王朝時代の吉備津神社は「名神大社」で一品の位を授かられた官社で社です。その為、朝廷の指揮の下にその運営がなされておりました。その後、室町時代になると「社務代」と呼ばれた吉備地方の守護地頭がその成務を司るるようになります。江戸時代になると吉備津神社の神領も激減され百六十石になり、神官の往時は三百人もいたのですが八十人減じて、神官の中から「神裔」と云う六人がその運営に当たります。
「神主」ー「大禰宜」ー「木守」ー「案主所」ー「大行事」ー「大吉上所」
の六正官で、いずれも「賀陽朝臣」と称していました。この六正官に継いで
「御御司<ミケツカサ>」・「大饌司」
の2人がおり、「藤井宿根」と称していた。この役職にある人が神領の一般的な政務をつかさどっており、実質的な吉備津神社の経営者だったのです。その他
「小吉」
が2人おり、「堀家臣」と称した。この他
「大標司」「十﨟<ジウロウ>」「横箭」などの職があり、それぞれの神社の役目を担っておりました。
「神主」ー「大禰宜」ー「木守」ー「案主所」ー「大行事」ー「大吉上所」
の六正官で、いずれも「賀陽朝臣」と称していました。この六正官に継いで
「御御司<ミケツカサ>」・「大饌司」
の2人がおり、「藤井宿根」と称していた。この役職にある人が神領の一般的な政務をつかさどっており、実質的な吉備津神社の経営者だったのです。その他
「小吉」
が2人おり、「堀家臣」と称した。この他
「大標司」「十﨟<ジウロウ>」「横箭」などの職があり、それぞれの神社の役目を担っておりました。