私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

 夏に羹汁が凍るのです

2016-07-10 07:53:39 | 日記

 羹汁が“凝以為氷<コフレリ>”突然に凍りついてしまったのです。大変驚かれて、早速、そこら辺りが5世紀の初めです。

       “天皇異之卜其所由“

 その理由を占わせたのです。その結果について、卜者は言います。
  「はい。これは内に乱れがあるというしるしです。それは、同母の兄妹の相姦があるというしるしてす」
 この場合「姦」は「姧」となって<タバケル>とルビが符って有ります。それを聞いていた家臣の一人がいいます。

  「太子<ヒツギノミコ>と軽大郎皇女<カルノオホイラツメノヒメミコ>が姧<タバケ>賜へり」
 と云うのを聞いて、調べてみると

     “辞既実也、イフコトスデニ マコトナリ>” 

 その結果、太子は天皇の世継ぎです。“不得罪<ツミスル コトヲエズ>”出来なくて、軽大郎皇女を伊予の国に流したのです。

 これもまた、古事記とは違います。女性の方が、男性側でなく、罪を受けております。どちらにしても、結局、此の二人の愛は悲劇に終ってしまいますが、古事記のように自殺したとは書いてはおりません。


もう一つの記紀の記述の違いが・・・

2016-07-09 09:46:56 | 日記

 <アシヒキノ ヤマダヲ ツクリ ヤマタカミ・・・・>と皇子が歌った時には、まだ、この二人が相姦した事実は誰も知り得ていなかっし、人々の間にも噂だになっていなかったのです。でも、話はそうそうは順調に運ぶ訳には行きません。
 二人が相通じたのは、天皇の二十三年の春三月七日です。そして当分は何事もなかったかのように月日が流れます。度々この二人は「逢い引きした」という噂ぐらいは、当然、立っていたと思われますが・・・

 しかし、二十四年夏六月に、誠に奇妙なある事件が起こります。それを日本書紀には

         “御膳羹汁凝以為氷<ミユエノ アツモノ コホレリ>”

 そうです、天皇の食事を差し出したところ、お膳に有った羹(味噌か?)汁が、時は「夏」ですのに、何故が突然に凍りついてしまうのです。それは誰だってびっくりします。現代ではないのです。五世紀の初めの頃です。どうなりましょうや。あなたならどうする???????

 

なお、この事については、古事記には、その記述は有りません。念のために!!!!


「津」と「泮」どちらかな????

2016-07-08 14:07:36 | 日記

 くどくどしすぎるかもしれませんが、もう一つ此の「アシヒキノ ヤマダヲ ツクリ・・・」の木梨軽王の歌についてよく分からない点がありますので書いてみます。

 というのは、此の歌の最後部部ですが、私の持っている天保期の本には

              “椰主區【津】娜布例<ヤスク ツタフレ>”

 と出ていますが、インターネットによると、その部分は

              “椰主區【泮】娜布例<ヤスク ハダフレ>”

 と、なっています。「津」・「泮」とどちらが正しいのかは私には判断がつきかねます。これについて、宣長のように、「泮」としなければいけない所を、「津」と間違って写したのだと断言はできません。その間違いを証明する何ものの私は持っていませんので。どうでしょうかね???皆さんはどう思われるでしょうか。意味からすれば<フ>の方がいいのではと思われますが。

 

 それはとにかくとして、記紀の何れにも、この同母兄妹が相通じたと言う記事が見えますので、史実としては有ったことは間違いない事だと思います。衣通郎女が天皇の妃であったのか、それとも娘であったかの別は違いはありますか、大変な美女であったことには違いありません。美しさが着物を通しても見えると言う美女なのです。今まで日本のの女性の中で、そんなに美しい人がいたでしょうか。原節子や京マチコだって側にも寄れないような美女だったのだと思うのですが???。 

 そのような身分の高い美女の短い生涯が、日本の歴史を動かすような一大事件を引き起こしたのには間違いありません。それをこの二つの歴史書は高々と歌っているのですが、それほどの皇女ですのに、その名があまり日本国中に知りわったってはいないのです。どうした訳でしょうかね。是も日本歴史の盲点なのでしょうか。


古事記と日本書紀の違い

2016-07-07 09:58:19 | 日記

 昨日取り上げた軽王の妹に送った歌ですが、古事記にも同じ歌が出ています。あまり違いはありませんが。少々気になる部分のありますのでその歌と比較してみました。
 
 書紀には

    「あしひきの 山田を作り、山高に 下樋をわしせ 
    下泣きに 我が泣く妻 片泣きに 我が泣く妻
    こそこそ やすく肌触れ」

 とありますが、それが古事記には

    「あしひきの 山田を作り、山高み 下樋を走(わし)せ
    下問ひに 我が問う妹を 下泣きに 我が泣く妻を 
    今夜こそは やすく肌触れ」

 と、殆ど同じですが 最後にある“コソコソ”と“コヨイ コソハ”の違いについて少し説明を加えておきます。、“去曽去曽”、“許存許曽婆”になっています。古事記伝では、本居宣長は“許存許曽婆”の「存」を「布」と誤って写したものだと断定して、これを<ケフィコソハ>(今日こそは)と解釈しております。一方、書紀では、それを“去曽去曽”と書いて、これを「こぞこそ」と読まし、「こぞ」で「昨夜」と解釈しているようですが(旺文社古語辞典より)

 


罪より恋が重し

2016-07-06 06:52:02 | 日記

 我慢に我慢を重ねても、やはり恋心の方が重たかったのです。とうとう軽王は想いに至るのです。

   “然感情既盛 殆将至死”椰主人

 しかし、愛しいと思う心は 死なんばかりに燃え上がった時に思われます。

  “徒空死者 雖有罪 何得忍乎”

 徒に空しく死するより たとえ罪ありといえども どうしてこの恋心を抑えることができようか<ナンゾ ジノビエンヤ>」 と。

 そして、その心は、直接行動としてすぐ現れるのでした。

                    “遂竊通<ツイニ ヒソカニ タワケテ>”

 その時に詠まれた皇子の歌があります。

 「あしひきの 山田を作り、山高み 下樋をわしせ 下泣きに 我が泣く妻 片泣きに 我が泣く妻 こそこそ やすく肌触れ<椰主区津娜布例>」

 です。「易く、安心して、お前と私のお互いの肌を触れ合おうじゃあないか。」と云う意味です。何と楽しげな、その結果などについて何の心配もしてないような、満足しきった、何と、おおらかな歌でしょうか。私の好きな歌の一つでもあるのです