私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

これで神功皇后の新羅遠征は終わりかと???

2019-12-17 08:43:30 | 日記
 と、思ったのですが、「こんな記事がどうして????」と思うような歴史が次なる古事記の歴史には書かれています。(書紀にはなし)それは
 
 『神功皇后は筑紫に戻られてからです。玉島里で「御食<ミヲシセス>」(お食事を摂られます) 川の“礒<イソ>”(岸近くにある大きな石の上)でお食事されたのでしょう。その時、川に沢山の“年魚<アユ>がいたのでしょうか??皇后は自分の着ているスカートの紐にご飯粒を結び付けてその年魚を御釣になったのです。4月上旬ごろです。』

 とです。
 何故、新羅との戦いとも、又、次なる皇后の歴史とも何ならの関係のない魚釣りの話が挿入されたのでしょうかね。どうお思いでしょうか???
 もしかして、この神功皇后の新羅遠征は失敗に終わり、命からがら筑紫まで戻り帰ったのではないでしょうか???空腹で、とりあえずそこらにいた小さな川魚「年魚」を取って食したことを、阿礼流の美化によって、言い表したのではないでしょうか???そんなに簡単に海を渡った遠征で勝てるはずがありませんもの。662年の白村江の戦いでも分かりますが。
 それとも、1万人の軍隊を連れての遠征です。食事に相当苦労をしたと云うことを言い表しているのかもしれませんがね???

神功皇后は「石」をお腰に・・この石は何処の石でしょうか。

2019-12-16 10:35:49 | 日記
 古事記に書かれている「擧田天皇の誕生秘話」は此の他沢山あります。その一つを・・・
  
 まだ、新羅との戦いの最中の事です。「神功皇后」のお腹の御子が生まれそうになったのだそうです。そこで、神功皇后は「もう少し生まれるのを後に引き延ばしていただきますように・・・」とお祈りをして、そこら辺りに転がっていたのでしょうか「石」を取ってスカートの紐の部分に取り付けられたのです。
 その石がどのような石であったかは何も説明はないのですが、思うに、朝鮮では釜山近郊から紫水晶が沢山採れるそうですから、この時、神功皇后がお腰に着けた石は美しいその「紫水晶」ではないかと思うのですが?????
 この「石」については日本書紀には
 
 『時にたまたま皇后の生み月(開胎)に当れり。皇后、石を取りて腰に挿みて・・・
  「事竟へて還らむ日に この土(くに)に産れ給え」と宣りたまひき』
 
と書いてあり、新羅遠征の前の九州におられた時だと思われますから、その石は九州の石だと思われますが、どうなのでしょうかね??

 「日本の石か韓国の石か」こんなことで、例の「国民感情を害する」ほどの論争にはならないと思いますが、皆さんはどう思われますか???

 なお、宣長先生は、
 「この石は長崎からとれる赤石白石で、今も緒結にして使っている」
 と説明がありますが・・・・・

“御子者阿禮坐”

2019-12-15 09:49:21 | 日記
 神功皇后の御腹に御子を孕まれていることを神から告げられたのは、日本書紀によると  「仲哀天皇八年秋 九月五日」

     “唯今皇后始之有胎<タダイマ コウゴウ ハラミマセル>”

 です。
 しかし、皇后はお腹に御子を孕まれたまま新羅国に遠征されます。そして、戦勝の後日本に凱旋し、「仲哀天皇九年冬 十二月十四日」に、

  ”生擧田天皇於筑紫<ホムダノテンノウヲ ツクシニ ウミッテマツリキ>”

 です。と云う事は「擧田天皇」は、一年四ヶ月も母親神功皇后の御腹にいて、

   “御子者阿禮坐<ソノミコ アレマシケル>”
 
 漸くに生まれ出られたのです。「十月十日」の原則が大幅に遅れたのですが、それも神懸りしながらにです。
 

 
     

“御杖衝立新羅国主之門”と慰安婦像

2019-12-14 08:02:16 | 日記
 神功皇后は新羅の国主の門前に御杖を衝立て新羅の国を守護する神として
   “鎮祭<シズメマツリテ>”
 帰ってきたのです。
 この「鎮祭」をどのように解釈すればいいか分からないのですが、私は新羅の国主が我が国に忠誠をつくすと云ったことを見守る為に造られた社ではないかと思いますが???
 そうだとすると、現在問題になっているあの韓国による慰安婦問題どころの騒ぎではないと思います。神功皇后の行ったこの歴史は、2000年も前の文字も何もなかった時代の言い伝えとして残っている記録ですから、そのことに真実性があるかどうかは疑わしいのですが、古事記には堂々と「これが日本の歴史だ。」と書かれているのです。
 新羅の国王の宮殿の前に小さな伊勢神宮を建てたのですから新羅の人はそれを当時どう思ったのでしょうかね。それこそ超「国民感情を害する」ものではなかったのかと思われますが?????
 こんなこと誰かさんに聞かせてやりたいものですね。おとこれも失言でしょうかね????

 
    

      

不思議なことが、まだ、書かれてありますが・・・

2019-12-13 10:23:43 | 日記
 「そげえな ことばあ かきょうらんと はよう つぎをよまにゃあ。」

 とご注告ですが、どうしてこのような馬鹿らしい何の効果もないようなことを当時の我が国の人は、真剣にだとは思いますが、したのだろうかと不思議に思いながら、序でのことに、書いておきます。
 神功皇后は帰国に際して

  ・新羅の国主の門に“御杖衝立<ミツヱヲツキタテ>”  
  ・日本の神である底筒男、中筒男、上筒男の御魂が新羅の国をも守るように祭ります。

 どうしてこのような祭りを新羅の国でしたのでしょうかね。ばかばかしいとは思わなかったのでしょうかね。
 考えてみると、この底筒男などの日本生まれの三柱の神が、これ以後、新羅の国を見張りをして、“共與天地無退仕奉”(今後天地が続く限り永久に日本の国に従います)と云う誓いを新羅の国が背かないようにお祭をしたのです。それも神功皇后の御杖を門前に立ててです。効果があると思ったのでしょうかね。単純すぎませんかね。建内宿禰もいたことでしょうに???それくらい、この時代は、我が国では、まだ、神の御魂が人々を支配できたと深く信じられてたと云うことを証明することなのでしょうか??朝鮮の人達はそれほど異国の神の力を信じているとは思えないのですが、面白い歴史の一端を物語る事件でもあったのではないでしょうか。

 此処に書かれていることは架空のお話であることは確かですが。このような結末をつけないとこのお話の結末をつけようがないからだとは思います????