私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

吉備津神社の神職は・・・

2020-06-25 09:24:25 | 日記
 王朝時代の吉備津神社は「名神大社」で一品の位を授かられた官社で社です。その為、朝廷の指揮の下にその運営がなされておりました。その後、室町時代になると「社務代」と呼ばれた吉備地方の守護地頭がその成務を司るるようになります。江戸時代になると吉備津神社の神領も激減され百六十石になり、神官の往時は三百人もいたのですが八十人減じて、神官の中から「神裔」と云う六人がその運営に当たります。
      「神主」ー「大禰宜」ー「木守」ー「案主所」ー「大行事」ー「大吉上所」
 の六正官で、いずれも「賀陽朝臣」と称していました。この六正官に継いで
      「御御司<ミケツカサ>」・「大饌司」
 の2人がおり、「藤井宿根」と称していた。この役職にある人が神領の一般的な政務をつかさどっており、実質的な吉備津神社の経営者だったのです。その他
      「小吉」
 が2人おり、「堀家臣」と称した。この他
      「大標司」「十﨟<ジウロウ>」「横箭」などの職があり、それぞれの神社の役目を担っておりました。              

「おいおい、おめえの けえておる福山合戦の山とは???」と・・・

2020-06-24 10:22:35 | 日記
 「福山??何てお山が吉備にはあるんか」と問い合わせがありました。あまり有名ではないのですが、「吉備の中山」を中心とした、東の「金山」と西の「福山」の吉備の三座の中の一つです。その雄姿をご覧ください。昨日「山手」に出向いて撮影してきました。備中国分寺の西南方向に位置した大変美しいお山です。

    

 平山画伯描く備中国分寺の五重塔が見える「吉備のまほろば」と呼ばれている郷の大空に優雅な姿を繰り広げている302mのお山なのです。このお山が、先にご紹介した「福山合戦」で、千五百人にも及ぶ新田軍の兵士たちが圧倒的多数の足利軍と必死に戦い空しく敗れ去った激戦地だったのです。
 その福山とご一緒に国分寺の風景も・・

   

          コロナ禍の終息後にでも、一度訪れて、実際にそのお目でこの癒しの風景をご覧頂ければと・・・

では、吉備津神社の経済基盤は・・・「一万八千石から百六十石に」

2020-06-23 07:22:51 | 日記
 吉備津神社は仁壽二年(852年)に封戸二十戸を朝廷から与えられておりますが、これがどのくらいの価値があったかは不明です。その後、天慶年間に「一品」を授けられ「位田八十町」が与えられます。この「八十」という字どのくらいの広さかはっきりとはしないのですが、社伝によると
       生石郷、撫河郷、庭瀬郷、板倉郷
 を神領したとあります。その後、天文の頃には、更に、近郷の栗坂・鳥羽・徳房を加え「一万八千石」を領した言われています。
 このように、平安の昔から鎌倉・室町の世を経て、それぞれの時代の波に左右されながらも浮き沈みの激しい変遷がこの吉備津神社でもに見られたのは確かです。中でも、徳川時代になると、それまでは一万八千石の小大名くらいの経済基盤を持っていて神社が一変して百六十石に激減します。この吉備津神社そのものの存在すら危ぶまれるような幕府の厳しい命令に対して、神社内外では相当大規模な騒動があったのは確かですが・・・・そこらあたりの実情については何も伝え残されてはいません。

まだまだ続きます・・・

2020-06-22 08:08:41 | 日記
 「吉備津神社記」には、まだ色々と我々一般の者には知らなくてもいいようなことが沢山書かれております。ついでのことにそれも書いておきますのでよかったら見てください。まずは
               "神階及社格”
 についてです。
 神様の社会でも「階級」や「社格」があるなんて知らなかったのですが、これも堂々と書かれております。吉備津神社は大吉備津彦命をお祀りしてあります。彼らの御一門は、今まで見てきたように、国家の為の勲功が多く朝廷と強く結びついており、そのため神社としての格付が高いのです。それを示すものに平安時代の始め承和十四年(847年)には、既に仁明天皇から「従五位下」の神階を、その翌年には「従五位上」を、仁壽二年には「四位<シホン>」に進み官社に列せられ(「品<ホン>」は皇族に与えられる位です。)朝廷から封戸<フコ>二十戸が与えられています。その後「三品」「二品」を授けられ、藤原純友などの乱などの戦勝祈願などの功により天慶三年(940年)に「一品<イッポン>」に進み、神格の最高の地位を与えられたのです。それが明治四年に「官国弊社」、大正三年には「官幣中社」に指定されています。
 なお、太平洋戦争後に官国弊社の制も廃止され、神格もなくなり普通の一神社となります。

 

吉備津神社記その3 応永以後の吉備津神社

2020-06-21 10:10:28 | 日記
 応永の再興以後の吉備津神社には享禄三年(1560年)には「一童社」が建立され、天正四年(1536年)には毛利輝元が拝殿の修理を、慶長2年(1597年)には宇喜多秀家が本宮を造営しております。更に、慶長17年(1613年)には石見銀山で釜屋間歩を開発した早島出身の安原備中守知種によって御竈殿が修築され瀧祭神社も造営されます。
 このようにして現在の神社が出来上がります。室町・江戸期を経て何回かの檜皮葺の屋根(五十年に一回の葺き替え)の修理などが行われ、さらに、明治期にかけて国による大々的な修理も行われ吉備津神社独特の美観を備えた神社として、その雄姿を吉備の中山の麓に見せております。