論理は、常に、二つ以上の言明の関係によって成立します。たとえば、「彼は人相が悪い。だから、面接に落ちるだろう」「もうすぐ雨が降る。なぜなら、雷鳴が聞こえるからだ」というふうに、複数の文を「だから(したがって)」「なぜなら(というのも)」という接続詞で結びつけたときに初めて、「論理」が現われるのです。単に「彼は人相が悪い」といった単独の言明は、ただの主張であって、論理は起動していません。
言語と論理の関係についての、興味ある見解だと思う。三浦俊彦は、「接続詞」のはたす役割を指摘しているのだが、わたしは、言語のなかに論理が出現するとき、接続詞を含めて、ほかの品詞の場合も考えてみようと思った。
わたしは「論理的なもの」の構造として、自己表出と指示表出を想定している。これは吉本隆明の表現論から借りてきた考え方である。
『言語にとって美とはなにか』の図のなかで、品詞の分類表とはこれまで相性が悪かった。それは、自己表出の傾向がもっとも強い品詞として、感動詞が取り上げられていたからである。わたしは「論理的なもの」の自己表出として、類としての同一性、普遍性や必然性を想定しているので、「感動詞」と「論理的なもの」とは結びつきにくかったのである。
しかし、自己表出の傾向の強い品詞として、「感動詞」ではなく「接続詞」を代表させると、品詞の分類表は、「論理的なもの」の構造と結びつき、「論理的なもの」の品詞論として妥当すると考えられる。「感動詞――名詞」ではなく、「接続詞――名詞」がわたしの自己表出と指示表出の理解の仕方なのである。
自己表出の傾向の強い品詞として「接続詞」を想定することは、根拠のないことではない。なぜなら、自己表出は三浦つとむ(『日本語はどういう言語か』)でいえば、主体的表現に対応しているが、かれは主体的表現の品詞として、助詞、助動詞、感動詞、応答詞、接続詞をあげているからである。
吉本隆明が示した図の「感動詞」を「接続詞」に置き換えたものが、「論理的なもの」の品詞論である。
「論理的なもの」は、自己表出と指示表出という複合した構造をもっている。これに対して、自己表出だけの単独の構造が、「論理」そのものなのである。