雪柳
2015-03-31 | 日記
論理的なものはなぜこの三つの契機をもち、なぜこの三つの段階をたどるのでしょうか。私たちは、悟性は有限なものを無限なものの反射あるいは反照としてつかみ、理性は無限なものをつかむという、あのヘーゲル初期の思考を前提して、ようやく分かるといわなければなりません。それにしても、理性による絶対的なものの思考には、いつも悟性による認識が先行しなければならず、それが破れなければならないのです。弁証法に疑問をもつ人は、いつまでもここに固執するでしょう。悟性と理性、有限と無限に対するヘーゲルの特異な捉え方が「論理的なものの三側面」の定式の背後にある。「対立する一項の内在的否定による進展」はヘーゲル哲学の中だけで成立する特異な進行形式といわなければならない。
それゆえ、それがどんなに魅力的にみえようとも、スピノザによって開かれた展望を、やがてカントによってたどられる展望に接近させることは、避けねばならない。しかし、ヘーゲル自身はこの混同におちいらないかというと、それはどうも怪しい。彼が行うスピノザに対する反論とカントに対するそれとは、秘かに共鳴しながら互いに呼応しあっている。この点が、スピノザ哲学についてのヘーゲルの誤解の鍵ではないだろうか。要するにヘーゲルは、スピノザのなかにカントを読んだかのようであり、スピノザの哲学的位置の革命的独自性を読むことができなかったのである。ヘーゲルはスピノザのなかにカントを読む一方で、カントのなかにスピノザを読んだのである。また、ヘーゲルはスピノザばかりでなくカントも誤解したのである。ヘーゲル弁証法はスピノザとカントを継承する過程で形成された「論理的なもの」だった。それは弁証法の神秘的な解釈だったのある。(了)
理性のアンチノミーにおいて問題となるのは、いろいろな理由にもとづいてああ考えたりこう考えたりすることでもなければ、単に主観的な行為でもなく、どんな悟性規定でも、それをその真の姿において考察しさえすれば、直接にその反対物に転化することを示すことである。これが「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」の定式になった。
弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。(2)〈否定の否定〉(否定的理性――肯定的理性)
ところでアンチノミーの真実で積極的な意味は、あらゆる現実的なものは対立した規定を自分のうちに含んでおり、したがって、ある対象を認識、もっとはっきり言えば、概念的に把握するとは、対象を対立した規定の具体的統一として意識することを意味する、ということにある。これが「思弁的側面あるいは肯定的理性の側面」の定式になった。
思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。
古い形而上学の立場では、認識が矛盾におちいるのは偶然の過ちにすぎず、それは推理や論証における主観的誤謬にもとづくと考えられていた。カントによれば、これに反して、無限なものを認識しようとすれば矛盾(アンチノミー)におちいるということは、思惟そのものの本性なのである。カント固有のアンチノミーは4つの限定されたものである。カントのアンチノミーの指示表出はスピノザ規定論の自己表出と関連することによって拡張される。これはスピノザの否定性を普遍化するため要請されたものである。カントの「認識」と「対立と矛盾」は、スピノザの規定論の自己表出と関連することによって存在化していった。
アンチノミーについて注意すべきもっとも重要なことは、アンチノミーは、宇宙論からとられた四つの特殊な対象のうちに見出されるだけでなく、むしろあらゆる種類のあらゆる対象のうちに、あらゆる表象、概念、および理念のうちに見出されるということである。