私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

その上“百済”をば・・・・というのは、どうも???

2019-12-12 09:25:21 | 日記
 新羅の国主<コニキシ>を戦わずして随え、神功皇后はさらに

   “百済国者。定渡屯家<クダラノクニヲバ ワタノミヤケト サダメタマヒキ>”

 「屯倉<ミヤケ>」ですから天皇の直轄地を意味していますが、この時代には、まだ「百済国」はなかったのは確かですからこれも作り事の歴史です。また、屯家<ミカケ>の制度もなかった時代です。屯倉制度は、欽明天皇の時に、吉備の国にも「児島屯倉」「白猪屯倉」が設置されますが時代が大きく食い違っております。
 どうしてこの様なことが古事記に書かれたのかはその意図は分かりませんが、当時の日本もアジヤの一強の国として「国史」にその名を連ねたくて、また、それが天皇中心の強大な国家を形成したと云う事を国内に強調したくて「朝鮮半島」の一部をもその権力下にあったことを言いたかったからではないかと思われますが。
 なお「渡<ワタ>」も、海を渡った外国の地と云うことを意味しているのでしょうが歴史的に見ると存在のないものだと云うことになり、信じがたい作り物ではと思われます。

 稗田阿礼が8世紀中ごろの東アジヤの情勢から勝手に作り上げた架空の物語ではないでしょうか???波が陸地の奥まで神功皇后の船を押し上げたと云うのと同じようにです。

 さて、此のお話どうお感じになられますでしょうか????

“随天皇命而”と「あいトリ」????

2019-12-11 08:48:06 | 日記
 新羅の国主<コニキシ>は神功皇后の軍勢が陸に上陸もしないで船ごと主都「金城」まで押し攻めてきたことに驚いて

           “随天皇命而”

 「これからは貴方様のご命令には絶対服従します。」
 と云ったと書かれております。そして、国主は、私はあなたの馬甘<ウマカイ>となって、毎年船を連ねて、
 
    “共與天地無退仕奉”

 「天地の続く限り永久にお仕えいたします。」
と言います。

 これは「韓国の歴史」ではなく「日本の歴史」です。どれほどの信憑性があるかは疑わしい記述ですが、何処の国でも作られた普通に見られる「国史」なのです。

 この「日本の国史」を見るにつけても、今年の夏「あいトリ」が中止になった一つの原因でもある河村とか云う何処かの市長が言った「国民感情を害する」という言葉も、現代社会における「国史」化現象ではないかと思われます。一体「国民感情」なんてものはなんなのでしょうかね????韓国がその問題で騒いでいるのもそれは一つの韓国の国史です。それを 他国の市長だか何だか知りませんが、とやかく言うのもおかしな問題だと思います。一つの「国史」の中の、あるかないかのような小さな事件なのですから。黙って笑いながら眺めるのも一つの方法だと思うのですが・・・・・どのような人物かは知らないのですが、この人の心の小ささに、こともあろうに大きな市の長なのかと大いに驚いて聞いておりました。          

皆さんは「国主」をどう読みますか???

2019-12-10 08:42:51 | 日記
 まあそこら辺りはどうでもよいのですが、兎に角、当時の世では渡航が生死を分けるような大変危険な海であった「玄界灘」を、気象も味方したのでしょうか、何の事無く新羅まで推し進めることが出来たのです。吉備の海人<アマ>達の卓越した航海術もあったことは確かですが・・・ところが、それからがまた古事記の記述の不思議さが続いて現れます。

        “其御船之波瀾。押騰新羅之国”

 と書かれています。
 「神功皇后を乗せた船を海の波に乗せたまま新羅の都「金城」まで推し上った。」
 のです。皇后たち倭人を乗せたまま船団が内陸にある金城までの押し上ります。現実には不可能なことですが、皇后の軍が一気呵成に新羅の首都を攻撃したと云うことを言い表しているのではないでしょうか???その結果を古事記では

   “其国主畏惶奏言<ソノ コニキシ オヂカシコミテ モウシケラク>”

 と。なお、「国主」を<コニキシ>「畏惶」を<オヂカシコミテ>と宣長は読んでいます。誰でもは読む事が出来ない面白い読み方だとこれ又感心しどうしです。

こんな歴史は朝鮮を甚く刺激するのではと???

