私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

軽太子は伊予に流されます。

2016-05-12 13:35:40 | 日記

 別れに当たって軽太子は、また、妻でもある妹の軽大郎女に、人づてにだと思いますが、その惜別歌を三首も送っていますが、余りくどくどなり過ぎますのでこのあたりで。

 それに対して衣通姫も軽太子のことを心配して、やはり歌を歌って送っています。

  この時代でもそうですが、古来から、どうも日本人は、どうしてかは分からないのだそうですが、和歌がその生活に入り、常に人々の間で行き来していたようです。万葉集に於いても見られるように、あの東歌みたいに生活の一部の中に入り込んで、それがなくては生きていけないかのような状態を作り上げていたのではないでしょうか。

 その軽大郎女の歌です。

 ”夏草の 阿比泥<アヒネ>の浜の 貝<カキガイ>に 
  足踏ますな 明かして通れ”

   伊予の国の海岸を通る時に、かきの穀で どうぞ 貴方の足にお怪我がないように、十分にご注意なさってお通りくださいな。という意味ですが、「阿比泥<アヒネ>の浜」という所は、現在、伊予の国にはないということですが、どうしてこんな名前がここに登場したのでしょうかね。知っている人は教えてください。
 でも、まあ、そこまで、衣通姫が、兄でもあり夫でもある人の事を心配しながら、その別れに際して、兄の姿が直接には見えなかったのではと思いますが、心が張り裂けんばかりに歌ったという状況が完璧にまでに描き出されていると思います。声に出して、もう一度御読みいただくと、その辺りの感覚がよく理解できると思いますので・・・・


衣通姫に送った哀歌 “伊多那加葉”・・・

2016-05-11 10:07:43 | 日記

 大前小前宿禰の家を取り囲んで、今にも、ご兄弟の戦いが始まりそうになった時、その戦いの原因になった衣通姫は何処にいたと思われますか。軽御子と一緒に宿禰の家にいたのです。もうこれ以上、どうすることも出来なくなってしまった負け戦です。軽御子は宿禰に従って弟の穴穂御子の前に連れて来られます。

 古事記には、その直前に(自分の命が以後どうなるかも分からない時にです)軽御子は、それまでご一緒にいた最愛の妹でもあり自分の妻でもあった衣通姫、「軽大郎女」に、

 “伊多那加葉<イタナカバ 甚泣かば>”

  「そんなに大声を出してしきりに泣いたならば」というぐらいの意味です。”知りぬべし” 「私たちの間の事をまだ十分知ってない人にまで知れてしまうではないか。」

 もし泣くのであれば、私のように

 “斯多那岐爾那久<シタナキニナク>  「下泣きに泣く」(心の奥底でしっかりと泣いて下さいな、恋しい我が妻よ」です

 このように歌を読んで、衣通姫に惜別の哀歌といいましょうか、そんなに悲しんで物思いに沈まないでください。しっかりと生きて行って欲しいよと云う思いを伝えるべく、送っているのです。

 そして、宿禰が望んだとおりに、伊予の湯の町に一人流されて行きます。

 


“必人笑”と

2016-05-09 09:49:42 | 日記

 大前小前宿禰は申上げます。

 “若及兵<モシセメタマハバ>”

 もし、あんた様がこのまま兄上を攻め滅ぼされるなら。
 
 “必人笑”

 実の兄を殺してしまうような極悪非道な人だと人々は謗り嗤うでしょう。「そのような事をしないでください。どうぞお願いします」と懇願するのです。更に

  “僕捕以貢進<アレ トラエタテマツラムト マヲシキ>” 

 とも。「私めが軽王をお捕えして、貴方様の御前に(“貢進”)連れて来ます。」と申し上げたのです。

 このことについて、本居宣長は、この“貢進”という2文字からだと思うのですが、大前小前宿禰が、その時の戦況の察知して、急に、心変わりをして弟君の側に寝がえりをうち、既に、屋敷の何処かに軽太子を軟禁していたのではと推測していますが、私はこの説にはどうも納得がいかないように思えるのです。そんなに簡単に心変わりが出来るような人ではないように思えます。軽御子が小さい時から信頼を寄せていた人です。やはり、どうしてもお命だけでも御助け出来ないかと願って、心を鬼にしての宿禰のお芝居に近い演技、それが“貢進”という言葉ではなかったのではないでしょうか???

 


宿禰は穴穂御子に謹んで申し上げます

2016-05-08 19:56:20 | 日記

 大前小前宿禰は、その主人、軽王に申上げます。
 「もう、どうしようもありません。弟君に掛け合って参ります。お命だけでも長らえていただきたく。あの妹君〈軽大郎女>も随分と気を病んでいらっしゃる事だと思います。先ずは、御命をお大切になさいませ。」
 と、何か言いたげな軽太子を尻眼にその場から退き、穴穂御子のいますその門前に馳せ参じます。そして、我が家門前に冰雨を退避している弟君に面会を請います。

 その時、まず、発した大前小前宿禰が言葉を「古事記」には、次のように書いております。

 “我天皇之御子”

 とです。普通なら、その時には、まだ、次期の天皇は決まってはいません。でも敢て、宿禰は、高らかに、

 ”我天皇”

 と呼びかけております。この宿禰は、どうにかして軽王の「お命」だけでもという考えがあったのでしょうか。考えて考え抜いた弟君と交渉の幕が切って落とされます。

 このような読みを私はするのですが、皆さんはどうこの物語を御読みになさいますか??_


大前小前宿禰は穴穂御子の前に

2016-05-07 09:37:14 | 日記

 雨宿りしている穴穂御子の前に大前小前宿禰は”参帰<マイキテ>”と書かれております。“参来<マイク>”ではないのです。「参帰」は「帰服<マツロヒテ>」で、従う、服従するという意味です。どのように穴穂御子の前に進み出たかということが、この「参帰」というたった2文字から、その時のその門前の風景までもが読む者をして納得させます。つい「うまい」と言わざるを得ないような書きぶるですね。どう思われますか???

 そして、穴穂御子の前に、「参帰」そうです、恭しく進み出た宿禰は“曰之<モウシケラク>

 “我天皇之御子<アガオホキミノミコ> 於伊呂兄王<イロセノミコヲ> 無及兵<セメタマフナ>”

 と。そして、重ねて進言します。
 「もし、今、貴方の実兄を攻め込んで、殺しでもしようものなら。、世間の人は何と云いましょうか。“必人笑<カナラズ ヒト ワラワム>”

 なお、此処に書かれている“無及兵”について、本居宣長は「セメタマフナ」と訓じさせていますが、他に、「ナミイクサシタマヒソ」などと宣長より異なった読み方をしている人もいます。