久しぶりに「山家集」を紐解いてみたのですから、「もう少し西行」をと思い、亦のや有らぬ方向を向いてしまいましたがお許しください。
西行が詠んだ「日比・渋川」や「真鍋」の歌は、彼が四国白峯の御陵である崇徳院の供養のための旅の途中での歌だったのですが、その後、その白峯で院の為に詠んだ歌があります。その歌を少々・・・
・松山の波に流れて来し舟は
やがて空しくなりにけるかも
・松山の波の景色は代わらじを
かたなく君はなりましにけり
・よしや君昔の玉の床とても
かからん後は何にかはせん
なお、この崇徳院についての詳しい事は、またの機会にゆずるとして、あの百人一首にある
“瀬を早み岩にせかるる瀧川の
われても末はあはむとぞおもふ”
の作者でもあり、白河法皇と侍賢門院との間に出来たお子様であるとも噂されている皇子でもあったのです。
まあ、そんなことは兎も角として、西行は栄西禅師と同時代の人ですから。折角、渋川まで来たのですから、「私の町吉備津」に生まれた栄西のお宮「吉備津宮」にお参りされてもよかったのではと考えられますが、彼があまり禅宗には関わっていなかったのかも知れません。また、考えようによっては、西行は慈円とのかかわりが深かったようですから。その慈円が栄西を大層批判していたので、その関係かどうかは分かりませんが、吉備津には立ち寄ってはいません。
また、明日からは「古事記」に戻りますので読んでくだしね。よろしくね!!!!!!??????
西行が詠んだ「日比・渋川」や「真鍋」の歌は、彼が四国白峯の御陵である崇徳院の供養のための旅の途中での歌だったのですが、その後、その白峯で院の為に詠んだ歌があります。その歌を少々・・・
・松山の波に流れて来し舟は
やがて空しくなりにけるかも
・松山の波の景色は代わらじを
かたなく君はなりましにけり
・よしや君昔の玉の床とても
かからん後は何にかはせん
なお、この崇徳院についての詳しい事は、またの機会にゆずるとして、あの百人一首にある
“瀬を早み岩にせかるる瀧川の
われても末はあはむとぞおもふ”
の作者でもあり、白河法皇と侍賢門院との間に出来たお子様であるとも噂されている皇子でもあったのです。
まあ、そんなことは兎も角として、西行は栄西禅師と同時代の人ですから。折角、渋川まで来たのですから、「私の町吉備津」に生まれた栄西のお宮「吉備津宮」にお参りされてもよかったのではと考えられますが、彼があまり禅宗には関わっていなかったのかも知れません。また、考えようによっては、西行は慈円とのかかわりが深かったようですから。その慈円が栄西を大層批判していたので、その関係かどうかは分かりませんが、吉備津には立ち寄ってはいません。
また、明日からは「古事記」に戻りますので読んでくだしね。よろしくね!!!!!!??????