対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握

2025-02-07 | 許萬元
はじめに 

これは2005年に書いた「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」を改訂したものである。(ですます調をである調にかえている、また合理的核心に「対話」だけでなく、「止揚」を加えている。)
2007年のブログを見ていて、ブログの中の「リンク」がまったくたどれないことに気づいた。これはOCNやso-netのホームページが使えなくなったことが原因である。いずれfc2でリンクをたどれるようにするつもりだが、今日はとりあえず、2007年の記事「幻視のなかの弁証法」の、たどれないリンク「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」を取り上げる。

「ヘーゲル弁証法の合理的核心――主題と変奏」(改訂版)

 ヘーゲル弁証法の合理的核心の把握という問題があることは知っていたし、関心もあった。これが許萬元の『弁証法の理論』を読む背景にあったと思う。しかし、この問題を論じることになるとは思いもよらなかった。 わたしはヘーゲル弁証法の合理的核心を把握するという問題をマルクス主義とは違った方向で解決しようと考えている。立場の違いを明確にしておこう。

 許萬元は、ヘーゲルとマルクスの弁証法を、歴史主義(否定的理性)と総体主義(肯定的理性)の二つの契機のうち、どちらを絶対的と見るか、どちらを従属的と見るかによって区別した。
     ヘーゲル ―― 絶対的総体主義にもとづく歴史主義
     マルクス  ―― 絶対的歴史主義に立脚した総体主義
ヘーゲルでは、総体主義(肯定的理性)が絶対的で、歴史主義(否定的理性)は従属的であるのに対して、
マルクスでは、歴史主義(否定的理性)が絶対的で、総体主義(肯定的理性)は従属的である。

 「絶対的史主義に立脚した総体主義」(マルクス)に対応する「論理的なものの三側面」は、どのようになるのかを考えた。なぜなら、「論理的なものの三側面」は「絶対的総体主義にもとづく歴史主義」(ヘーゲル)に対応していて、そのままではマルクス主義の「論理的なものの構造」論としては有効ではないと思えたからである。この発想が、結果として、ヘーゲルやマルクスとは違った弁証法を構想していくことになった。
 いま、あらためて、マルクスがヘーゲル弁証法の合理的核心をどのように見ようとしていたのかを確認してみると、許萬元の指摘は、マルクス主義としては、正しいことがわかる。
(引用はじめ)
 弁証法は、その神秘化された形態においては、ドイツの流行であった。というのは、現存しているものに光明を与えるように見えたからである。弁証法は、その合理的な姿においては、ブルジョア階級とその杓子定規的な代弁者にとって腹立たしい、恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その必然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その経過的な側面にしたがって理解するものであって、何ものをも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである。(『資本論』第二版あとがき、1873年)
(引用おわり)
 マルクスは、ヘーゲル弁証法の合理的核心を、「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場に見ている。このような捉えかたは、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を過程的・継起的に見ることにもとづいていたと考えられる。いいかえれば、マルクスは、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、ヘーゲル弁証法の合理的核心を見ている。これは間違いないと思われる。許萬元の「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」は、マルクスの「生成した一切の形態を運動の流れの中」で理解する立場を正確に受け継いでいるだろう。

 わたしの試みは、このような「論理的なものの三側面」に立脚した弁証法を克服することにある。
 マルクスや許萬元が、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」に、そのまま合理的核心を見るのに対して、わたしは「論理的なものの三側面」を解体して組み替えることによって、はじめてヘーゲル弁証法の合理的核心が出てくるのではないかと考えたのである。
 ヘーゲルの定式では、「否定的理性」と「肯定的理性」は、独立した二つの段階となっている。「否定的理性」と「肯定的理性」は、矛盾の論理として直列に結合している。はじめに「否定」、次に「否定の否定」。「否定」と「否定の否定」が継起的に進行していく。直列構造が「論理的なものの三側面」の特徴になっていると思う。この直列構造こそが、弁証法の神秘化された形態ではないかと思う。これを解体し組み替えるのが、わたしの試みである。

 ヘーゲル弁証法の合理的核心は、マルクスのことばを借りていえば、「現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解」を、「過程的・継起的」ではなく「場所的・同時的」に見ることによって、把握できると思う。「肯定」と「否定」を、過程的・継起的ではなく、場所的・同時的に見ていくのである。過程的・継起的に見るとき「矛盾」を避けることができない。場所的・同時的に見るとき、「対話」と「止揚」の可能性が生まれてくるのである。(2005/02/12)


追記 
リンクがたどれないので、この記事が読めないものと思い込んだが、記事自体はブログとしても公開されていた(2005年の記事06)。ごく初期の考察である。

科学以上の科学は必要か

2018-09-19 | 許萬元
「内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえ」は中断している。気になっているのだが進めない。古い文献を引っ張り出して読みなおしている。鈴木茂は許萬元の弁証法理論を批判している。「科学以上の科学は必要か」はその論文のタイトルである(『唯物論と弁証法』所収、文理閣、1989)。
はじめの科学は経験科学(相対的・有限的)である。次の科学(学)は絶対的・無限的で、ヘーゲルの(論理)学を指している。鈴木には許萬元の弁証法は「科学以上の科学」にみえる。これは「思考と存在の同一性」に基づいている。ここを批判するのが鈴木の許萬元批判の中心である。
この鈴木の批判の一部を継承して「内在主義・歴史主義・総体主義」のゆくえを、いいかえれば、「論理的なものの三側面」のゆくえを見定める予定である。継承するのは「外的反省の立場」、「有限者の立場」に限定すること、「科学以上の科学(学)は必要ない」ことである。鈴木茂は「論理的なものの三側面」の定式を批判的に見ていたと思うが、それについての言及はない。

