私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

3度目の“斯多爾<シタニ>”です

2018-01-13 10:33:24 | 日記

 セスリヒメは“阿夜加岐<アヤガキ>、“牟斯夫須麻<ムシブスマ>“に続いて、3度目の

               “多久夫須麻<タクブスマ>”

 の「下に」とオホクニに語りかけております。「多久<タク>」は木綿<ユウ>の一種で、此の若木から白色の布が作られるのだそうです。「栲」とも。でも、現在、一般に解釈されているような「楮」ではありません。その布が

              “佐夜具賀<サヤグガ>斯多爾<シタニ>”

 です。「さやさやとさやめく」ですから、「真っ白い布が周り一面にふんわりと垂れ下がり、えもいわれぬさわやかな音を立てながら揺れっている下で」と云う意味になります。

 「①美しい彩りのしてあるカーテンがふわりと垂れ下がり周りからは静かで隔離されており、②絹織物の暖かい寝具が柔らかに敷いてある、③更に、その周りには真っ白な布がふわりとかかっておる清らかな」

 この3つの「<斯多爾>」と呼びかけます。この誠に美しい風景の場所で、一体、セスリヒメは何をしようと云うのでしょうか????


”牟斯夫須麻爾<ムシブスマニ>” 

2018-01-12 08:52:06 | 日記

 更に続けて、スセリヒメはその美しい声で誘惑するように、

                ”牟斯夫須麻爾<ムシブスマニ>”

 と、歌います。
 この「ムシブスマ」について、また、今日も知ったかぶりをして説明します。お退屈でしょうが・・・・
 こr4えについて宣長は
 「蒸被<ムシブスマ>にて、暖なるよしの称なり。物をあたたむるが本ノ義(こころ)なり。」
 といっておりますが、広辞苑などの辞書によりますと 、このほか
   ①「ムシ」とは「からむし」の繊維で作った寝具
   ②「ムシ」とは「蚕」のことで、絹で出来た寝具
 と云う意味があり、「気持ち良い暖かな夜具の敷いてある」ところ、「爾<ニ>」です。さらに、そこは

              “爾古夜賀斯多爾<ニコヤガシタニ>”

 <ニコヤガ>は「柔やか」です。柔らかいふんわりとした、その“斯多爾<シタニ>”です。この<シタニ>は、らに続けて、次にも歌っておりますが、またまた、それは明日にででも。その下で、一体、スセルヒメは何をしようと云うのでしょうかね・????少々エッチなことをです。 


再び“布波夜<フハヤ>”について

2018-01-11 08:58:05 | 日記

 昨日、<フハヤ>「カーテン(文垣)」がゆらりと靡く下で」と説明したのですが、念のためにと、宣長の「古事記伝」を見ました。すると。そこには「文垣が風もないのにゆらゆらと揺れ動く」のでななく

     ”布波夜は、俗ノ言に、布波理<フハリ>とも布波布波<フハフハ>とも云詞にて、此は床の周<メグリ>に、帷帳<トバリ>などの讕<スソ>の布波理<フハ
      リ〉と掛りたる下に、と云るなり”

 と書いてありました。亦、広辞苑には「ふわふわしていること。または、そのもの」 と。
 これからもわかるように、昨日説明した「ゆるりとたなびき動いている処で」と云うのは間違いで、「ふんわりと垂れ下がっている処」です。      


続けてヒメは歌います。“阿夜加岐能 布波夜賀斯多爾”

2018-01-10 09:00:19 | 日記

 「あなたを置いて、他に夫はいません。」と優しく呼びかけます。普通なら、これで総てが解決されて、後はめでたしめでたしとなる所ですが、スセリヒメは、さらに、これでもか、これでもかと、オホクニに愛の言葉を送ります。これが、また、何を云っているのか分からない上古之言葉で

                “阿夜加岐能<アヤガキノ> 布波夜賀斯多爾<フハヤガシタニ>”

 と。
 「あやがき」とは「文垣」で(「綾垣」としている学者も)、今で言う「カーテン」で、太めの絹で出来た色どりを施した織物と廻らした物です。「カキ」とは周りから隔離した場所を言い、「カキ」が動詞化され「カキル」、それが「限る」と云う言葉になったのです。また、「フハヤ」とは「ふわりと揺れ動いているフ様子」を言う言葉だそうです。(広辞苑より)
 
 そこら辺りの庭に美しい彩りのしてあるカーテンを廻らせて、そのカーテンがふんわりと揺れ動いている」”斯多爾<シタニ>”場所でと、呼びかけているのです。 


女にあれば・・・

2018-01-09 09:35:57 | 日記

 これからが「須勢理毘売」のオホクニを慕う真心の現れている歌です。ゆっくりと訴えるように静かに歌います。

             “売邇斯阿禮婆<メニシアレバ>”

 「女であるから」と言って、更に、「あなたを置いて」と。

             “遠波那志 <オハナシ>”
             “都波那志<ツマナシ>”   

 「男の人は誰もいません。夫と呼べるような人は誰もいません。私にはあなたしか頼れる人がいないのです。」と、。己の哀れ身を乞うように歌うのです。これだけのスセリヒメの愛の言葉を聞くと、如何にオホクニであっても 、その妻を置いて倭になんか行けるものですか。すぐに、ヒメの前に行って強く抱きしめ、強くキスをするのが、映画では当たり前のシーンになるのですが。・・・・・