【「大宝」から「延暦」まで年号が記された木簡70点余】
奈良文化財研究所の平城宮跡資料館で秋季特別展「地下の正倉院展」が始まった。今年のテーマは「年号と木簡」。新しい元号令和が施行されたことから年号に焦点を当てた。中国に倣って日本で年号の使用が本格的に始まったのは701年の「大宝」から。それから782年の「延暦」まで年号が記された木簡を中心に70点余(うち国宝12点)を3期に分け展示する(会期は11月24日まで)。
日本最初の年号は「大化の改新」(645年)でおなじみの「大化」。ただこの後は年号が継続して使われた形跡がなく、今日まで途切れることなく使われ始めたのは「大宝」から。「大宝令」には公文書に年を記すときは年号を用いよという規定があった。「大宝」は対馬から金が貢納されたことに因む年号。それ以前は主に干支年が使われていた。会場には大宝が使われ始める前年の700年を示す「庚子年」と記された木簡なども展示中。平城宮跡からは年号と干支を併記した木簡も出土している。
8世紀には「大宝」の他にも「天平勝宝」「宝亀」など宝のつくものが多いが、木簡に記された字体はいずれも「寶」。奈良時代には「霊亀」「神亀」「宝亀」と亀に因む年号も多い。「天平」という年号も亀の甲羅に書かれた文字から採られた。年号は基本的に漢字2文字だが、奈良時代後半の749~770年には4文字の時代が5期続いた。天平感宝、天平勝宝、天平宝字、天平神護、神護景雲。これは中国・唐(周)の女帝則天武后の時代の年号に倣ったものと考えられているそうだ。
展示中の木簡の中に「天平勝宝八歳」(758年)と記された木簡があった。「年」ではなく「歳」とする年紀は天平宝字に改元されるまで続いた。なぜ? これは天平勝宝7年正月4日の勅によるもので、これも唐の影響とされる。中には天平宝字とかくべきところ天平字宝と間違って、「宝」の右に上下逆に読むよう記号を打った木簡も。また4文字年号は前半の2文字を省いて書かれることもしばしばあった。
最初の4文字年号の天平感宝はその期間が僅か2カ月半と短いこともあって、その年号を記した木簡の出土例は島根県出雲市内出土の1点のみで、平城宮・京跡からはまだ見つかっていない。年号を省略してただ「○年」と記した木簡もあった(写真)。当時の人たちにはこれで十分通じたに違いないが、1300年経って今では年号を推測するしかない。