私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「山前」を「山崎」との早合点でした・・・

2020-12-18 10:03:38 | 日記
 吉野軍に敗れた「大友皇子」は瀬田から「山前<ヤマサキ>」にまで退散します。最後は2,3人の家臣を引き連れただけの、誠に寂しい道行でした。近江が終焉の地となった木曽義仲と同じような、もうこれが最後だと覚悟を決めた大友皇子はここで「自縊」します。
 この「山前<ヤマサキ>」を、わたしは何も考えないで「光秀最後の場所 山崎」と考えたのですが、距離的に言って少々無理があるように思い再調査してみました。「日本書紀新講」によると、この「山前」は

 “近江国滋賀群・長等山の「山前」で、今の三井寺の地である”

と書かれています。現在の大津市御陵町にある「弘文天皇陵」のある辺りがその終焉の地だと推定されています。
 なお、日本書紀には「弘文天皇」という名前はありませんが、大日本史の中には堂々と「弘文天皇」と書かれていますが・・・

壬申元年七月二十三日です・・・」

2020-12-17 10:21:08 | 日記
 瀬田橋の東西に分かれた近江軍と吉野軍との最後の合戦です。あれほど大勢の兵を持ちながら、いとも簡単に近江の軍勢は敗れ散り、大友皇子は家臣2,3人に守られてながら逃げ延びますが、その様子を日本書紀には
 
  “於是大友皇子。走無所入。乃還隠山前。以自縊焉。時左右大臣。及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。只一二舎人従之。”
 
 とあります。なお、この「山前」ですが、その場所は、もしかして、秀吉と光秀のあの「山崎」ではとも思うのですが????
 このように寂しく大友皇子は「縊焉、クビレマシヌ>」。首を括って死んでいます。

 これが「壬申の乱」です。674年の日本の最初の「天下分け目の戦」です。しかし、まだ、これで総てが終わり、次の、武天皇の御代とはいかないのです。なぜなら、大友皇子が父・天智天皇を助けて「太政大臣」として国政に携わった時の左・右大臣など主な家臣はこの瀬田橋の戦いの最中に逃亡して近江付近のどこかに逃げ隠れていました。その彼らを亡き者にしなくては安心した大海人皇子の政権は作れないのです。その辺りの歴史的な経緯・様子も書紀には書いてありますので、それも一緒に、後しばらく書いてみますので、お読みいただければと・・・

瀬田の戦いです。

2020-12-16 10:12:27 | 日記
 その瀬田橋で東西に分かれて両軍が対峙していました。
 その時、近江軍は鉦や太鼓を打ち鳴らし大勢の軍勢で待っていました。更に、作戦的にも、その橋の中程の板を三尺ばかり切り取り、そこに綱を付けた別の板を張って待っていました。もし敵兵がその橋を渡ろうものならば、綱を引いて敵兵を河中に落とす作戦を取って完全な戦争態勢で待っていたのです。吉野軍の将「男依<オヨリ>」もその近江軍の作戦を察知していたのでしょうか、兵を勧めないで、その場に留まっていました。
 そこに、又、又、摩訶不思議な光景が展開されます。何とその時、吉野軍に勇敢者が一人進み出て、刀を抜いて橋を渡ってこちら目がけて突進してきますます。その名が書紀には書かれています。

     〝大分君<オホキタノキミ>稚臣<ワカオミ>”

 と。
 この、たった、一人の「稚臣」に恐れをなして、近江軍は、悉く、逃げ散じます。そんなことって考えられるでしょうかね????
 普通なら、近江軍はこちらの橋側に弩を連ねて待ち構えていたのでのですから、いくら勇敢者猛者だと云っても、たかが一人です。しかも、その場には「大友皇子」がいたにもかかわらずです。
 それが日本書紀だと行ってしまえばそれまでですが?これも天武天皇に対するね忖度でしょうかね

7月6日の近江軍と吉野軍の戦いが・・・・

2020-12-15 11:42:32 | 日記
 「赤<カネ>」という合言葉を使って大勝利した近江軍の「小隅<ヲス>」ですが、その翌日六日の戦い(莿萩野<タラヌ>)で吉野軍に敗れ敗走してします。更に、七日、八日の戦いでも近江軍は吉野郡に次々と敗れて行き、遂に、二十二日、吉野軍は「男依<オヨリ>」を大将として瀬田に於いて大友皇子と対決します。

 その時の大友軍の戦闘態勢について大日本史には次のように書かれてあります。
 「瀬田橋の西に大陣敷き、その後ろはどのようになっているのか全く見えなほどの旗や幟を打ち立て、人馬の発てる塵や埃で天を蔽うかのようで、鉦太古の大きな音が数十里の先にも聞こえ、大きな弓で矢を雨の如に頻りに放ちます。」
 と。
 これだけを読むと近江軍の勢いが盛んで、吉野郡は手も足も出ないのではないかと思えるほどの勢いです。さてその結末は???

翌日7月5日です。

2020-12-14 09:58:57 | 日記
 先の太平洋戦争で日本軍は真珠湾を攻撃して、その後、ハワイで何も戦闘を起こさず、「我、圧勝せり。」という言葉と共にそのまま日本に引き返しますが、四日の乃楽山の戦いの後、周囲の状況の判断を見定めないまま、近江軍も引き返します。
 そ翌日、即ち、五日です。近江軍の「田辺小隅<タナベノオス>」が倉歴<クラフ>に陣取っていた吉野軍に夜討ちをかけます。その時、小隅は、この戦いが夜の戦いですから、相手が敵か味方か分かりません。そこで考えたのが「合言葉」を使った戦いです。その時に使った合言葉は「赤<カネ>」だと、日本書紀には書いています
 この夜の戦いで近江の軍勢は、赤<カネ>と口々に言いながら刀を抜いて進みます。「赤」と返事が返ってこない者はその場で切り殺して戦いを進めます。その結果、この戦いも近江軍が圧勝します。しかし、吉野軍の大将「足麻呂」は、敵の合言葉「赤」という言葉を察知して、漸くに、その場から逃げることができます。この日の戦いも、またまた近江軍の圧勝に終わります。
 その作戦を以て大勝した小隅<オス>ですが、翌日六日の戦いでどのような戦いであったかは書かれてはないのですが、吉野軍に敗れどこへ行ってのか姿が見えなくなったのだそうです。
 この戦いを最後に吉野軍が圧勝します。