私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「凶徒」「気沴」とは、少々ひど過ぎるのでは・・・

2020-12-24 10:13:45 | 日記
 これでもかこれでもかと、「もういい加減にしてくれよな」と言いたいような小難しい漢字がどこまでも続く「古事記序」です。
     ”杖矛挙威、猛士が烟起、絳旗躍兵、凶徒瓦解”
 「味方の兵士は矛をかかげて勇敢に立ち上がり、赤い旗を掲げて躍動し、たちまちのうちに、凶徒(禍をもたらす悪る者の仲間)をばらばらに追い遣ってしまうのです。」
 まあ、この段はどうにか読めたりも解釈したりすることも出来ますが、問題は次です。辞書なしでは読めませんよね。

       ”未移浹辰、気沴自清”

 「浹辰<シンヲメグル>」は十二支が12日間を一巡りすることですから、争い(壬申の乱)が起きて、未だ12日の経たないうちに事が決してしまったという意味です。真実は、日本書紀では、大海人皇子が不破関を出発して大友皇子と対峙したのが7月2日で、その戦いに敗れ「大友皇子」が「自縊」したのが7月23日ですから、十分に2週間以上はかかっていますが、太安万侶の手にかかると「未移浹辰」という表現になるのです。
 何回も言うのですが、天皇に対する「忖度」です。その1300年後に起きた例の安倍氏に対する数々の「忖度」と同じですが、いやそれ以上の忖度であったかもしれませんが、いかに時代が変わろうとも何時の世でも起こりうる普通の人間の思いによる起因した出来事だったのです。だから安倍さんの場合でも、そんなに世間では何時でも起こり得ることで、そんなに大騒ぎする程のことでもないようみも思われわれますが、どうででしょうがね???
 太安万侶の天皇に対する忖度は、次にある「気沴自清」にも続きます。
 ここにある「沴<レイ>」について、宣長は「妖気なり」と説明がありますが、大友皇子軍が妖気とはどういうことでしょうか??至る所に禍を生じて世の中が澱んでしまう世の中が大海人皇子によって清らかな世が出現したと歌ったのです。ひどすぎる書き様ではないでしょうかね???
 
 どうでしょうか、「凶徒」だ「気沴」だなどと、こうまで大友皇子を卑下する必要はなかったのではと思うのですが。少々可愛そうになるのは私だけでしょうか???

      “

 難しい漢字が並んでいます・・・・

2020-12-23 09:55:44 | 日記
 「古事記 序」を,そのわずか一行にも四苦八苦しながら,毎日読んでいます。太安万侶は、辞書も何もなかった八世紀の中頃にです、よくこれだけの難しい漢字を駆使して書けたものだと感心しながら・・・
 さて、今日は
     “然天時未臻、蝉蛻於南山、人事共洽、虎歩於東国”
 です。どれをとっても読みずらいことしきりなり。「臻<イタル>」「蛻<ヌケガラ>」「洽<アマネク>」です。辞書なしでは読めません。
「大海人皇子が吉野に、蝉のぬけがらのように隠れ住んでいたのですが、美濃などの国々の人々が集まり来て従い、(虎となって歩み出した)強い勢力に拡大していった。」
 そして、
    “皇輿忽駕、淩渡山川、六師雷震、三軍電逝”
 「天皇の輿は馬につなぎ山を越え川を渡り、天皇の軍隊は雷音を響かせ雷のように勢いよく突進して行った。」
 「六」や「三」は、何も意味のない「多数の・・・」のというぐらいの意味だとは「宣長」の説です

突然、十丈程の黒雲が空に塞いで・・・

2020-12-22 10:31:15 | 日記
 太安万侶は歌います・・・・

 “聞夢歌而想纂業、投夜水而知承基”

 と。この「夢歌」「夜水」とは何でしょうか???また、少々寄り道をしますが・・・その時の様子を「日本書紀」には次のように書いております。

 『天武天皇が吉野を出られ后など一緒に伊勢の国の横河という所まで進んで来た時です。俄かに幅が十丈ばかりの黒雲が天に現れまあす。それを見た大海人皇子は式<ウラブミ>を取り出して占いをします。それには、
 「今、天下はあの黒雲を境にして二つに分かれているが、やがて一つになり、私が天下を得る」
 とあったのです。そして、傍にあった夜の横河に入りて禊をした結果、重大な使命を受け継ぐことを悟った』
 と。
 

再び、「古事記 序」を・・・・・「潜龍体元。洊雷応期。」

2020-12-21 10:23:53 | 日記
 暫く「壬申の乱」について日本書紀を読んできたのですが、再び「古事記 序」に戻ります。前回は

 “曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。潜龍体元。洊雷応期。”
 
 まで書いたのですが、これをどのように解釈すれがいいのでしょうか??もっと詳しく見てまいります。
 「曁<オヨビテ>」(いたる)から始まります。
「曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。」壬申の乱後、大海人皇子は都を飛鳥清原に定めて、
「御大八洲天皇御世」天皇になられて日本の国を治められ、
「潜龍体元。洊雷応期。」<クグレルタツ イキオヒニカナイ シキルライ キニオウズ。> 本来、天皇になられる御身でしたが一時お隠れになっていたのですが、その時がやってきて、雷が天下に鳴り響くように、期待に適うように勢いよく立ち上がられます。

 なお、此処からでも分かるように「天皇」という御位は「天武天皇」が最初ではないかと言われる人もいるのだそうですが???でも、その時は大友皇子が、既に、天智天皇没後太政大臣として天下を治められているのですから、実質的には天皇の位を保持して国の政治を担われていたのです。だから、この時の大海人皇子の吉野から近江への攻撃は、誰が何と言ったても立派な「反逆罪」になるのではないかと思うのですが・・・でも、太安万侶は、時の天皇に忖度してか、この古事記序にこのように「大海人皇子」があたかも正義の戦いをしたように書かれているのですが、太安万侶の業績を否定はしませんが、どうでしょうかね ???????????????7  もう一度この戦いについてみんなで議論してみる必要があるのではとも???

大友皇子は首つり自殺を・・・

2020-12-19 11:52:22 | 日記
 家臣2,3人を連れて落ち伸びた大友皇子もこれが最期だと悟ったのでしょう、今の三井寺辺り「山前>ヤマサキ>」で縊焉して果てます。七月二十三日です。その翌日、七月二十四日には,もう大友皇子の頭<ミシルシ>(御亡骸)は、大海人皇子のいる不破関にある営<イホリ>の前に掲げられています。さらに、逃亡してい左大臣の蘇我臣・赤兄、大納言の巨勢臣・比等を捉えて遠地に流配され、右大臣の中臣連・金<キン>は処刑されていますが、その他はすべて許されています。ここに再び、世の中は平安になります。
 そして大海人皇子はその后の滞在してのいた桑名などを回られて、倭の京<ミヤコ>に到着され、飛鳥浄御原宮に宮殿を作られ、翌年春正月、

    “設壇場。即帝位飛鳥浄御原宮”

 “壇場<タカミクラ>を設<ま>けて、飛鳥の浄御原の宮で、帝位<アマツヒツギ>に即<シロ>しめす。”
 天皇に即位されたのです。この「高御座」があるということは天皇の所在地を示すものということにもなるのですから、再び、都が奈良の地に帰ってきます。それも人々の安心材料になって、天武時代の安定した政治体制が敷かれたのもいなめられませんよね!!!!

 なお、すると、先の令和天皇の即位式に使われたあの高御座は、既に、天武天皇の時代にあったことが、この書紀の文からも分かります。その高御座を