私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

新田軍を追い落とす足利直義は

2020-06-20 06:48:17 | 日記
 福山合戦は、5月15日から3日の激戦で、足利直義軍の「敵軍の生捕討死の首1353」という戦勝だったと言い伝えられております。とにかく、大勝利で直義は備前の唐皮(岡山市一宮西辛川。当時、此の地が「備中板倉」ではなく山陽道一の宿場だったのだそうです)に逗留します。
 "当国の吉備津神社に参詣の志おわしけれ共、合戦の最中なれば触穢の憚有とて、只願書計を取籠られて翌日唐皮を立給う。”
 と、「太平記」に書かれています。
 多くの死傷者を出した激しい戦いだったため、己の身も穢れているので参詣は遠慮して、これ以後の後醍醐天皇方との戦いの戦勝を祈願するための願書だけを届けて出発したのです。
 この直義と吉備津神社との関係が、吉備津神社の焼失と関係があるのではないかと私は考えています。それについて少々私見を・・・

 吉備津神社の焼失は観応二年(1351年)十二月のことですが、この時、京都を中心とした足利幕府はどのような状態だったかと言いますと、当時、幕府は尊氏と弟直義との間には相当の確執があり、例の「寛応の擾乱」の最中であり、その影響を受けて、吉備津神社でもやはり、例の願書に関連して尊氏派と直義派とに分かれて意見の相違もあり、宮司と社務代の間で相争っていて、それが原因となって、全吉備津神社への直義派の放火によって焼失したのではないでしょうか?????
 放火でないと、吉備津神社の総ての建物が焼失するなんて、どうしても考えられません。岩山宮さへ焼けているんですがからね

  これが
   「社殿は悉く灰燼に帰する」
 の原因ではと考えています。何の根拠もないのですが、どうでしょうかね???

「福山合戦」その2

2020-06-19 09:30:04 | 日記
 延元元年(1336年)五月十五日の宵より足利直義軍が福山城を目指して攻撃を試みます。しかし、福山城に立てこもっていた三千騎の新田軍は大井田の「名を子孫に・・」の言葉で勇気百倍、「なかなか心中涼しくぞ覚えける」と敵軍に勇敢に対処します。その有様が次のように記されています。

 "・・・谷々峰々より攻上りける。城中のものどもは、兼てより思い儲たる事なれば、雲霞の勢に囲まれぬれ共、少も不騒、此彼の木陰に立隠れて、矢種を不惜散々に射ける間、寄手稲麻のごとくに立雙びたれば、あだ矢は一も無りけり。敵に矢種を尽させんと、寄手は熊と射ざりければ、城の勢は未だ一人も不手負・・・”

 と。
 その時、大江田式部大輔は
 「このように防戦していても多勢に無勢だ。」
 と、城中に五百騎を残して屈強なる兵千五百騎を引き連れて、木戸を開けて、北の尾の殊に急峻な所から大声を張り上げながら、
    ”喚てぞ懸出られける。”
 そして、急峻な谷間の中で味方の兵も難儀をしながら敵陣へと駆け下り、敵の大将「直義」の陣をめがけて突入していくのです。その時、味方の兵は千五百騎が討たれて、四百騎の減っておりました。遥かに城の方を見返すと、城は火に包まれ燃え上っております。「もはやこれまで。」と思った「大井田大輔」はそこいらの敵兵と十数回も刃を交えながら、備前にいる新田軍と合流すべく駒を進め
             「五月十八日の早旦」
 備前三石で合流します。

「福山合戦」ってご存じですか???

2020-06-18 10:58:12 | 日記
 足利義満が後光厳天皇からの命で吉備津神社の再興を、約11年で成し遂げますが、「どうして、義満はそんなに速く??」という疑問が当然起きますよね。その答えが
              「福山合戦」
 です。ご存じとは思いますが、その「福谷合戦」について簡単に説明してみます。

 時は延元元年(1336年)です。足利尊氏が九州に落ち延び、そこで、再び勢力を盛り返して、後醍醐天皇と対峙すべく京へと押し上ってきます。それに対し天皇方は新田義貞の軍が中心となって備中・備前・播磨・美作にその備えを整えております。尊氏の弟「足利直義」は鞆の浦より、二十万騎で陸路より京へと攻め上り「備中の草壁の庄」に着きます。(草壁の庄は現在の総社市のあたりか?)
 一方、その時、新田軍(後醍醐天皇方)は大江田式部大輔が三千騎(一説には千五百とも)率いて備中福山城に楯籠り対峙しており、十倍以上の足利軍を目の前にして兵士たちに言います五月十五日のことです。
 「合戦の習、勝負は時の運によるといえども、味方の小勢を以て、敵の大勢に闘はんに、負けじということは、千に一も有るべからず。だからといって、敵が大勢し寄せたから逃げたと云われるより、ここで堂々と戦い討ち死にして、その名を子孫に残してこそ武士たる所以がある。堂々と戦おうじゃないか。」

どうしてそんなに早く????再度、その再建過程を・・・

2020-06-15 11:38:12 | 日記
 吉備津神社の社殿の総てが観応2年(1351年)に焼失(放火か??)してしまいます。その15年後の貞治5年(1366年)に、朝廷に対して、大禰宜「宗勝」が再興を願い出ます。そこで明徳元年(1390年)後光厳天皇は
                        「名社の空しく廃滅に帰するを惜しみて。」
 足利義満が再興を命じます。そして、応永8年(1401年)本殿が再建され、それ以来25年を経た応永32年(1425年)に吉備津神社の正遷宮がとり行われます。 実に、観応の焼失以来74年の長い年月を経て、再びその雄姿が、吉備の中山の麓に再現されたのです。しかし、本殿の建築は驚くほどのスピードで、わずか11年の歳月を要して再建されています。
 「近代的な建築機材もない時代に、その例を見ない比翼入母屋造り(吉備津造り)がどうして11年という短い年月で、こんなに早くできたのだろうか。」
 と当時の人々も大変驚いたことだろうと思われます。なぜでしょうか?????

[吉備津神社記⑩」  観応2年に社殿悉く灰燼に帰す

2020-06-14 10:02:19 | 日記
 「文徳天皇の仁壽二年(852年)二月、官社に列せられしより、爾後、社殿の修築も官営に係りしか如し。」
 とあり、国の管理の下で社の修築などが行われ、その後、康平4年(1061年)、冷泉天皇の時、社殿が炎上し、その再興が図られたと朝廷の記録に残っております。それから約三百年後の観応二年(1351年)
       "社殿悉く灰燼に帰せし・・・大禰宜賀陽宗勝<カヤノムネカツ>が朝廷に愁訴して、その再興を請ひける。”
 すると、後光厳天皇が名社の空しく廃滅に帰するを惜み、将軍足利義満に命じて、これを再興せしめるることになったのです。かくて、

              ”応永三十二年(1425年)十二月二十九日”

 に新殿が落成して正遷宮の式がとり行われ、灰燼に帰せしより七十有余年を経て再興がかなったのです。