私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

吉備津神社の灯籠

2020-08-19 06:34:36 | 日記
 亦も道草をします。昨日の「殿簷に銅燈・・・」について書いたのですが、この他、吉備津神社には沢山の石灯籠があります。ついでのことですからそれも見てください。先ずは、特に人々の目を引く美しい灯籠を・・・

  

 JR桃太郎線が参道と交差する場所に(吉備津駅のすぐ東100m)建っています。その他、吉備津神社には沢山の灯籠が・・・
 回廊に沿って沢山の

   

 南門付近には

  
 

往昔の遺風を・・・平和のありがたさが!!!

2020-08-18 06:50:09 | 日記
 目にしてもそれを殊更に取り上げもしないような小さなものにも柳北は目を止めて書いております。

   "殿簷に銅燈数十ありという。みな数百年のものにして・・・”

 と。
 この本でもそうですが、昔の人はどうしてこんなにも?と、その語彙の豊富さに驚かされます。昨日の「鐺<カマ>」もそうですが、「簷」もまた、そうです。<エン>、「廂」(寝殿の軒下)です。
 彼も書いているように、「・・・・ありという。」ですから、実際は目にしたのではないかもしれませんが、現在は神殿の大きな軒下にちょこんと据えられている柳北の言う「銅燈」を写真でお見せします。でも、其の数はたったの2つです。しかも、銅製ではありません。備前焼の灯籠です。銅製のものは戦時中に共出したのかもしれませんが見当たりません。もし彼が見たという銅燈が数百年のものであったとしても今ではそれを目にすることはできません。一時の無謀なる思いによって引き起こされる人間、為政者、によって歴史も何もかも総てを無にしてしまう愚かしい行為を、この現在の備前焼の灯籠を見ながら、改めて、平和の大切さをつくづくと深く思うのです。

 

 

   

 

山上に鬼の鍋とて・・・

2020-08-17 06:52:34 | 日記
 鬼の城に岩屋という場所があり、そこに現在も大きな鉄製の釜があります。

  

 現在では、それを「鬼の釜」として展示しています。その釜を柳北は

   ”山上に丈余の大鐺あり。その古色数千年の物たるよし”

 と「航薇日記」に書いております。実際、それをわざわざ見に「岩屋」まで登ったのでしょうか、この写真を見ると一般に言われているように「釜」ではなく、この中に捕まえた人間を入れ、炊いて食べたという伝説の通りに「鍋」に近い物で、彼が書いている「鐺」という字が妥当ではないかと思うのですが???そうすると、あの歩くのが嫌いな柳北が、わざわざ、馬か何かでそこまで見に行ったのかもしれないという思いがしてならないのですが???

 このような文章を見ると、成島柳北というお人は「何でも見てやろう」という意欲旺盛なお人だったのでしょうね。

 

航薇日記には

2020-08-16 09:33:32 | 日記
 柳北は吉備津神社に参拝して、その前後に宮内の遊郭でも游んだと思われるのですが、その記は、あまりにも神社のかんさびて威風堂々としていた姿に敬意を示したのか、何も書き残してはいません。後で少し触れたいとはお思いますが、金比羅宮への参詣の時、そこの遊郭で遊んだことについて詳しく書き残しております。
 とにかく、その柳北は吉備津神社については、大変感動してか、詳しくその由来なども説明してあります。

 "この宮は大吉備津彦の尊を祭ると聞く。帝の時、鬼酋あり、この地に住む鬼悌を呪阻せんとて鯉に化し板倉川を下る。帝これを射殺し給ふ。いま、足守より西二里許に鬼の城という山あり・・・。”

 と。その鬼の城をちょっと・・・・
 
 総社市奥坂にあります。斉明天皇の時(663年頃白村江の戦い)百済を助けよう朝鮮に出兵したのですが、新羅と唐の連合軍に徹底的に敗れ、その仕返しを恐れ、その防御態勢のために作ったお城だといわれています。(日本歴史に記録のないない城)その城跡が「鬼ノ城<キノジョウ>」と呼ばれ,後の桃太郎伝説の鬼の住む場所として伝説となって残ったものです。
 その昔話を聞いた柳北が
"鬼ノ城とうふ山あり”
と書いたのです。その「鬼の城」の写真を

   

   

   

 なお「板倉川」とは、これも何時頃まであったのかはわからないのですが、江戸の初期頃には、まだ、高梁川が総社市の山際を東に流れて、足守川を合流して、吉備津辺りから南に流れ、その川口が庭瀬辺り(川入)にあったのです。その吉備津付近を流れる川が板倉川という名に代わっていたらしいのです。





成島柳北の吉備津神社参詣記

2020-08-15 09:01:13 | 日記
 この人の名も初めて知る名前です。彼も亦吉備津神社にお参りしています。この人は別に足が悪かったわけではないでしょうが歩くのが苦手で、お金持ちであったのでしょうが、馬や人などの背を利用して旅したのだそうです。この吉備津神社への参詣も妹尾からですから距離にすると四里ばかりの所で、普通の人は徒歩でお参りするのが普通ですが、やはり、

  "馬より下りて吉備津宮に詣づ。”

 とあります。そして

  "宮殿甚だ古く、往昔の遺風を存するもの多し。余各地の寺院祠宇を観るに、いまだこの宮の如くかみさびたるを見ず”

 とその日記に。記しています.