私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

武内宿禰とは

2018-02-09 09:55:32 | 日記

 毎度のことですが、またちょっと寄り道です。この「武内宿禰」ですが、普通であるならば考えられな意くらいの長寿の人です。日本書紀によりますと、この人の名前が出てくるのは景行天皇の時です。

 ある時天皇は宿禰を呼んで、東方の国々を視察させます。視察を終えて
 「東国に日高見国があり、体に入れ墨をしており、蝦夷と呼ばれており、大変肥沃な土地です。攻略しましょう」
 と報告します。その報告によって、皇子の大和武尊とその副将として吉備武彦を添えて蝦夷征伐をします。

 これが初めて歴史にと登場する「武内宿禰」の初仕事です。それから、この人は、次々と仁徳天皇の時代まで日本の政治の表舞台で大活躍しております。その活躍を簡単にまとめてみますので、果たして、何歳位まで天皇のお傍で活躍したのか興味がある方はお読みください。


母親の愛か??

2018-02-08 09:35:31 | 日記

 沢山のササを飲まされた皇子(応神)はどうなったのでしょうか。この事については未だかって誰も其の事については触れたことはありません。あの宣長だってです。80の厚顔の年寄りの新説ですがお聞きください。

 近頃(と言っても4月頃)になると、時々新聞紙上で、大学の新入生歓迎パーテーでの、
       「急性アルコール中毒患者」
 を輸送する為の救急車が出動したというニュースが、よく報じられますが、今まで飲んだことが無いアルコールが一気に体に入ると、要するに、酔っぱらってしまって前後不覚の状態に陥り、病院に輸送されることが起こるのです。

 この誉田皇子の場合は、皇子は、まだ、幼い5,6歳の子供です。それを縒りによって、一滴も残さずぐいぐいと飲ましたのです。その時の皇子の状態が、どのようになったかは手に取るように分かります。その場に倒れてしまい起き上がることすらできません。神功皇后が母親とは云え、不敬で罰を受けても致し方の無い状態に陥ってしまったのだと、私は何時も想像していたのです。悪くすると、死罪さえ給わりかねない状態です。一大事件ですが、その時、皇子を補佐していたのが、あの「武内宿禰」です。その事を察知したのでしょうかその場を丸く収めてこの急場を凌ぎます。

 と、ここで、またまた、横道にばかりですが、どうしても説明しておきたいことが起りましたので、その道の中に、毎度のことですが、入って行きますがご勘弁を???お分かりだとは思うのですが「武内宿禰」のことです。


神功皇后は幼子に酒を飲まします。

2018-02-07 14:28:42 | 日記

 古事記によると、昨日、書いたように「神功皇后」はまだ年端もいかない幼子にお酒を与えて、

               “阿佐受 袁勢 佐佐<アサズ オセ ササ>”

 「アサズオセ」って何でしょうか???そこでまた宣長先生の御高説を賜りたいとページをめくってみました。「なるほどそうか」という説明があります。それによりますと、川などの水が無くなり涸れることを「阿須<アス>」と云うのだそうです。だからこれは

   「御盃を乾涸<カワカ>さず引き続き飲み賜うへ」

 という意味になるのだと。
 しからばと、それを確かめるわけではないのですが、広辞苑を覗いてみますと、<アス>は「浅す>で、金槐集州に

            ”山はさけ海はあせなむ世なりとも・・・”

 と詠み込まれている事からも分かるのだそうです。
 次の<オセ>は

                  ”飲めなり”

 とあります。
 スクナヒコナ神が、折角、常世の国から持ってきてくれたお酒ですからと、幼い子供に強制的に飲ましたのです。それも「全部」飲みなさい」というのです。現代だと、飲酒法違反で、なんてひどい母親だろうと世間の批判の的になる事決まり切った事だと思うのですが。


大和事始③

2018-02-06 09:40:26 | 日記

 好古の大和事始には、先の木花開耶姫に続いて、日本における次の酒の歴史を記しております。それによると、

      “神功皇后三韓退治ましまして帰り上ら給ひ、誉田皇子をして角鹿の気比大神を拝礼し
       にゆかしめ給う。その留守に酒をかもして待ち給う・・・」

 とあります。
 これは古事記から取っております。それを、もう少し詳しく説明します。
 古事記によりますと、此の時、皇后が造った酒を、帰り来た皇子に、歌を歌いながらすすめて飲ましたのです。その歌は

     「此のお酒は私が作った酒ではありません。
      スクナヒコナノ神がお造りくださり
      わざわざ常世からお届けくださった
      誠に貴く有難いお酒です
      どうぞゆっくりと全部お召しあがりください。」

 と歌うのです。古事記には“神壽<ホ>き、壽ぎ狂ほし 豊壽き 壽き廻<モトホ>し”と書いてあります。 この歌に続いて側にいた「武内宿禰」が神功皇后の歌に対して、幼少の皇子に代わって返歌をしております。そ之歌は、また、明日に   


又、横道へ????

2018-02-05 10:16:33 | 日記

 吾田鹿葦津姫(木花開耶姫)が、日本で、最初に、お米からお酒を作った人であると

                      

 貝原好古の「和事始」に書いてありますが、果たして、吾田鹿葦津姫(木花開耶姫)は何時頃の人でしょうか、少々気になったので調べてみました。
 
 日本書紀によりますと、天照大神の孫に「瓊瓊杵尊<ニニギノミコト>」がいます。この人を葦原中国<アシハラナカツクニ>の君主にしようと考えられて、神の国「高千穂」からサルダヒコに案内させて下ってきたのが日向の国です。そこに宮殿を立てニニギノミコトがこの国を治められます。そのコノニニギノミコトがある時、国の「笠沙の岬」を視察なさった時に出逢った美しい女性が

                “吾田鹿葦津姫(木花開耶姫)”

 なのです。此のヒメは「大山津見神」の娘です。(このオオヤマヅミも「イザナギ・イザナミ」の子供です)
 すると、この2人の出会った時代は神武天皇よりも、もっと前々の事です。どう考えてもBC1000年以上は昔のこととなるようです(神武天皇が生まれた年を、通説どうりBC712年として???)。どう考えても 木花開耶姫は作ったとされる「天甜酒<アメノタムサケ>」は、まだ、稲などは日本には栽培されてなかった遠い昔のことです。だから、おのずと、此のお酒は米からのお酒ではなかったことになりますが????どうでしょうかね 。

 「お前は、あの大学者「貝原好古」の説に反論するとはめえ度胸をしておるのう。ええかげんにせえ」とお叱りが覚悟して書いております。

                      御反論をお願いします。