中断しているもの

2016-06-01 | 許萬元
中断しているものの一つに「内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえ」がある。気になっているのだが、なかなか取り組めない。牧野紀之氏は許萬元論文の「評注」を公表している。これを参考にして続きを考えてみようと思っている。

内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえ(3)

2010-04-04 | 許萬元

 2 牧野紀之の許萬元批判

 許萬元氏は弁証法に内在主義・歴史主義・総体主義の3つの契機を指摘した。これら3つの契機に対して、牧野紀之氏は認識の不徹底性を指摘している。単純な言い方をすれば、内在主義・歴史主義・総体主義のそれぞれに対して、半分だけを評価している。

 許萬元は歴史主義を否定的理性の側面と対応させ、総体主義を肯定的理性と対応させた。しかし、牧野氏はこの対応にこだわらず、歴史主義も総体主義も悟性的側面と理性的側面の全体のなかで把握している。内在主義についてもそうである。

 内在主義・歴史主義・総体主義に対する批判を確認しておこう。引用はすべて「サラリーマン弁証法の本質」から。

 ア)内在主義

牧野 あの章の展開は要するに、①ゼノンが内在主義の祖であること、②内在主義は悟性的、とは言ってはいませんが私が補うと、悟性的な理由づけの態度とは対立するものであること、③ゼノンとカントの弁証法は主観的なものであったこと、④内在主義が客観的なものである以上唯物論と結びついてこそそれは徹底されること、⑤それは要するに「ありのままの反映」ということになるのだが、そのための方法が「内在的超出」であること、以上五点がこの順序で述べられているわけですね?
読者 私にはそう明確にはまとめられませんでしたが、言われてみればそうだと思います。それでこれのどこに問題があるのですか?
牧野 八〇頁で、物事をありのままにみるのが唯物論だがその方法はどうするのかともってくるのがいかにも不自然なのです。これを不自然と感じないとするならばそれは理論的感覚が鈍いからで、こういうのをピリッととらえるようでなければいけません。
 方法というのは認識において主観が予め頭の中にもっている観念であり、はっきり言うと先入観のことです。先入観というと悪く聞こえるが方法と聞くとコロッと参っちゃうようではいけません。方法とは先入観の別名にすぎません。ですから、方法をもって認識するということは、(これがヘーゲルの「アン・ジッヒ」です)、「ありのままの反映」と矛盾することなのです。それなのに、こういう矛盾を読者に意識させないで、内在的考察=ありのままの反映からすぐに方法と言って内在的超出をもってくる、これはいただけません。

牧野 私の考えは『関口ドイツ語学の研究』の「まえがき」に「先入観をもって読む」として書いておきましたが、許さんの立場に立ってこの第一章を書きなおしますと、①あらゆる認識はありのままの反映を目指していること、そしてこれが内在的考察であり唯物論でもあること、②しかし、「ありのままに」反映するためにこそ先入観=方法をもって臨まなければならないこと、つまり客観的であるためにこそ主観的でなければならないこと、③この主観性に大きく分けて二段階あり、第一段階が客観から離れる悟性的段階で、これは①の出発点より見かけ上は後退しているが第二段階への契機を含み避けられない段階であること、④第二段階は理性的内在的超出の方法を駆使する段階で、これは第一段階の客観と主観の分裂の克服であり、①の出発点に一層高い形で戻るものであること、まあこんな風に書くとよかったと思います。
読者 許さんの叙述では理由づけが悪玉で内在主義が善玉みたいな書き方になっているわけですね?
牧野 そうです。あれではヘーゲルのもっとも嫌った有限に対立する無限、特殊に対立する普遍という悟性的な考え方と変りません。許さんには珍しい失敗でした。

 牧野氏は、内在主義に悟性的段階と理性的段階を想定し、この2つの段階を等価な段階と考える。しかし、許萬元にあっては、悟性的段階が軽視され、理性的段階だけが強調されている。「方法をもって認識するということ」と「ありのままの反映」は矛盾しているにもかかわらず、許萬元は「内在的考察=ありのままの反映」と「方法=内在的超出」を直結させている。内在主義の理性的側面だけが強調され、悟性的側面が軽視されている、というのが牧野氏の見解である。

 イ)歴史主義

牧野 内在主義自体が先に述べたように単にあるがままに見るという原初的内在主義から出発し、一度理由づけという外的反省によって否定され、更にそれを否定して内在的超出の立場に立つ完成された内在主義へと発展していくわけです。この完成された内在主義は内在的超出という発展の論理を自覚的に適用する立場ですから、当然歴史主義と一致するわけです。
読者 すると、許さんの内在主義の説明がこのようにはっきりしていないから、内在主義と歴史主義の一致という鋭い指摘がわかりにくくなったのですね?
牧野 そうです。それに歴史主義の説明にも問題があります。というのは、彼には概念そのものの立場と絶対的理念の立場との違いがわかっていないらしく、歴史主義にも単に「事物は発展するものだ」「歴史的に見なければいかん」という段階と、その発展の「論理」を自覚してその論理を方法として自覚的に駆使して考えていく段階とがあるのに、その区別に全然ふれていないのです。

