私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

アマテラスは大層怒ります。

2019-11-13 15:07:10 | 日記
 筑紫の海の西の方にはどんに目を凝らしても島すら見えません。国などとんでもないことです。ただ、限りなく大海が続いておるだけです。それを見られた「仲哀天皇」は
 
     “謂為詐神而<イツハリセス カミト オモホシテ>
 
 と、手元に置いていた神の為に奏でる御琴もひかず、黙って、その場に放心したように居るだけです。
 当り前に考えると、筑紫の国から外国が有る筈がありません。大海原の向こうにこそ国があるのが普通なのです。仲哀天皇に見える外国なんか有る筈がありません。そんなことが分からなかったのでしょうかね。あの日本武尊のお子様ですがね。まさか、自分の后が放心したように“帰神<マムガカリ>”したのを見て驚き、平常心が無くなったのでしょうか???神に対して
   「偽り事をおっしゃって!!!」
 と不敬なことを考えられたのです。更に、琴を神にお聞かせしようと準備していたにもかかわらずです。手にも掛けないのです。ただ、黙ってその場にいるだけです。その一部始終を天から見ておいでであったのでしょうか、神は

           “大忿詔<イタク イカラシテ>

 さあ、どうなりましょうや??その場には建内宿禰がいたのですから、神と天皇の間を取り持ちでもすればいいのではと思うのですが・・・・

 さて、その結果は????


 

天皇は建内宿禰をして・・・

2019-11-12 08:30:57 | 日記
 昨日書いたように、“請神之命”「神の命令は如何にと」と建内宿禰に神懸りをさせますが、この神とは、いったいいかなる神だと思われますか????

 上代においての天皇の行われる政治は、先ず神の御心を尋ねて、その命<ミコト>によって行われていたのです。それを如実に物語っているのが、あの邪馬台国の卑弥呼による政治です。この時代はまだ本格的な政治組織は多々なわれてなく、漸く大臣<オオオミ>の制度が整ってきた時代です。凡てが「占」によって決定されてきたのです。
 先日行われた新天皇の大嘗祭の際に新米が神に捧げる儀式がありましたが、その新米を育てる田(主基・悠紀)を決める時に亀トによって決められますが、この儀式は上代日本の政治形態が現代にまで引き継がれてきた名残りなのです。

 さて、この上代での「請神之命」の神とは一体誰なのでしょう。そんな疑問が湧いてきます。
     さて誰でしょうか??????

 高天原に坐します中心の神にですから、天照大神ではないでしょうか??三種の神器の中の鏡も天照大神の御霊ですから、常に天皇とご一緒に寄り添っているはずですから、そのお告げを受けるのが天皇の仕事でしょうから????どうでしょうか。

"西にある国を攻めよ”とのお告げです。

2019-11-11 07:27:56 | 日記
 建内宿禰が、熊襲との戦いに対する
        “請神之命<カミノ ミコトヲ コヒマツリキ>”
 すると、その答えが天皇の大后から返ってきます。
 「西の方にある国に行って

     “金銀為本。目之炎燿種々珍宝”
      <コガネシロガネヲハジメテ メノガガヤククサグサノタカラ>
 
 を持ち帰ってきなさい。」
 と。要するに、神からの返事は、
 「今、国内で争い事などはしないで、外の国に行ってそこから金銀財宝を持ち帰って、まず、国を富ますことが大切ですよ。」
 とお告げがあったのです。
 そのお告げを聞いた天皇は、早速、高い場所に登って、西の方を見られたのです。しかしそこには海ばかりで、国土は見えません。そこで天皇は
 「神様って、何てうそつきなんだろうか!!」
 と思って、神にお聞かせしようと思って準備していた

    “押退御琴。不控。<ミコトヲオシノケテ ヒキタマハズ>”

 その様子を神は天から見ておられ、激しく怒られます。

 さて、この結果はどうなりましょうや???


 

仲哀天皇の時代の建内宿禰は・・・・

2019-11-10 09:30:49 | 日記
 「成務天皇」は95歳で亡くなっているのですが(在位60年)、それにしては記録があまりにも少く、どのような政治がなされたかは不明です。あの「日本武尊」の弟です。此の天皇にも御子が一人いたと書かれていますが(書紀にはなし)は早世したのでしょうか、次の天皇は日本武尊の御子
        “帯中日子天皇<タラシナカツヒコノスメラミコト>”
です。「仲哀天皇」です。

 此の天皇の時、どうしてかは分かりませんが、今の山口県の「豊浦宮」や福岡県の「訶志比宮」に宮殿を造って天下を治めます。(大和から離れた場所です)
 その大后は
        “息長帯日売命<オキナガタラシヒコノミコト>”
 「神功皇后」です。
 
 ある時、天皇は謀反を企てた九州の熊襲族を征伐することになり、建内宿禰に宮殿前の庭で、神に戦勝を占いさせます。そのお告げが、どうしたことか、
     
     “於是大后帰神<ココニ オホギサキ カムガカリシテ”

 神功皇后の口を通して返ります。

 「ここから西の方に金銀が一杯ある国がありからそこへ行って、その宝物持ち帰ってきなさい。」

 と、熊襲征伐の事ではなく「西の国にある金銀財宝を取れ」が神からの占い言葉です。それを聞いた天皇は・・・・

  まあ、しばらく此のお話の続きをお聞きください。 

建内宿禰・・・・

2019-11-09 12:47:34 | 日記
 建内宿禰は孝元天皇の孫に当たられるお方ですが次にこの名前が出てくるのは

          “成務天皇”

の時からです。と言っても孝元からこの成務までは四代後の天皇で、時は310年も経過しております。その成務天皇の御代に

          “建内宿禰為大臣”

 「タケノウチスクネを大臣<オホオミ>に任命した」のです。また、この天皇の時代に、後の世の日本国家の基となる

       “国造<キニノミヤツコ>”“縣主<アガタヌシ>”

の制度が整い、少しずつ強大な中央集権的な近代国家の姿が芽を吹いていくのです。

       “亦定賜国国之境”

 とあり、日本における地方行政の範囲が定められた最初ではないかと思われます。また、古事記には書かれてはないのですが、これなどの政治制度の基礎が建内宿禰などの指導のもとにこの時代に初めて造られたことを窺わせるのではないかと思うのですが????