私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“一具喪船<モフネヲ ヒトツソナヘテ>”

2019-12-23 12:46:26 | 日記
 神功皇后が倭の不穏な空気を察して準備したのが

       “喪船”

 です。柩を乗せる船です。わざわざ死人を載せるために作らせた特別なる舟です。その船はどのようなものか具体的には分かりませんが、古代の人々がその船を見ると死人を乗せて運ぶと云うことが分かるように特別な船であったことは分かりますが。
 筑紫で作らせたその船で倭まで帰って来たのです。しかし、その船には生まれたばかりの御子(後の応神天皇)を乗せて

       “先令言漏之御子既崩”
   <マヅ ミコハハヤク カムサリマシヌト イヒモラサシメタマヒキ>

 「新しくお生まれになった御子は早くもお亡くなりになて、この船に積んで帰っているのです。」と『言漏<イヒモラス>』「噂を言いふらしながら」倭まで帰って来たのです。勿論傍には母親である神功皇后も建内宿禰も一緒だったことには違いありません。生まれたばかりの御子ですもの!!!

 この噂を聞いた御子の異母兄である「香坂王」と「忍熊王」は、密かに、神功皇后を亡き者にしようと計画を立てるのです。そして、まず行ったのが

          “宇気比獦<ウケヒガリ>”

 です。それについては、明日にでも・・・・

         

仲哀天皇の御兄たちは・・・・

2019-12-22 12:08:48 | 日記
 仲哀天皇には、大中津比売との間に生まれた香坂王<カゴサカノミコ>忍熊王オシクマンミコ>の御子があり、更に、神功皇后との間に生まれたの御子、品夜和気命<ホムヤワケノミコト>大鞆和気<オホトモワケノミコト>がおられました。
 その上に筑紫の宮殿で、神からお告げのあったお腹の中にいた御子がいます。此の5人の御子の中の香坂王と忍熊王の二人の皇子の何やら不隠な行動でもあったのでしょうか。そんな風評が神功皇后に伝わったのです。当然、それは建内宿禰からの情報ではなかったのではと思いますが?????
 兎に角、それではと、宿禰がいます、その十分なろ対策を講じられあす。どんな対策だと思われますか。その対策として取られた作戦は・・・

 なんだ。こんな簡単なことでと思うんですが・・・・

ここでちょっと“神功皇后”について・・・

2019-12-21 10:13:15 | 日記
 “息長帯日売<オキナガタラシヒメ>”です。書紀には“気長足姫”と書かれています。
 神功皇后の正式な御名です。
 この女性はいかなる人物でしょうか???その経歴を見ると、書紀には

 “雅日本根子彦大日々天皇<ワカヤマト ネコヒコ オオヒビノミコト>之曾孫、気長宿  禰王之女也”

 と書いてあります。「開化天皇」の御孫です(古事記では五代の末)。今は省きますが、大変入り組んでいて、その関係はどうなっているのかよほど慎重に読み進めないと理解しがたいほどの複雑です。
 この皇后を補佐したのが「建内宿禰」ですが、この二人の間柄についてもその関係はそれほど深く取り上げられてはいませんが、大変深い繫がりがあるのです。
  それを少々・・・・
 「建内宿禰」は、実は、開化天皇の親「孝元天皇」の御子で、「開化天皇」とは御兄弟に当たられるお方です。この宿禰については前にも書いたのですが、日本歴史上で一番の長寿者なのですからそんなに驚かれなくてもいいのですが?????!!!!!神功皇后を補佐した時の年齢はというと100歳位にはなっていたはずです。

“礒”??

2019-12-19 08:58:57 | 日記
 神功皇后が新羅遠征からお帰りになって最初に食事された場所が

          “河中之礒”

 <カハナカノ イソ>です。「礒<イソ>」とは辞書によりますと
 「海や湖の波うちぎわで、石の多い所」
 と書かれてあります。「河の中の岩の上」と云う意味になりますが、<イソ>ですから、「川の中に張り出している大きなる岩の上にで」食事をされたのでしょう。そこにいた魚を取って食べられたのでよう。よほど皇后達が食べ物に餓えていたという印象がこの文字から読みとれるのですが????

 それから、神功皇后は倭<ヤマト>ヘ帰ります。その時、皇后は何処からそのような情報を得たのか定かではありませんが

        “因疑人心<ヒトノココロ ウタガワシキニヨリテ>”

 『大和(倭)の人心に「神功皇后には服さないぞ」と思う心がどうも有るのではないかと疑わしく感じられ』
 るのです。

 書紀によると、仲哀天皇たちが大和から離れてから早くも八年と云う時が経っております。熊襲や新羅との戦いなどがあったためですが、大和の人々の心が神功皇后たちから乖離していただろうとは想像はつきますが・・・・

「なにゅう かんげえて おるんけえのう」

2019-12-18 09:05:21 | 日記
 こんなお叱りの言葉が・・・・彼曰く、
 「あのなあ、玉島里のこたあのう・・・」と長々とご説明が届きました。かいつまんで書くと、
 「皇后が「年魚」を釣ったのは、古事記では新羅征伐が済んで後のことだったが、お前は書紀にはないと書いてが、それが新羅に攻め込む前にちゃんと見えるよ」
 とのご教授でした。そこで書紀を開いてみると、

 “夏四月・・・而進食玉島里小河之側。於是皇后、勾針為鉤、取粒為餌・・”

 とありました。
 「ここに皇后針勾(ま)げて鉤(はり)をつくり、粒(いいほ)を取りて餌として」
 古事記にあるように確かに皇后がアユを釣ったのだと書いてあります。しかし、それは 「この度の新羅遠征が成就するかしないかを占うためにしたのだ」
と。
 このように、記紀何れにも、神功皇后の釣りは記されているのですが、その目的も時期も方法も違うように書かれてあります。昨日書いた「阿稗田阿礼云々」は全くの私の認識不足の為せる技であったのです。お許しください。