 歴史主義の2つの段階の区別にふれていないのは、許萬元は歴史主義を否定的理性的側面と対応させているからである。牧野氏がこのような批判をするのは、歴史主義を拡張して解釈しているからだと思われる。つまり、牧野氏は歴史主義に否定的理性的側面だけでなく、悟性的側面にも肯定的理性的側面も見ているのである。

 ウ)総体主義

牧野 あの章は、ヘーゲルの総体性が有機体論と合目的性(目的論)とに結びついているという認識に立っているのですね。これ自身正しいのですが、これだけでは不十分なのです。その不十分さは大きく言って二点あって、第一点は、合目的性とは目的を中心にした総体性だから、それは一般化すると、「中心のある総体性」となるのですが、こういう結論が引出されていないことです。許さんは「もともと総体性とはそういうものだ」と反論するでしょうが、これを明確に出し、中心のない総体性=悟性的平面的全面性との異同を論じていない以上、それは言い訳です。
第二の欠点は、ヨーロッパ人が合目的性と目的意識性とを区別せず、前者の下で後者を考えていることを見破れず、許さん自身この両者の異同を問題にせず、ヘーゲルの総体性がすぐれて目的意識性の立場=自我=人間の立場と結びついていることを見抜けず、有機体一般の立場で総体性をとらえようとしたことです。

 欠点の第2については興味ある指摘だが、ここでは取り上げない。中心のない総体性について指摘するのは、やはり総体主義の拡張的解釈で、許萬元はあくまでも、総体主義を肯定的理性的側面と対応させている。これに対して、牧野氏は総体主義を悟性的側面と理性的側面の全体で捉えているのである。

 牧野氏は、歴史主義については悟性的側面・肯定的理性的側面を補充しなければならないこと、内在主義と総体主義については悟性的側面を補充しなければならないことを指摘していることになる。いずれの場合も「論理的なものの三側面」の全体のなかで問題にしていて、妥当な方向だと思う。

 以上、牧野紀之氏の在主義・歴史主義・総体主義に対する評価を見た。

 ヘーゲルの「論理的なものの三側面」の叙述に忠実なのは、許萬元の内在主義・歴史主義・総体主義である。一方、この3つの契機を正しく展開しているのは牧野紀之の方だと思う。

 しかし、牧野氏の理解する内在主義・歴史主義・総体主義はヘーゲルの叙述のなかに収まるのだろうか。牧野氏は、悟性―否定的理性―肯定的理性(悟性―弁証法―思弁)を、このままでよいと考えているのだろうか。

 牧野氏は許萬元の大きな功績として、矛盾を闘争矛盾と調和矛盾に分けたことや必然性を歴史的必然性と体系的必然性に分けたことを挙げている。この分類はヘーゲルの「論理的なものの三側面」の規定と正確に対応しているから、牧野氏は積極的に「論理的なものの三側面」の規定を支持していることになる。

 この点が鈴木茂の許萬元批判との大きな違いである。(つづく)

 はじめに

   1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判

   2 牧野紀之の許萬元批判

   3 鈴木茂の許萬元批判


内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえ(2)

2010-02-21 | 許萬元

 1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判

 島崎隆は『ヘーゲル弁証法と近代認識』のなかで次のように許萬元を評価していた。

 氏はヘーゲル弁証法の三大特徴として、的確に内在主義、歴史主義、総体主義の立場を列挙しながら、〈論理的なものの三側面〉に説き及ぶ。氏は三側面の展開を〈悟性―弁証法―思弁〉と簡潔にまとめて、悟性から弁証法への発展のなかに「理性の否定作用」と「歴史主義の原理」があり、弁証法から思弁への発展に「理性の肯定作用」と「総体主義」がみられるという。そのさい、「弁証法」は「思弁的側面」から切り離されてはならないとされる。この点では同じ唯物論的立場からではあるが、見田氏よりも正当な理解を示しているといえよう。ただし許氏にも、〈悟性―弁証法〉と〈弁証法―思弁〉が切れているという印象が残らないわけではない。というのは「歴史主義の原理」としても、三側面すべてがかかわるからである。(中略)

許氏のいう「総体性の立場」も三段階を貫いて、つまり弁証法的否定を媒介とした思弁的段階で成立するのである。こうして、事物の歴史的発展の論理としても、総体性認識の論理としても、〈論理的なものの三側面〉と首尾一貫して読まれるべきであろう。

 これは歴史主義と総体主義の並列構造を指摘しているものである。このような評価は、否定的理性と肯定的理性の直列構造を並列構造に変換するわたしの試みと通じるものがあると思った。「弁証法試論」(試論2003)を確認しておこう。

