2 牧野紀之の許萬元批判
許萬元氏は弁証法に内在主義・歴史主義・総体主義の3つの契機を指摘した。これら3つの契機に対して、牧野紀之氏は認識の不徹底性を指摘している。単純な言い方をすれば、内在主義・歴史主義・総体主義のそれぞれに対して、半分だけを評価している。
許萬元は歴史主義を否定的理性の側面と対応させ、総体主義を肯定的理性と対応させた。しかし、牧野氏はこの対応にこだわらず、歴史主義も総体主義も悟性的側面と理性的側面の全体のなかで把握している。内在主義についてもそうである。
内在主義・歴史主義・総体主義に対する批判を確認しておこう。引用はすべて「サラリーマン弁証法の本質」から。
ア)内在主義
牧野 あの章の展開は要するに、①ゼノンが内在主義の祖であること、②内在主義は悟性的、とは言ってはいませんが私が補うと、悟性的な理由づけの態度とは対立するものであること、③ゼノンとカントの弁証法は主観的なものであったこと、④内在主義が客観的なものである以上唯物論と結びついてこそそれは徹底されること、⑤それは要するに「ありのままの反映」ということになるのだが、そのための方法が「内在的超出」であること、以上五点がこの順序で述べられているわけですね?
読者 私にはそう明確にはまとめられませんでしたが、言われてみればそうだと思います。それでこれのどこに問題があるのですか?
牧野 八〇頁で、物事をありのままにみるのが唯物論だがその方法はどうするのかともってくるのがいかにも不自然なのです。これを不自然と感じないとするならばそれは理論的感覚が鈍いからで、こういうのをピリッととらえるようでなければいけません。
方法というのは認識において主観が予め頭の中にもっている観念であり、はっきり言うと先入観のことです。先入観というと悪く聞こえるが方法と聞くとコロッと参っちゃうようではいけません。方法とは先入観の別名にすぎません。ですから、方法をもって認識するということは、(これがヘーゲルの「アン・ジッヒ」です)、「ありのままの反映」と矛盾することなのです。それなのに、こういう矛盾を読者に意識させないで、内在的考察=ありのままの反映からすぐに方法と言って内在的超出をもってくる、これはいただけません。
牧野 私の考えは『関口ドイツ語学の研究』の「まえがき」に「先入観をもって読む」として書いておきましたが、許さんの立場に立ってこの第一章を書きなおしますと、①あらゆる認識はありのままの反映を目指していること、そしてこれが内在的考察であり唯物論でもあること、②しかし、「ありのままに」反映するためにこそ先入観=方法をもって臨まなければならないこと、つまり客観的であるためにこそ主観的でなければならないこと、③この主観性に大きく分けて二段階あり、第一段階が客観から離れる悟性的段階で、これは①の出発点より見かけ上は後退しているが第二段階への契機を含み避けられない段階であること、④第二段階は理性的内在的超出の方法を駆使する段階で、これは第一段階の客観と主観の分裂の克服であり、①の出発点に一層高い形で戻るものであること、まあこんな風に書くとよかったと思います。
読者 許さんの叙述では理由づけが悪玉で内在主義が善玉みたいな書き方になっているわけですね?
牧野 そうです。あれではヘーゲルのもっとも嫌った有限に対立する無限、特殊に対立する普遍という悟性的な考え方と変りません。許さんには珍しい失敗でした。
牧野氏は、内在主義に悟性的段階と理性的段階を想定し、この2つの段階を等価な段階と考える。しかし、許萬元にあっては、悟性的段階が軽視され、理性的段階だけが強調されている。「方法をもって認識するということ」と「ありのままの反映」は矛盾しているにもかかわらず、許萬元は「内在的考察=ありのままの反映」と「方法=内在的超出」を直結させている。内在主義の理性的側面だけが強調され、悟性的側面が軽視されている、というのが牧野氏の見解である。
イ)歴史主義
牧野 内在主義自体が先に述べたように単にあるがままに見るという原初的内在主義から出発し、一度理由づけという外的反省によって否定され、更にそれを否定して内在的超出の立場に立つ完成された内在主義へと発展していくわけです。この完成された内在主義は内在的超出という発展の論理を自覚的に適用する立場ですから、当然歴史主義と一致するわけです。
読者 すると、許さんの内在主義の説明がこのようにはっきりしていないから、内在主義と歴史主義の一致という鋭い指摘がわかりにくくなったのですね?
