私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

宿禰の門前にて。

2016-05-06 10:32:41 | 日記

 軽太子側と穴穂御子と戦闘状態に突入します。弟君の方が優勢だったのでしょうか、先に攻撃を開始し、兄君逃げていた大前小前宿禰の家を取り囲みます。その時、俄かなる大冰雨が降り出します。すると、弟君の軍隊は、あろうことか、敵である宿禰の家の門の軒下に雨宿りをして、雨が止むのを待つのです。

 さて、この両軍の次なる戦術はどうなりましょうや??? 戦法としては、弟君側からすれば宿禰の家に火を放てば、手っとり早い完全勝利の道筋で済むのですが、そんな戦術も取られてはいません。冷たい大雨が降り続くだけで静かに時が流れます。ただ、大前小前宿禰は、古事記には、

 “挙手打膝。儛訶那傳 歌参来<テヲアゲ ヒザヲウチ。マヒカナデ ウタイマイク>”

 と、書いてあります。
 手をかざしたり、膝を打ったりしながら、踊るようなしぐさをし、歌を歌いながら穴穂御子の前にやってきます。なお、古事記伝には、この“打膝”について、「おもしろく楽しむ時の態(わざ)」であると説明しております。
 これから両軍が戦闘に突入しようと云う直前の事なのです。どのような結果になるか判然としております。軽太子はいかにしておられかも何も説明はありませんが、これでは戦争にはなりません。そのような味方の軍の戦闘態勢をあらかじめ察知していたのでしょうか、それとも、急に降りだした大冰雨に、ご自分の運命を、見据えられていたのでなないでしょうか

  


ゴールデンウイーク最後の日です。

2016-05-05 17:53:51 | 日記

 子供の日です、朝から爽やかな五月晴れです。昨日の今日です。緑は一際輝いています。「風光る」というのは季語かどうかは知りませんが、まさに、目にするすべての物が一段と華やかに光っております。

 さて、今日は「こどもの日」です。我が家でも孫どもが4人もおりますが、その成長を願って、もう50年近くも、毎年、五月飾りを出しております。岡山で昭和19年82歳で没した私の好きな女流画家の「波多野華涯」の鯉の絵と一緒にです。

 

 黄色い花菖蒲とオモイカネノミコトのお面も一緒に。どうでしょうか


みどりの日

2016-05-04 17:01:34 | 日記

 今日は朝から強風が五月空を吹き荒れておりますが、辺り一面は緑で覆い尽くされているかのような感じです。その緑を見つめておりますと、つい時間のたつのを忘れそうにさえなります。その緑を我が家のちっぽけな庭からご紹介します。

 まず、椿の葉っぱです。
 何と形容したらいいか分からないような、それこそ、「これが緑だ」と主張しているように思われます。今の時は椿の緑が一番です。
             

 次は、鷺草のわずかに出した緑若芽です。周りの緑に羞じいるようなちっぽけな緑ですが、それでも自己主張を十分しております。
            

 そのほかに、まだ花を咲かせてないサツキもトサミズキも椿に負けじとその緑をいっぱいに見せております。

                 

  


疑問だらけの穴穂御子の戦術ー戦いなき戦いー

2016-05-03 10:01:07 | 日記

 此の二人の兄弟でお互いに兵器の種類は違っていたのですが、戦闘準備をします。機先を制すべく、まず、行動を起こしたのは弟君の方です。鉄製の戦闘用の矢じりを用意したくらいですから最初からその気があったのではないでしょうか・・・。兄君の方と云えば呪術には長けていたのですが、実際の戦闘に慣れていなかったはずですから機先を制するなんて戦術は知らなかったのではないでしょうか。まず、

 ”於是穴穂御子興軍<ココニ アナホノミコ イクサヲオコシテ>”

 と、古事記には書いてあります。

 軍を率いて軽太子の逃げ込んだ大前小前宿禰の家を取り囲みます。すると、どうでしょう。此の宿禰は呪術が専門の家です。どう占ったのかは分かりませんが、弟君の軍隊がその門前に現れた時に、俄かに、大空が掻き曇り、”大冰雨<ヒサメ>”が降り出したのです。冷たい雨が豪雨となってです。
 攻め込んでいた弟君の軍隊も、急に降りだした冷たい氷雨をどうすることもできません。その時、普通ならそんなことと思われるようなことを、弟君の軍隊は、平気でしたのです。それは、その軍隊を敵方である宿禰の家の門の屋根の下で雨宿りをさせるのです。そこには戦闘も何も起こってはいません。静かに敵である弟君の兵隊の雨宿りを許したのです。

 こんなことって考えられます??? そんなことが行われたということは、この弟君の軍隊も、何かいわく因縁がありそうだとは思われません???此の両郡の間には、初めから激しい戦いなどは考えてはいなかったのではいかと思われる様な、静かな戦いなき戦いだったのではないでしょうか? 事前に何か両軍の首脳の間には話し合いがあったのではんないかと思われる様な争いではなかったのでしょうか。


木梨之軽王の用意した武器がなぜ銅製だったのでしょうか???

2016-05-02 17:18:29 | 日記

 允恭天皇の死後、当然、長兄軽王が次期天皇になることに決まっております。でも、その妹との関係から。二人の同母の兄弟皇子が、図らずも、相対立することになり、戦闘準備に入ります。でも、弟穴穂御子の方が作った武具から行っても、戦術的にも勝れており、また、臣たちの信望も高く、その勢いは誰の目にも弟君の方が優勢です。
 そのような情勢から、兄軽王<カルノミコ>は大前小前宿禰大臣<アホマエヲマエノスクネノオミ>の家に逃げこみ、助けを求めます。この大臣について、本居宣長は、詳しくその出身(家)に付いて説明していますが、あまり込み入っていますので省略しますが、物部氏の一族であるのです。

 この軽皇子が逃げ込んだ物部氏は、5世紀の初めには、朝廷の軍事力の一翼を大伴氏と共に担っていた大部族ですが、と同時に、呪術の役割も担っていたのです。そう考えると、軽皇子が逃げ込んだ大前小前宿禰という人は、当時、物部氏とは言っても、朝廷でその呪術の職務を担っていた家ではなかったのかと考えられます。
 そう考えると、この矛盾が解けるように思えるのですが。どうでしょうか???
 
 誰も、この事件に付いて触れている人はいないのですが、軽皇子側が用意した武器が銅製の祭紀用の矢じりであったという理由がそれで説明できるのではないかと思われます。