    「弁証法試論」(試論2003)第4章  新しい弁証法の基礎より。

 このような歴史主義と総体主義が分断されているのではないかという疑問は、『ヘーゲル弁証法と近代認識』の中にも見ることができます。島崎隆は次のように述べているのです。〈ただし許氏にも、〈悟性―弁証法〉と〈弁証法―思弁〉が切れているという印象が残らないわけではない。というのは「歴史主義の原理」としても、三側面すべてが関わるからである〉。

 つまり、歴史主義は悟性的段階から弁証法的段階で確立するのではなく、思弁的段階へ進むことによってはじめて成立すると島崎隆は考えているのです。また、総体主義も弁証法的段階から思弁的段階で確立するのではなく、悟性的段階から始まり弁証法的否定を媒介して思弁的段階で成立すると考えているのです。

 いいかえれば、許萬元が歴史主義を〈悟性―弁証法〉と捉え、また総体主義を〈弁証法―思弁〉と分断して捉えているのに対して、島崎隆は、歴史主義も総体主義も〈悟性―弁証法―思弁〉と一貫して捉えるべきであると主張しているのです。

 最初に歴史的、次に総体的という順序ではなく、最初から歴史性と総体性が、同時的に進行していくという方向を示唆していて、妥当な指摘だと考えます。

 ヘーゲルの用語でいえば、最初に否定的理性、次に肯定的理性という順序ではなく、最初から否定的理性と肯定的理性が一体となって、同時的に進行していくということになるでしょう。弁証法の二大機能は、直列につながれているのではなく、並列につながれているという設定が考えられるのです。

 ここで「直列」とは、理性の肯定作用が、否定の否定として、理性の否定作用に従属していることを指すと考えてください。これに対して、「並列」とは、肯定作用はあくまでも肯定作用で、理性の否定作用とは独立した機能であることを意味します。

 つまり、「否定」と「否定の否定」という進行ではなく、「否定」と「肯定」が同時に進行していくという設定を考えるのです。

 この並列につなぎ直した弁証法の二大機能が新しい弁証法の基礎になると思われます。独立した理性の否定作用と肯定作用を混成することは、ヘーゲルの「矛盾」を排除して、「対話」を弁証法に導入する基礎になると考えます。

 島崎隆の許萬元評価とわたしの試みを、あらためて読み直してみて、次の点に気づく。

  1. 島崎隆は内在主義について疑問を提出していない。
  2. わたしの試みにも、内在主義がない。歴史主義と総体主義に終始していて、内在主義についてのくわしい展開が欠如している。
  3. 理性の肯定作用と否定作用の並列構造を許萬元に従って「弁証法の二大機能」と述べているが、弁証法ではなく思考の二大機能というべきである。弁証法は別の視点から形容すべきである。
  4. 内在主義と「論理的なものの三側面」の関係はあいまいなままである。

 内在主義・歴史主義・総体主義と「論理的なものの三側面」の関係、そして「論理的なものの三側面」を解体した後に、この3つの契機はどのように止揚されるのかを明確にしようと思う。(つづく)

  はじめに

   1 島崎隆の歴史主義・総体主義批判

   2 牧野紀之の内在主義批判

   3 牧野紀之の歴史主義・総体主義批判

   4 鈴木茂の許萬元批判


内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえ(1)

2010-02-14 | 許萬元

はじめに

  こんど牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」を読み、許萬元の弁証法を再考してみようと思った。ヒントが見つかったように思えたのである。許萬元は弁証法の三大特色として内在主義・歴史主義・総体主義を指摘した。このうち歴史主義・総体主義は、否定的理性と肯定的理性と関連づけられ、弁証法の二大機能として把握し直されていて、理解しやすかった。これに対して、内在主義の方は、必然性の認識と関連し、歴史主義と総体主義の基礎になっていることはわかっていたが、しかし、これまで「論理的なものの三側面」との関係をうまく把握することができなかった。また、内在主義は、他の2つが弁証法の二大機能と形容されているようには、特別な形容がないと思ってきた。

 いまは内在主義を「ナッハデンケンによる即かつ対自的考察法」と対応させれば、許萬元の弁証法は完結していると思えるようになった。

 「論理的なものの三側面」の規定を解体することが新しい弁証法の理論の基礎である。これまで、否定的理性と肯定的理性の直列構造を並列構造に変換することを提起してきた。歴史主義と総体主義についてはわたしなりに解決しているのである。しかし、内在主義の変換の方はまだだったのだと思う。

 「"Nachdenken"による即かつ対自的考察法」から、ナッハデンケン(Nachdenken)を切り捨て、たんに「即かつ対自的考察法」を対置すればよいと思った。そして「悟性―理性―悟性」という過程と対応させて、これを下向と上向の過程と重ねれば、「論理的なもの」の過程としての構造は完結するのではないかと思えるようになった。

 「論理的なもの」の「悟性―否定的理性―肯定的理性」という直列構造(「論理的なものの三側面」)を、「論理的なもの」の「悟性と理性の直列構造・否定作用と肯定作用の並列構造」に変換して、そこに、内在主義・歴史主義・総体主義のゆくえを定めればよいのだと思う。(つづく)

   はじめに(本プログ)
   1 牧野紀之の内在主義批判 
   2 島崎隆の歴史主義・総体主義批判
   3 牧野紀之の歴史主義・総体主義批判
   4 鈴木茂の許萬元批判