2019-12-09 12:35:43 | 日記
 神功皇后の新羅への遠征の様子は、

    “真木灰納瓢。亦箸及比羅傳多作。皆皆浮大海以可度”

 と書かれてあるようにして、更に、あの「ジンム」がしたように吉備の国で

    “整軍<ミイクサヲ トトノヘ>雙船<ミフネ ツラナメテ>”

  我吉備国「二万」で、2万もの兵力増強と船舶を整えて出発したのです。
 するとどうでしょう。日本海を出て玄界灘に出ると、どうしたことか、すぐにその海にいた大小総ての魚がその船を取り囲み、背負うようにして進んでくれます。幸いなことに海風までもが「順風<オヒカゼ>」となって船をたちまちの内に新羅まで楽々と運んでくれます。あの強風と荒波で有名な玄界灘をです。そこら辺りも瀬戸内海、特に「瀬戸の穴海」を支配していた吉備人の活躍なくしては語ることができないのではと思われます。その吉備人の自由活発に、それこそ海を手玉に取るように動き回る活躍を、さもそこら辺りにいる魚が導いてくれているような錯覚に陥ったのではないでしょうか。そうでなかったなら、こんなことって起こるはずがないことですからね。
 まあそれくらいこの朝鮮遠征には吉備人の活躍があったと云う事です。何故なら、この時の吉備は「若建吉備津日子」が敷衍して大変な勢力を持っていたのです。
 その娘が景行天皇の皇后だったのです
      “針間之伊那毘能大郎女<ハリマノイナビノオオイラツメ>”
 です。仲哀天皇は「オオイラツメ」の孫に当たられるお方で、吉備とも深い関係があったお方だったのです。

 そのような吉備とこの遠征が大変深い関係のあったと云うことが、この「二万」の起源になったと云う言い伝えや、更には

    “不問大小悉負御船而渡”

 と云う言葉を古事記に書かしめた原因ではないかと思うのですが???

神功皇后は吉備から二万の軍隊を引き連れて・・・

2019-12-07 11:19:11 | 日記
 この遠征軍を組織するにあったって、神功皇后は兵力を増強します。何処の兵をそれに充てたのでしょうか????

 これもまた、吉備地方の言い伝えなのですが、あの神武天皇の東征に際して、その兵力や船を増強したのが「吉備」でした。(記紀には夫々3・9年と)それと同じように、この地で神功皇后の軍も、やはり、兵力を増強したのだそうです。其の数は何と「2万人」もだとか・・・・??????
 現在、倉敷市になってはいますが、昨年の水害で大変な被害に遭った「真備町」にある「二万<ニマ>」の周辺から兵を集めて朝鮮に渡っていたのだと言い伝えられています。この地域は、当時から「吉備の穴海」と云われ、その一帯が大変な人口密集地で、皇后が必要とした二万人の兵力を、即座に、此の地から集められ、その兵力で新羅へ攻め込んだと云われています、そこからこの地域がそれ以後「二万<ニマ>」と呼ばれたのだと云う事です。
 その他に、この地は、昨日の書いたように、早くから朝鮮半島からの移住者が沢山居て、「新羅」の情勢に精通していて、その人達からの情報を皇后は遠征に利用したのでしょう。これも建内宿禰などの知恵ではなかったのではと思われますが???
 此の「瀬戸」、「吉備」のと云った方がいいのかもしれませんが、その水軍がいたからこそ、古事記に書かれている遠征の様子が十分に想像できるのですが???