私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

長々と古事記をみてきたのですが・・・

2019-11-08 08:59:51 | 日記
 神武天皇から続いて古事記を読んでまいりました。その間、令和への代替わりもありました。あの「三種の神器」とは??とも書いてまいりましたが、ようやく私の初めの計画がこれで一先ずも二先ず???も終り、次は・・・と思っているのですが、これと云った適当なことも考え浮かびません。

 そこで、「エイヨ!!!」とばかりではありませんが、先の「孝元天皇」の孫に当たる

       “建内宿禰<タケノウチノスクネ>”

 がおられますが、この人物についても、かって、少しく取り上げたことがありますが今回はこの人物をもう少し掘り下げて調べてみることにしますので、これまた、
 「お暇なら読んでみてよね」
 です。なお。この「建内宿禰」ですが、この人のお子様も、古事記によると、男7人、女2人の計9人の子宝に恵まれたのだそうです。

吉備津の秋の風景は・・・・

2019-11-07 09:01:28 | 日記
 昨日吉備津の夕焼けを見ていただいたのですが、秋酣のまた違った吉備津の風景をお見せします。
 まず初めは「吉備津神社の銀杏」です。
 どのような絵具であろうとも、決して、描き出せることのできないような真っ青の空の中に、その青さを恋するが如くに、その青さと競うかのように、緑でもない黄でもない一張羅なこの時期特有な衣裳を身に纏った銀杏の葉が秋風に翻えりながら背伸びしております。

                

                

 もう一枚は、亦、少し違った風情のある吉備津の秋の絵です。

                

あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながしき・・・

2019-11-06 17:19:14 | 日記
 やたらと多い御子達などの古事記特有の名前の多さに、随分と、頭を悩ましながら読み進めて来たのですが、この「ながながしき人の名前」からつい柿本人麻呂の歌が頭を横切ります???????・・・・・と思っているうちに、

        “天皇御年陸拾参歳。御陵在・・・・・・”

 で「綏靖天皇」から続いていた古事記の「欠史八代」とされている「開化天皇」の歴史も終了します。
 

 さて、これまで、主としてやたらと多い人名ばかりの様な歴史を八代に渡って「人麻呂」ではないのですが「ながながし」く書いてきました。明日からは、何をこのブログで書こうかなと、何気なく、窓の向こうを見ると、吉備津でも秋に数回しか見ることのできないような雄大な美しき絵が、大空のキャンバスに、でかでかと描き出されておりました。暮れなずむ空が真っ赤に燃えて、刻々と変化していく吉備津の秋万色のたたずまいがそこに展開されておりました。
 それを、今日は、ひとまず見て戴きます。

              

 西の山は吉備の名山「日差山」です。この景色を見ながら明日からの事について考えております。さて、どうするか?????

こんな名前ばかりよくぞ・・・・

2019-11-04 07:12:47 | 日記
 昨日、「その子孫の名前が次から次へと終りがなきが如くに・・・」と書いて、稗田阿礼の頭脳明晰なることに驚嘆したのですが、それが、次の「開化天皇」になると「孝元天皇」よりよりも一段と多く御子やその母親、さらに、孫に至るまでの名前が次から次へと羅列してあり、何度読んでも、ただ、字面ばかりが並んでおり、誰がどうなっているのか、その関係が余りにも複雑すぎて、とても、私の頭の中には、誰一人として、記憶として残ることができません。

 例えば、開化天皇の御子は五柱ですが、夫々の御子達の母親は異なり四人もの名前が、しかも、その出身地や父親の名前までもが、

  “娶丹波之大縣主、名由碁理之女、竹野比売。生御子、比子由牟須美命・・・”

 のように書かれております。それは、更に、その孫たちに至るまでにも続いて書かれています。それを、凡て、ここに書き写すことも、余りにも、その多さに圧倒されます。そこで、一番簡単な方法である写真に写しましたので見てください。

          

 とても、これだけの人の名前は私には覚えきれないのです。「稗田阿礼だって」と言う気がしないでもないのですが????現代に生きていたら文化勲章は、勿論、ノーベル賞物だと思われるのですがどうでしょうかね。

孝元天皇の時に「皇太后」という称号が・・・・

2019-11-04 07:11:49 | 日記
 「孝元天皇」“大倭根子日子国玖琉命<オホヤマトネコヒコクニクルノミコト>”
 は孝霊天皇の第一の皇子(大吉備津彦命の兄)です。この天皇の歴史も、それまでの天皇と同じように、天皇の后とその子孫、孫に至るまで、延々と、これでもかこれでもかと言うように、誠に、詳しく書き遺して居ります。(それが欠史八代の証拠ですが)
 しかし、此の天皇の段を読んで、ただ、一つだけはっきりとわかるのは、この孝元天皇の孫に

            “建内宿禰”

 がいることです。(なお、この名前は日本書紀には見当たりませんが)

 これも余残事ですが、日本書紀には「孝元天皇」が母「細姫」を、父「孝霊天皇」の死後、特別に尊びて

           “皇太后”

 と言う名で呼んだとあります。
 この「皇太后」という称号は、先の天皇の崩御に伴い、その皇后に与えられた特別な称号なのです。
 先日行われた「令和天皇」の即位後、先の皇后「美智子妃殿下」が「美智子皇太后」と呼ばれる様になったとの報道がありましたが、今回の場合は、天皇の崩御に伴う皇位継承ではないのですが、この「皇太后」と言う称号か使われるようになったそうですが、この称号も「孝元天皇」以来の2000年以上もの永い歴史ある伝統の称号だと云うことが分かります。
  
      歴史って面白いものですね