許萬元の弁証法はみずから語りだしてはいなかった

2010-02-06 | 許萬元

 許萬元は、マルクスの次のことば(『資本論』初版)を手本にしていた。

「もし私が、商品としてはリンネルは使用価値と交換価値である、というならば、それは分析によってえられた商品の性質についての私の判断である。これに反して、20エレのリンネル=1枚の上衣……という表現においては、リンネルは、それが(1)使用価値(リンネル)であり、(2)それとは異なる交換価値(上衣と同等なもの)であり、(3)この両者の区別と統一、つまり商品であることを、みずから語っているのである。」

 これはマルクスの分析が事柄自身と対応して事態即応的になされていることを取り上げているものである。許萬元はこれを弁証法の存在論的性格と認識論的性格を強調するとき、根拠にしている。すなわち、認識論に偏向している松村一人や見田石介の弁証法を批判し、弁証法の存在論的な性格を指摘するとき。反対に、存在論に偏向している武市建人と宇野弘蔵の弁証法を批判して、弁証法の認識論的性格を指摘するとき。

 わたしも手本にした。しかし、許萬元のようにではない。わたしは弁証法がみずから語りだすかどうか、わたしの分析と対応する表現を求めるときに指針としたのである。もちろん、許自身の弁証法を評価するときの基準としても。

 許萬元は弁証法の三大特色として内在主義・歴史主義・総体主義を指摘した。この三大特色は、ヘーゲルが『哲学史講義』の中で弁証法の創始者としてゼノン・ヘラクレイトス・プラトンをあげていることに基づいているものである。

 また、許萬元はヘーゲル弁証法の核心を「論理的なものの三側面」に見ている。

    (1)抽象的側面あるいは悟性的側面
    (2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面
    (3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

 許萬元のいう歴史主義は、(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、また、総体主義は(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面と対応している。この2つの特色を、許萬元は弁証法の二大機能ともいっていて、この2つを「論理的なものの三側面」と関係づけている。しかしかれは、内在主義という弁証法の特色を、「論理的なものの三側面」と関係づけていないのである。もちろん内在主義は(1)抽象的側面あるいは悟性的側面と対応するわけではない。

 ヘーゲルの「論理的なもの」の規定は確実なものなのか。また、許萬元の内在主義・歴史主義・総体主義という規定は妥当なのか。

 許萬元自身が手本とするマルクスの商品のように、許萬元の弁証法は告白しているのか。いいかえれば、弁証法はみずから内在主義・歴史主義・総体主義であることを語っているのか。

 わたしは、許萬元の弁証法はみずから語りだす気配はないと思った。「論理的なもの」の構造の見直し、内在主義・歴史主義・総体主義の見直しが必要だと考えた。

 「論理的なものの三側面」の規定はヘーゲルの「判断」にすぎない。「内在主義・歴史主義・総体主義」は許萬元の「判断」にすぎない。それらは「外的」に捉えられただけで、「内的」に把握されてはいない。これがわたしの「判断」だった。 

 マルクスのことばと関係づけておこう。

 〈もしわたしが、「論理的なもの」は自己表出と指示表出の複合体である、また、弁証法は対話をモデルとした思考方法であり、認識における対立物を統一する技術であるというならば、それは分析によってえられた「論理的なもの」と弁証法についてのわたしの判断である。これに反して、

弁証法の共時的構造、すなわち、

c bi + a di
+       +
bi c + di a

という表現と

弁証法の通時的構造、すなわち、

1(選択) A =a+bi
A' =c+di
2(混成) A×A' =(a+bi)×(c+di)
≒(a+di)×(c+bi)
3(統一) =(ac-bd)+(ab+cd)i
=x+yi
=B

という展開においては、

  (1)   「論理的なもの」は自己表出と指示表出の複合体である
  (2)  弁証法は対話をモデルとした思考方法である
  (3)  認識における対立物を統一する技術である

ということを、みずから語っているのである。〉


キッズ弁証法

2010-01-17 | 許萬元

 牧野紀之の名前を知ったのは、2006年に、ウィキペディアの弁証法やヘーゲルに関連する記事を見ていたときである。そのころ書いた記事をあらためて読み直してみると、微妙なタイミングで牧野氏の名前を知ったのだと思う。知らないまま通り過ぎていた可能性もあったのだ。

  許萬元の弁証法

  「主な著作」の復元(ウィキペディア「ヘーゲル」)

 氏の本を読んでみると、ヘーゲルの翻訳に裏打ちされた優れた視点を確認することができた。

   1 「悟性」と「思弁」の訳語について
   2 「論理的なもの」と「経験的なもの」の対置
   3 「外的必然性(偶然性)と内的必然性(必然性)」と「悟性と理性の対応」
 
 そして、この3点を、わたしの弁証法の理論のなかに取り入れた。

   1 悟性の二重性
   2 「論理的なもの」とアインシュタインの認識論
   3 表出のなかの悟性と理性

 牧野氏の許萬元論(「サラリーマン弁証法の本質」)は気になっていた。しかし、この3年間、読む機会はなかった。

 牧野紀之は次のように述べていたのである。

 許萬元の弁証法研究の意義と限界を好くまとめたものが牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」(『哲学夜話』鶏鳴出版に所収)です。

