私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

壬申の乱の詳細が書紀には・・674年7月4日のことです。

2020-12-13 10:41:34 | 日記
 壬申の年(674年)7月、大海人皇子軍と大友皇子軍の直接の対決です。最初の対決が犬上川(滋賀県)ですが、その後、四日の戦いです。「乃楽山<ナラヤアマ>」の戦いです。(奈良山のことです)
 あの額田王<ヌカダノオオキミ>が詠んだ
      ”味酒 三輪の山 
      あおによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隅 い積るまでに
      つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を
      情なく 雲の 隠さふべしや”
 その山です。この山を挟んで両軍が対峙して合戦が行われそうになったのです。

  この時、吉野軍の赤麻呂という人が主人の「吹負<フケヒ>」に言います。
 「奈良は古い都です。その都を先ず何よりも固く守ってこそ我が軍の為すべきことです。」
 と。その為に奈良の都に入る橋を壊して道々に並べ、敵兵が都へ入る道を塞ぎます。この奈良山での戦いは吉野軍が破れ、近江軍が奈良の都へ押し迫りますが、都に入る橋は壊され、そこに使われた板が街の至る所に並べられていました、その影にきっと大勢の敵がいるのではと恐れた近江軍は戦わずして引き換えします。

 これが「乃楽山の戦」です。7月4日です。この戦いが近江軍の初めての戦勝ですが・・・

犬上川の戦い・・・

2020-12-12 10:29:35 | 日記
 壬申元年(674年)七月二日の事です。
 大友皇子の数万の軍勢は吉野を出発した大海人皇子軍と戦うべく不破ノ関に進駐すべく犬上川に集結します。ここで何がどのようになったか、書紀には全く何も書かれてないのですが、唯、「時に、近江、山部王、蘇賀臣果安、巨勢臣比等に命せて、数万の衆を率て、将に不破を襲はむとして、犬上川の浜に軍す。」書いた後に、突然、何も説明なしに、ただ
 ”山部王。為蘇賀臣果安。巨勢臣比等。見殺”
 と。
 これをどう解釈すればいいのでしょうか??よくわかりません。仕方ありません。水戸光圀の「大日本史」を紐解くと、そこには
 「山部王、果安・人が為に殺された。」
 と。
 その時の近江軍の大将が「山部王」だとは理解できますが、ではなぜ、その将である人を、この緊急事態の時に、その家臣の「果安・比等」が殺さなくてはならなかったのでしょうか???そして、さらに、不可解なことは、軍の大将がいなくなったのですから、当然、戦いなどできるはずがありませんから近江軍は大津に退却しますが、帰った後で
 「果安、犬上より返りて、頸を刺して死せぬ。」
 とあります。(壬申元年七月朔日)。どうして「果安が自殺してしたのでしょうか。また比等は??」不思議ですね???
 
 これらの記事を見ると、近江軍は、その原因は不明ですが、内部分裂がおこり力が次第に弱まっていたことが伺われます。更に、奈良に進駐していた近江軍も大海人皇子軍に破れます。いよいよ大友皇子は追いつめられます。なお、光圀の大日本史では「大友皇子」が天智天皇崩御後「天皇の位に即く」と書かれています。即ち、「弘文天皇」です。

今朝は一段と寒さが・・・

2020-12-10 10:22:43 | 日記
 今朝の朝刊のコラムに鷲田誠一氏は吉田健一氏の言葉を

 ”年を取るというのは年齢の殻が厚くなることではなく、水に落ちた物体のどこまでも拡がって行く波紋に似たものであるといい”

 と、それについて「人生の黄昏に足を踏み入れると、今という瞬間に充実し、その刻々の変化に、生きているという感触を得る・・・」と説明しています。

 わたしは、今、84歳です。一日のスタートを、まず、小さなmy菜園に足を運び、作っている野菜のもの云わぬ「生き」を確かめることから始めてます。そして野菜たちの生育の素晴らしさや辺りを流れる風の刻々の変化にも感動しながら、そっと山々に囲まれた狭い大空行く雲を眺めたりして、若き日々には決して無かった、無我ではないのですが、そんな日々を生きているといっても過言ではありません。鷲田氏の言うように「刻々の変化に生きてる感触」を確かめるように、毎日、「生きるって素晴らしい」と深呼吸をしながら・・・
 でも、吉田の言う年寄りの「波紋」って、一体、何でしょうかね???

 
 そんな今朝、朝刊の鷲田氏の文章に出合い、筆を取ってみました。

大和の国における戦いが・・・・

2020-12-08 10:50:16 | 日記
 大友皇子側でも早くから大和国を味方にと、人を派遣して色々と策略を回らしております。それを知った大海人皇子の御子高市皇子等の働きによりて大和の軍勢は近江の勢力を排除してしまいます。
 それからいよいよ大友皇子と大海人皇子の雌雄対決です。大海人軍は不破を出て近江に入ります。これも歴史上にあまり語られてはいないのですが、日本歴史上で一番の天下分けめの戦いです。この時吉野勢はその区別をつけるために全員赤い襷を付けて戦います。
 その時の戦いの様子が日本書紀に詳しく出ていますのでそれを明日からまた少々詳しく・・・・

大友皇子の対策は・・・

2020-12-07 09:33:44 | 日記
 大友皇子は大海人皇子が東の国でその兵力を増強させていると聞いて、全国に援軍を要請する使いを東国・筑紫・吉備・大和に送りますが、どれも思うようには運びませんでした。特に、吉備に派遣した「樟使主磐手<クスノオミイハテ>」は
 「国守 当麻公廣嶋<タキマノキミヒロシマ>は、どうも、既に、大海人皇子側に付いているようです。早い所亡き者にしてしまう方が。」 と殺してしまいます。
 一方、筑紫に派遣した佐伯連・男<サヘキノムラジ・ヲトコ>に対して、大宰府帥<オホミコトモチノカミ> 栗隅王<クルクマノミコ>は
 「我々九州から援軍を差向けることはできますが、今、筑紫でも大変です。若し、我々の軍勢が大友皇子軍に参加しようものなら、忽ち周りの敵に攻められ国が滅びてしまいます。残念ですが参加することはできません。」
 と答えます。若し、筑紫の軍勢が参加を拒否すれば、即座に、殺せといわれていたのですが、その時、栗隅王の側にはその二人の王子
    〝三野王<ミヌノキミ>と武家王<タケベノキミ>”
 が剱を以て控えており、殺害することができませんでした。
 また、東に派遣した磐鍬<イハスキ>らは守りを固めていた大海人皇子軍の不破関を破ることが出来ず逃げ帰ります。
 このように、大友皇子軍はスタートから遅れて、そのやることなすこと総てが後手に回り、敗北していったのです。