった。その証拠に、大震災直後から全国各地で開かれた復興支援コンサートで、演奏曲目の一つとして「大地讃頌」を取り上げるところが少なくなかった。

 8月、東京・世田谷では大震災で花火大会を中止する代わりに復興支援イベントを開催、公募した区民150人が「大地讃頌」を歌い上げた。10月には山口市・瑠璃光寺でのチャリティーコンサートで、総勢250人の市民がベートーヴェンの「第九」とともにこの「大地讃頌」を演奏、被災地への熱い思いをDVDにして届けた。

 このほかにも多くの復興支援コンサートで、犠牲者の冥福と被災地の復興を願いながら「大地讃頌」が演奏された。富山市、青森県弘前市、埼玉県桶川市、大阪府門真市、群馬県高崎市、神奈川県寒川町、兵庫県三木市、岩手県大船渡市……とまさに全国各地で。

 津波による大破壊と原子力発電所の放射能汚染で、故郷を追われた方々は今なお30万人を超えるという。原発の「安全神話」は自然の猛威の中でもろくも崩れ去った。「平和な大地を 静かな大地を 大地を誉めよ 頌えよ 土を」。避難されている方々がふるさとで、また元の静かで平和な日々を送ることができる時が一刻も早く訪れることをただ祈るばかりだ。

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