対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

平成が始まっていた2

2019-04-26 | 吉本隆明
3分の1ほど読んだところといわれた。「情況への発言」の文体とはまったく違ったゆっくりとした口調だった。関心をもたれていると感じることができた。それは「周期律の形成について」も読んでみたいといわれたことからも分かった。10年ほど前に送っている旨を伝えると記憶になく、もう一度送ることになった。私家版「もうひとつのパスカルの原理」については一定のレベルにあれば「試行」に掲載してもよいといわれた。わたしは原稿を見直して訂正すべき箇所を送付した。これが1990年の秋である。

平成3年(1991年)5月に冊子の入った封筒が届いた。試行70号が2冊入っていた。「もうひとつのパスカルの原理」(1)は私家版と同じ内容なのだが、魅力的な論考にみえるのだった。次の71号(1992.5)に「もうひとつのパスカルの原理」(2)が載った。次も期待した。しかし、「試行」はそのあと74号(終刊号)まで3号発行されたが、わたしの名前はなかった。ふりかえってみると、掲載された分が私家版の3分の1ほどにあたる。ここまでが「試行」のレベルと判断されたのだろう。残り3分の2の書き直しが次の課題となった。

平成が始まっていた1

2019-04-23 | 吉本隆明
「試行」の後記には、たいてい郵便料金値上げの悩みがつづられていた。情況への発言と共に後記は楽しみだった。
69号(1990.3)の後記のページに電話番号が書き入れてある。試行社(吉本隆明方)の住所を電話案内に告げたら間髪を入れず案内されたものだ。あまりの速さに驚いた記憶が残っている。この何か月か前に、私家版「もうひとつのパスカルの原理」を試行社に郵送していた。その感想を聞きたいと思っていたのである。
電話をすると奥様が出られた。「いま、散歩にいっている」ということであった。あとでかけ直すことになった。
(つづく)

表出の品詞論4

2015-02-02 | 吉本隆明
4 指示と関係

 三浦つとむは『日本語はどういう言語か』のなかで、語を根本的に二つに区別する鈴木朖(アキラ)の「言語四種論」(1824)をとりあげている。鈴木は「体の詞」・「作用の詞」・「形状の詞」の「三種の詞」と「てにをは」を区別し、次のように特徴づけている。前が「三種の詞」、後が「てにをは」である。

  さす所あり・さす所なし
  詞なり・声なり
  物事をさし顕して詞となり・其の詞につける心の声なり
  詞は玉の如く・緒の如し
  詞は器物の如く・それを使ひ動かす手の如し
  詞はテニヲハならでは働かず・詞ならではつく所なし

 三浦つとむは「物事をさし顕して」と「心の声」に着目して客体的・主体的な表現を見る。私はさす所の有無、玉と緒、器と手に着目して、指示・関係を見よう。


表出論の系譜

2009-07-19 | 吉本隆明

 許萬元の『弁証法の理論』を読んでいて、ヘーゲルとは違った「媒介の論理」の可能性があるのではないかと思ったのは、1995年だった。そのときをふりかえって、わたしは「弁証法試論(試論2003)」のなかで、次のように述べている。

 わたしは吉本隆明の表現論を認識論に応用して、認識の形成過程のモデルを作っていました。二つの異なる認識の自己表出と指示表出が組み合わされて、新しい自己表出と指示表出が形成され、新しい一つの認識が生まれるというモデルです。

 そして、わたしは認識の形成過程をさらに分析していくために、価値形態論にヒントを求めているところでした。すなわち、二つの商品(リンネルと上着)が対立するとき、それぞれの商品の価値と使用価値にどのような関係が新しく生まれてくるかという点に着目していました。二つの商品の価値と使用価値の関係が、二つの認識の自己表出と指示表出の関係に転移できないかどうかを模索していたのです。

 しかし、実をいえば、許萬元の「弁証法の理論」を読みはじめた頃は、自己表出・指示表出ということばで考えてはいなかった。これは、あくまでも2003年の時点で整理し述べたものである。価値形態論を参考にして形成過程のモデルの試作をしていたのは事実である。しかし、その過程を、「自己表出」と「指示表出」ということばでは考えてはいなかったのである。1990年代のほとんどすべてにおいて、わたしは、次の2つの間に分裂した状態のままで、考えていたのである。そこには、自己表出や指示表出はなかったのである。