 実際、許萬元のヘーゲル研究は深いものですが、結局は学説史的研究で(あ)り、用語もヘーゲルやマルクスのままですから、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」という感想を皆が持つのです。

 「サラリーマン」という命名が気になっていた。昨年の暮れ、pdf鶏鳴双書(絶版になった本のpdf)に、これがあることを知り、購入した。

 牧野紀之と許萬元は東京都立大学大学院の同期だという。『哲学夜話』の初版は1977年だった。「サラリーマン弁証法の本質」は70年代の前半に書かれたものだろうと思う。

 「サラリーマン弁証法の本質」は思いがけない内容だった。牧野紀之は許萬元の弁証法の本質を「唯物史観なき弁証法」と特徴づけていた。もちろん牧野はこれを否定的に捉え、牧野自身の弁証法の方向性を明確にしていた。それが、許萬元の弁証法を「サラリーマン弁証法」と名付ける根拠となっている。わたしは自分自身の弁証法を牧野紀之と対照させて展開してみようと思った。

 牧野紀之は、許萬元の弁証法の論じ方に異議を唱えることから始めている。

 ここでの問題は「みんなが弁証法に関心をもっているから弁証法を論じる」という態度そのものです。つまり、この言葉だけとると、許さんは、多くの人が弁証法に関心をもっているのはなぜかと、その関心の社会的背景にまでさかのぼらないのです。

 たしかに「みんなが弁証法に関心をもっているから弁証法を論じる」という述べ方は、それだけを真に受けるのは正しくないでしょうね。しかし、その社会的背景や思想史的流れのなかでの位置づけを「口にしない」ということは、彼が弁証法の説明に終始しており、しかもその弁証法の理解に「唯物史観なき弁証法」という根本的な大欠陥を示しているとなると、単に「口にしない」のではなくて、「そういう問題意識がない、あるいは乏しい、ないしそれを避けている」ということになってきます。現に、大衆がなぜ弁証法に関心をもつかと追求していくと、そこに社会生活と社会運動の問題が出てきて、それは結局札束と人事権の問題につながり、許さん自身のサラリーマンとしての生き方にも反省を加えなければならなくなります。ですから、本能的にこれを避けて純理論の世界にこもることになったのです。そして、この根本姿勢が理論そのものにも大きな枠をはめることになったのですが、それはこれから順にやっていきましょう。

 牧野紀之は、サラリーマン弁証法の本質を、考え方だけが問題になって生き方が問題になっていない点に見定めている。

 早い話、許さん自身講壇サラリーマン哲学の枠内で、その質と限界のなかに生きていて、まだそれを超える立場=生活のなかの哲学という当為を感じていないので、その限界を制限として感じず、従って講壇哲学の枠を破る運動をしていないのです。

 哲学史的ではなく哲学的に見ると、世界観としての弁証法という面が落ちて科学方法論としての弁証法という面ばかり強調することになるのです。

 ヘーゲル研究におけるこういう姿勢はマルクス研究においてもその賃労働者階級の立場を問題にしないでひたすら「資本論の方法」を問題にすることで一層拡大され、ついにはレーニン研究において、レーニン主義の核心である前衛と前衛討論を扱わないで、ひたすら「レーニンの弁証法」を問題にするという態度となって完成されます。
 これがまさにサラリーマン弁証法でなくて何でしょうか。人事と札束に支配されながら、その根本を問題にしないで、つまり生き方を問題にしないで考え方だけを問題にするのがサラリーマン弁証法の本質です。

 牧野は市井に道場を開き、「生活のなかの哲学」を探究する生き方を選択した。その立場から見ると、大学にとどまる許萬元の生き方が歯がゆく思えたのだろう。許萬元の生き方を批判する。そして、許萬元の弁証法を批判する。

 「唯物史観なき弁証法」というのは、マルクス主義の立場から見れば、後退した捉え方なのだろう。事実、牧野は科学方法論ではなく世界観としての弁証法を追求する姿勢を示している。しかし、この捉え方は、ヘーゲルが始め、マルクス主義が引き継いだ肥大化した弁証法の誤った考え方だと思う。「唯物史観なき弁証法」というのは、合理的な弁証法を探究する立場から見れば、前進している捉え方である。

 生き方は弁証法の問題ではない。それは人の問題である。わたしは、サラリーマンだろうが、道場の経営者だろうが、とやかく言わない。弁証法はあくまでも考え方の問題だと思うからである。 

 対照してみよう。
 
 「サラリーマン弁証法」がある。牧野はこれを「生活のなかの哲学」として活かそうとする。あるがままの許萬元弁証法ではなく、大衆の立場からとらえ直した限りでの許萬元弁証法を探究する。

 「サラリーマン弁証法」がある。わたしはこれを「生活のそとの哲学」として活かそうとする。生き方ではなくあくまでも考え方として弁証法を捉える。「生活のそと」とは、吉本隆明のいう25時間目のことである。

 牧野紀之は、「生活の中」で弁証法を問題にし、その弁証法は「生き方」である。これに対して、わたしの場合は、「生活の外」で弁証法を問題にし、その弁証法は「考え方」である。

