【阿波特産の青石を多用、作庭は茶人武将上田宗箇?】
「旧徳島城表御殿庭園」(国の名勝)は徳島藩蜂須賀家の居城徳島城の表御殿に設けられた回遊式の庭園。広さは5000㎡強で、南側の枯山水と北側の築山泉水庭という全く趣が異なる2つの庭園からなる。織豊時代~江戸時代初期に活躍した茶人武将で造園家の上田宗箇(1563~1650)が藩祖の蜂須賀家政の依頼により作庭したといわれる。
庭内には阿波特産の「青石」と呼ばれる緑泥片岩が多く使われているのが特徴。とりわけ枯山水庭の砂紋の上に渡された自然石の青石橋(長さ10.5m、重さ約13トン)には圧倒的な存在感が漂う。この石橋には途中で大きな割れ目が入っている。それにはこんな伝説も。初代藩主蜂須賀至鎮(よししげ、家政の長男)は徳川家から迎え入れた正室氏姫が幕府の陰謀で毒を盛ったと思い込み、悔しくて地団駄を踏んで石橋を割ってしまった――。ただ実際には夫婦睦まじく仲は良かったともいわれる。青石橋の少し先には御影石を長方形に加工した切石橋(長さ6m)が架かる。
先に進むと右手の築山に不思議な形の岩が鎮座していた。子孫の繁栄を祈る「陰陽石」。その異様な姿から骸骨にも見立てられている。穴の内側に耳を寄せると地獄の釜のたぎる音が聞こえるとも。城内には飲み水確保のため何箇所も井戸が掘られた。園内にも花崗岩や御影石を刳り貫いた井戸の井筒が残っている。藩主が暮らした御殿の鬼門に当たる東北の小高い場所には観音様を祀った観音堂とみられる遺構があった。
その観音山から湧水が渓谷を下って心字池に注ぐ。無数の青石を使った豪快な石組が渓谷や池の周りをぐるっと囲む。江戸時代、池は東側の内堀と地下樋道で結ばれており潮の干満とともに水位が変化した。このため「潮入り庭園」とも呼ばれた。園内には桃山時代に大名が好んだという蘇鉄が17株も現存しているそうだ。この味わい深い庭園、入園料はたったの50円、しかも65歳以上は無料。徳島市民が羨ましくなった。