  A 抽出過程(自己抽出と指示抽出)と構成過程(自己構成と指示構成)
  B 形式性(自己抽出と自己構成)と指示性(指示抽出と指示構成)

 この2つに分裂した状態は黒田寛一の認識論を継承することによって引き起こされていたものである。わたしの考えによれば、黒田認識論には3つの契機があった。

  1 分析的下向と上向的綜合
  2 科学=哲学
  3 対象認識と価値判断

 「対象認識と価値判断」という認識に構造が想定されていない欠陥を乗り越えるものとして、わたしは吉本隆明の表出論(「自己表出と指示表出」)を参考にしていた。そして表出論に1と2を取り込もうとしたのである。

 Aが、下向と上向の関係を把握しなおしたものである。下向が抽出過程にあたる。上向が構成過程である。
 Bは、科学=哲学という構造を把握しなおしたものである。

 Aについては、「表出の分節化」で概略はわかると思う。ここではBについて、述べておきたいと思う。

 黒田のいう「科学=哲学」というのは、『資本論』の学的構造の分析に基づいているが、わたしは「科学=哲学」という構造を解く鍵は次の戸坂潤の『科学論』にあると思っていた。

 哲学とは範疇体系(=方法・論理)の他の何物でもない。F・エンゲルスが「フォイエルバッハ論」において将来の哲学は形式論理と弁証法との他にないと云ったのはこの意味だろう。所謂科学は特定の認識内容である。これに対して所謂哲学は夫れの特定形式と、その一般形式への拡大とを意味する。方法や論理は、このような認識の形式を指すのでなければならぬ。ただこの形式は、内容自身からの所産であり、内容が分泌した膠質物であって、内容以外から来たものでもなく、ましてアプリオリに天下ってきたものでもない。だから今の場合形式に相当するこの方法や論理、すなわち哲学は、内容に相当する処のこの科学そのものからの抽出物として以外に、またそれ以上に、その独自性を持つことはできない約束なのである。

 要するに、認識の内容が科学、認識の形式が哲学である。わたしはその答を、吉本の表出論に見出したのである。

 吉本は『言語にとって美とはなにか』のなかで、次のように述べていた。

  文学の内容と形式は、それ自体としてきわめて単純に規定される。文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容というのである。もとより、内容と形式とが別ものでありうるはずがない。あえて文学の内容と形式という区別をもちいるのは、スコラ的な習慣にしたがっているだけである。しかし企図がないわけではない。文学の形式という概念の本質をしることは、じつに文学表現を文学発生の起源からの連続した転換としてみようとする特別な関心につながる。また、文学の内容という概念には、文学を時代的な激変のなかに、いいかえれば時代の社会相とのかかわりあいのうえにみようとする特別な関心につながっている。

 この形式内容論は簡潔で優れていると思った。あえていえば、この形式内容論こそが認識論に表出論を導入させたのである。自己表出と対応するのが形式である。指示表出と対応するのが内容である。わたしは、自己抽出と自己構成を形式性と考え、指示抽出と指示構成を指示性と考えればよいと思った。

 「形式性と指示性」は、認識の「形式と内容」に対応する。そして、認識の媒介機能は、この「形式性と指示性」によって担われていると考えた。ケストラーのバイソシエーションを把握する鍵は「形式性と指示性」にあると考えた。「形式性と指示性」ということばは、的確なものとは思えなかったが、他のことばは思いつかなかった。不満だが、これで行くより仕方なかった。

 価値形態論を参考にして、商品の価値と使用価値に対応させていたのは、認識の「形式性と指示性」であった。起点となったのは、リンネルと上着のあいだの価値関係あるいは交換関係が、2つの認識の形式関係あるいは変換関係に対応するのではないかということであった。

 わたしは1990年代において、認識を抽出過程と構成過程の複合体として、また、形式性と指示性の複合体として捉えていた。複素数のモデルでいえば、次のような式で認識を捉えていたのである。

    認識=構成過程+抽出過程×i

    認識=形式性+指示性×i

 しかし、細部に立入ってみると、次のような式になり、自分でも把握しにくいものだったのである。

    認識=構成過程(自己構成と指示構成)+抽出過程(自己抽出と指示抽出)×i

    認識=形式性(自己抽出と自己構成)+指示性(指示抽出と指示構成)×i

 もちろん自分で引き起こしたものである。停滞していたのである。しかし、2000年近くになって、あるとき、いったん二重化した抽出過程と構成過程を表出過程に統一して、形式性を自己表出に、指示性を指示表出にすれば、2つに分裂した認識をひとつに統一できることに気づいた。止揚できるかもしれない。

