これは2005年に書いた「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」を改訂したものである。(ですます調をである調にかえている、また合理的核心に「対話」だけでなく、「止揚」を加えている。)
2007年のブログを見ていて、ブログの中の「リンク」がまったくたどれないことに気づいた。これはOCNやso-netのホームページが使えなくなったことが原因である。いずれfc2でリンクをたどれるようにするつもりだが、今日はとりあえず、2007年の記事「幻視のなかの弁証法」の、たどれないリンク「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」を取り上げる。
「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」(改訂版)
ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握という問題があることは知っていたし、関心もあった。これが許萬元の『弁証法の理論』を読む背景にあったと思う。しかし、この問題を論じることになるとは思いもよらなかった。 わたしはヘーゲル弁証法の合理的核心を把握するという問題をマルクス主義とは違った方向で解決しようと考えている。立場の違いを明確にしておこう。
許萬元は、ヘーゲルとマルクスの弁証法を、歴史主義(否定的理性)と総体主義(肯定的理性)の二つの契機のうち、どちらを絶対的と見るか、どちらを従属的と見るかによって区別した。
ヘーゲル ―― 絶対的総体主義にもとづく歴史主義
マルクス ―― 絶対的歴史主義に立脚した総体主義
ヘーゲルでは、総体主義(肯定的理性)が絶対的で、歴史主義(否定的理性)は従属的であるのに対して、
マルクスでは、歴史主義(否定的理性)が絶対的で、総体主義(肯定的理性)は従属的である。
「絶対的史主義に立脚した総体主義」(マルクス)に対応する「論理的なものの三側面」は、どのようになるのかを考えた。なぜなら、「論理的なものの三側面」は「絶対的総体主義にもとづく歴史主義」(ヘーゲル)に対応していて、そのままではマルクス主義の「論理的なものの構造」論としては有効ではないと思えたからである。この発想が、結果として、ヘーゲルやマルクスとは違った弁証法を構想していくことになった。
いま、あらためて、マルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心をどのように見ようとしていたのかを確認してみると、許萬元の指摘は、マルクス主義としては、正しいことがわかる。
(引用はじめ)
弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョア階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その必然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その経過的な側面にしたがって理解するものであって、何ものをも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。(『資本論』第二版あとがき、1873年)
(引用おわり)
マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ている。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられる。いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ている。これは間違いないと思われる。許萬元の「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」は、マルクスの「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場を正確に受け継いでいるだろう。
わたしの試みは、このような「論理的なものの三側面」に立脚した弁証法を克服することにある。
マルクスや許萬元が、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、そのまま合理的核心を見るのに対して、わたしは「論理的なものの三側面」を解体して組み替えることによって、はじめてヘーゲル弁証法の合理的核心が出てくるのではないかと考えたのである。
ヘーゲルの定式では、「否定的理性」と「肯定的理性」は、独立した二つの段階となっている。「否定的理性」と「肯定的理性」は、矛盾の論理として直列に結合している。はじめに「否定」、次に「否定の否定」。「否定」と「否定の否定」が継起的に進行していく。直列構造が「論理的なものの三側面」の特徴になっていると思う。この直列構造こそが、弁証法の神秘化された形態ではないかと思う。これを解体し組み替えるのが、わたしの試みである。
ヘーゲル弁証法の合理的核心は、マルクスのことばを借りていえば、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を、「過程的・継起的」ではなく「場所的・同時的」に見ることによって、把握できると思う。「肯定」と「否定」を、過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ていくのである。過程的・継起的に見るとき「矛盾」を避けることができない。場所的・同時的に見るとき、「対話」と「止揚」の可能性が生まれてくるのである。(2005/02/12)
追記
リンクがたどれないので、この記事が読めないものと思い込んだが、記事自体はブログとしても公開されていた(2005年の記事06)。ごく初期の考察である。