 許萬元の弁証法が「サラリーマン弁証法」なら、牧野紀之の弁証法は「在野人弁証法」と言えるだろう。

 わたしの場合は、どのように形容すればよいのだろうか。「生活の外」と「考え方」にアクセントがあり、それでいて生活のなかに生きている存在。それは子供ではないだろうか。許萬元と牧野紀之のいずれも、大人の弁証法である。これに対して、わたしのは子供の弁証法なのだ。「キッズ弁証法」。子供は「人事と札束」に無頓着なのである。

 思考の世界における子供といえば、ニュートンのことばが思いだされる。

 世間が私をどう見ているかはわかりませんが、私自身は自分を、浜辺で遊ぶひとりの子供のようなものだと思っています。私はただ、形のよい小石や綺麗な貝殻を探すことに夢中になっている。だが、そのすぐ眼の前には、大いなる真理の海が、いまだ発見されぬまま広がっているのです。

 浜辺で遊ぶひとりの子供のような弁証法。キッズ弁証法。

 牧野紀之が許萬元の弁証法を「唯物論なき弁証法」と特徴づけたのは、正しいと思う。許萬元の弁証法は、すでに非マルクス主義化していたのである。これは興味ある指摘である。それはわたしの試みの序曲となっていたのである。

 牧野紀之は許萬元の功績として、矛盾を闘争矛盾と調和矛盾に分けたことや、必然性を歴史的必然性と体系的必然性に分けたことを挙げている。しかし、このような評価は、ヘーゲルの「論理的なものの三側面」の規定を踏襲することを意味しているだけである。わたしが牧野弁証法に感じる限界である。

 わたしは「許萬元の弁証法」のなかで、許萬元の弁証法研究の意義と限界を次のように述べた。

 わたしが許萬元の弁証法研究の意義と考えるのは、ヘーゲルまで遡り、内在主義と歴史主義と総体主義を抽出して、それを「論理的なものの三側面」と関係づけたことである。

 これに対して、その限界とは、ヘーゲルまでしか遡らず、「論理的なものの三側面」の規定にとどまったことである。

 牧野紀之も許萬元も、「論理的なものの三側面」の規定にとどまっている。キッズ弁証法は弁証法の非ヘーゲル化を探究しているのである。


許萬元の弁証法

2006-10-01 | 許萬元

 ウィキペディア(Wikipedia)に「許萬元」を投稿した。許萬元の弁証法の理論を中立的に次の6つの観点でまとめたものである。

  1 弁証法の三大特色
  2 弁証法の二大機能
  3 矛盾論
  4 ヘーゲルとマルクスの弁証法の違い 
  5 即かつ対自的考察法 
  6 概念の自己運動

 ウィキペディアの記事を見ていくうちに、許萬元が高く評価されているのを知った。

 「ヘーゲル」の「主な著作」には、ヘーゲル論理学の研究の代表的なものとして、マルクスとエンゲルスの著作(『資本論』『反デューリング論』『自然弁証法』)、レーニンの『哲学ノート』についで、許萬元の三部作(『ヘーゲルにおける現実性と概念的把握の論理』『ヘーゲル弁証法の本質』『認識論としての弁証法』)があげられている。このようなレベルにあるのかもしれない。次のようなコメントが付けられている。

 ヘーゲルとマルクスとエンゲルスとレーニンの弁証法の学説史的研究として不朽の名著です。これを越えるものは今後も現れないでしょう。というのは、それほど本書が徹底的だということでもありますが、同時に、ヘーゲルの理解のためにはマルクス主義を通る必要がありますが、社会主義の失敗以降、マルクス主義の哲学を理解しようとする努力が見られなくなったからです。

 しかし、他方で、コメントは次のように続き、許萬元の限界も指摘している。

許萬元の弁証法研究の意義と限界を好くまとめたものが牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」(『哲学夜話』鶏鳴出版に所収)です。実際、許萬元のヘーゲル研究は深いものですが、結局は学説史的研究で(あ)り、用語もヘーゲルやマルクスのままですから、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」という感想を皆が持つのです。

 「サラリーマン弁証法の本質」を読んでいないので、どのような意義と限界が指摘されているのか知らない。「学説史的研究」が意義で、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」というのが限界なのだろうか。

 わたしの「叙述」が、許萬元の弁証法の「内容」の理解に役立つなら幸いである。

 わたしなりに、許萬元の弁証法研究の意義と限界を、まとめておこう。

 許萬元の研究は学説史的研究ではない。許萬元は、ひたすら弁証法の本質論を探究したのだと思う。古典からの引用は圧倒的だが、これは、停滞した弁証法研究の現状(盲目的な例証主義、空虚な図式)を打破するのに必要だったというにすぎないと思われる。

私があえて弁証法の本質論を問題にしたのは、ふつう、弁証法研究といえば、個々の諸法則が公式的にとり出され、その公式にふさわしい実例を諸科学から見出すことであるかのように見なす風潮がかなり見受けられ、そうした弁証法にたいする断片的な現象論的理解から「弁証法の本質」を区別する必要がある、と考えたからであった。(中略)そこで私は、弁証法の創始者であるヘーゲルにまで遡って、弁証法を構成するもっとも本質的な契機を明らかにし、それらの連関を追求したのである。それによってはじめて、弁証法におけるヘーゲルとマルクスとの本質的差異の問題も、逆に明白になってくるのである。こうした弁証法の本質論の研究は、弁証法の諸法則(レーニンのいう「弁証法の諸要素」)を正しく理解するための理論的拠点ともなるであろう。(『弁証法の理論』)