牧野 そうです。それに歴史主義の説明にも問題があります。というのは、彼には概念そのものの立場と絶対的理念の立場との違いがわかっていないらしく、歴史主義にも単に「事物は発展するものだ」「歴史的に見なければいかん」という段階と、その発展の「論理」を自覚してその論理を方法として自覚的に駆使して考えていく段階とがあるのに、その区別に全然ふれていないのです。
歴史主義の2つの段階の区別にふれていないのは、許萬元は歴史主義を否定的理性的側面と対応させているからである。牧野氏がこのような批判をするのは、歴史主義を拡張して解釈しているからだと思われる。つまり、牧野氏は歴史主義に否定的理性的側面だけでなく、悟性的側面にも肯定的理性的側面も見ているのである。
ウ)総体主義
牧野 あの章は、ヘーゲルの総体性が有機体論と合目的性(目的論)とに結びついているという認識に立っているのですね。これ自身正しいのですが、これだけでは不十分なのです。その不十分さは大きく言って二点あって、第一点は、合目的性とは目的を中心にした総体性だから、それは一般化すると、「中心のある総体性」となるのですが、こういう結論が引出されていないことです。許さんは「もともと総体性とはそういうものだ」と反論するでしょうが、これを明確に出し、中心のない総体性=悟性的平面的全面性との異同を論じていない以上、それは言い訳です。
第二の欠点は、ヨーロッパ人が合目的性と目的意識性とを区別せず、前者の下で後者を考えていることを見破れず、許さん自身この両者の異同を問題にせず、ヘーゲルの総体性がすぐれて目的意識性の立場=自我=人間の立場と結びついていることを見抜けず、有機体一般の立場で総体性をとらえようとしたことです。
欠点の第2については興味ある指摘だが、ここでは取り上げない。中心のない総体性について指摘するのは、やはり総体主義の拡張的解釈で、許萬元はあくまでも、総体主義を肯定的理性的側面と対応させている。これに対して、牧野氏は総体主義を悟性的側面と理性的側面の全体で捉えているのである。
牧野氏は、歴史主義については悟性的側面・肯定的理性的側面を補充しなければならないこと、内在主義と総体主義については悟性的側面を補充しなければならないことを指摘していることになる。いずれの場合も「論理的なものの三側面」の全体のなかで問題にしていて、妥当な方向だと思う。
以上、牧野紀之氏の在主義・歴史主義・総体主義に対する評価を見た。
ヘーゲルの「論理的なものの三側面」の叙述に忠実なのは、許萬元の内在主義・歴史主義・総体主義である。一方、この3つの契機を正しく展開しているのは牧野紀之の方だと思う。
しかし、牧野氏の理解する内在主義・歴史主義・総体主義はヘーゲルの叙述のなかに収まるのだろうか。牧野氏は、悟性―否定的理性―肯定的理性(悟性―弁証法―思弁)を、このままでよいと考えているのだろうか。
牧野氏は許萬元の大きな功績として、矛盾を闘争矛盾と調和矛盾に分けたことや必然性を歴史的必然性と体系的必然性に分けたことを挙げている。この分類はヘーゲルの「論理的なものの三側面」の規定と正確に対応しているから、牧野氏は積極的に「論理的なものの三側面」の規定を支持していることになる。
この点が鈴木茂の許萬元批判との大きな違いである。(つづく)
はじめに
1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判
2 牧野紀之の許萬元批判
3 鈴木茂の許萬元批判