 許萬元が弁証法の本質論を探究したことは、『弁証法の理論』の目次を見てもわかるのではないだろうか。学説史は主になっていないと思う。目次は、編、章、節まであるが、編だけ示せば、次のようである。
    
 上 ヘーゲル弁証法の本質

   第1編 ヘーゲル哲学とその唯物論的読解の可能性
   第2編 ヘーゲル弁証法の三大特色とその根拠
   第3編 マルクス弁証法の本質  ヘーゲル弁証法との差異について

 下 認識論としての弁証法

   第4編 哲学におけるレーニンの問題提起
   第5編 弁証法の存在論的性格
   第6編 弁証法の認識論的意義

 わたしが許萬元の弁証法研究の意義と考えるのは、ヘーゲルまで遡り、内在主義と歴史主義と総体主義を抽出して、それを「論理的なものの三側面」と関係づけたことである。

 これに対して、その限界とは、ヘーゲルまでしか遡らず、「論理的なものの三側面」の規定にとどまったことである。

 これが、わたしが考えている許萬元の弁証法研究の意義と限界である。

 許萬元の弁証法の「限界」を「制限」と捉えて、ヘーゲル弁証法の合理的核心を捉えようと試みているのが、「弁証法試論」である。

 さて、ウィキペディアにどうやって記事を書くのかを調べているとき、青リンクと赤リンクというシステムに興味をもった。青リンクは、ウィキペディアにその項目の記事があるもの、赤リンクは記事がないものである。「許萬元」の記事では、弁証法、ヘーゲル、マルクス、レーニンなどは青リンクである。見田石介、松村一人、武市建人は赤リンクである。
 
 「ヘーゲル」の「主な著作」にあった「許萬元」は赤リンクだった。わたしはそれをクリックして、記事を書いた。投稿したので、「許萬元」は青リンクに変わった。

 投稿したのは昨日の昼頃だったが夜見てみると、生い立ちがあり、「弁証法」と「著作」の見出しが追加され、たいへん読みやすくなっている。また、カテゴリに「日本の哲学者」とある。こんなふうに、これからも「許萬元」が拡張していけばいいなあと思う。


追悼・許萬元

2005-09-24 | 許萬元

 わたしの弁証法への関心は、1970年代の前半に始まるが、そのときは、弁証法といえば、もっぱら、『弁証法の諸問題』(武谷三男)だった。そのころ、許萬元は、『ヘーゲル弁証法の本質』(1972年)・『認識論としての弁証法』(1978年)を刊行しているが、わたしはまったく知らなかった。

 1995年に、『弁証法の理論』(創風社)をはじめて読んだとき、弁証法の本質を探究していくという姿勢に感動したものである。この本(『ヘーゲル弁証法の本質』と『認識論としての弁証法』を合本としたもの)はヘーゲル弁証法の合理的核心を捉えようとする研究の最先端にあるのではないかと思っていた。

 わたしのようなずぶの素人にありがたかったのは、ヘーゲル弁証法には三大特色(内在主義・歴史主義・総体主義)があり、ヘーゲル弁証法の本質が「論理的なものの三側面」に集約されるという指摘だった。そして、ヘーゲルとマルクスの弁証法の内的な構造の違いを、歴史主義と総体主義の二つの契機で要約してあることだった。

 ヘーゲルではなくマルクスの考える「論理的なもの」の構造はどのようになるのか? ヘーゲルが想定した「媒介の論理」とは異なる「媒介の論理」の可能性があるのではないか? これが、許萬元を検討していくなかから生まれた「問題」だった。

 わたしは弁証法を再考するきっかけを許萬元によって与えられたのである。

 1990年代の後半に、『弁証法の理論』をもっとも読んでいたのは、わたしだったのではないかと思う。いまは立場を異にしているが、「弁証法試論」は、許萬元の『弁証法の理論』の正統な継承であると考えている。

 わたしは2004年5月に、ホームページ「弁証法試論」を公開した。そのとき、立命館大学文学部気付で、許萬元に案内をした。感想をもとめたのである。返事はなかった。今月(2005年9月)になって、遺族の方から、先月、他界したと訃報のメールをいただいた。「生前は、父の著書をお読みいただき、感謝しています」とあった。おそれおおいことである。

 ある夜のこと、私は私の前を私と同じように提灯なしで歩いてゆく一人の男があるのに気がついた。それは突然その家の前の明るみのなかへ姿を現わしたのだった。男は明るみを背にしてだんだん闇のなかへはいって行ってしまった。私はそれを一種異様な感動を持って眺めていた。それは、あらわに言ってみれば、「自分もしばらくすればあの男のように闇のなかへ消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればやはりあんなふうに消えてゆくのであろう」という感動なのであったが、消えてゆく男の姿はそんなにも感情的であった。(「闇の絵巻」梶井基次郎より)