    認識=自己表出+指示表出×i

 2000年に、『もう一つのパスカルの原理』を書きなおしたとき、表出論はやっと見通しのよいものになったのである。

 整理しておこう。最初に、吉本の表出論(言語の自己表出と指示表出)があった。次に、黒田の認識論によって、表出論は、「抽出過程と構成過程」・「形式性と指示性」に分裂した。そして、再び表出論が出現することによって、そのなかに「抽出過程と構成過程」・「形式性と指示性」が止揚されたのである。

 わたしはすこし前に、次のように述べた。

 「表出の場――指示と関係」(自己表出は関係の表出、指示表出は指示の表出)という関係に思い至ってみると、「論理的なもの」の構造として想定している「自己表出と指示表出」も、検討した方がよいように思われてきた。表出という主として「動作」を表わすことばで「構造」を表現している点が気になってきたのである。(「論理的なもの」の動的・静的側面――「自己表出と指示表出」・「関係性と指示性」)

 表出論の基礎がゆらいでいるような気がしていた。しかし、「動作」を表わすことばで「構造」をも表現している点は、欠点ではなく、むしろ利点であるといまは思う。

 「論理的なもの」に「自己表出と指示表出」の構造を想定することは、もっと積極的に主張してよいと思う。そしてまた、自己表出と価値(交換価値)、指示表出と使用価値を対応させることも、もっと積極的に主張してよいと思う。

   〈わたしの表出論はどこから来たのだろう。そして、どこへ行くのだろう。〉

 わたしの表出論は、吉本表出論と黒田認識論の「間」から出現した。そして、あなたの「心」に向かうのである。


表出の分節化

2009-06-27 | 吉本隆明

 アインシュタインの思考モデルや相対性理論に関する廣松弁証法を検討していくなかで、「下向と上向」の問題が浮上してきた。

 『もうひとつのパスカルの原理』(私家版1990年、文芸社2000年)において、わたしは下向的分析と上向的総合という質の異なった2つの認識過程を引き継ぐために、表出過程を抽出過程と構成過程に二重化した。

 言語の表出は、「幻想の可能性」として想定されていた。わたしは「幻想の可能性」を「判断の可能性」に移行させたところに認識の抽出過程を、また「推論の可能性」に移行させたところに認識の構成過程を想定したのである。

 このように二重化することによって、表出の形成過程を描こうと試みたのである。

 形成過程を把握するとき、表出の分節化は必要だと思われる。もちろん、複合の全過程はまったく変わらない。選択から混成までの過程が抽出過程、混成から統一までの過程が構成過程になるだけである。そして、複素数のモデルも変わらない。

 表出は、抽出と構成に分かれる。アインシュタインの思考モデルでいえば、抽出は上昇する曲線であり、「自伝ノート」のことばでいえば、「原理の発見」である。構成は下降する直線であり、「構成的努力」である。

 アインシュタインの思考モデルを確認した後、それを念頭に置いて、次の文章を読んでもらいたいと思う。『もうひとつのパスカルの原理』第6章 形成過程論の後半部分である。

〈  新しくひとつの認識が提出されるとき、これまで私たちの知っていた知識の中ではただ潜在していただけのものが、かれの認識においては顕在し主題となり展開されていることを、私たちは理解できる。私たちはかれが何かを発見したのだと思う。私たちがまだ見ていなかったところをかれはずっと凝視していたのだと思う。かれの認識はこれまでの認識の延長であると同時に、これまでの認識とは断絶していると考えるのが妥当であろう。かれの認識がこれまでの認識と断絶していなかったら私たちは新しいとは思わないし、これまでの認識の延長ではなかったら私たちは理解できないのだから。

 把握するとはいうまでもなく抽出過程と構成過程を最初から最後までたどることである。抽出過程とはいわば問い方であり、構成過程とはその答え方である。かれが要請されるのは新しい対象にたいする見方であり、隠れた結びつきの発見である。かれは対象にたいする新しい判断の可能性をつかみ、抽出過程をたどる。そしてこれまでの認識の水準を堀り下げる。そのとき客観的認識からはみでていたちょうどその分だけ見方は転位しているだろう。このときかれの立つ場所は断絶し孤立している。ここで対象はかれだけにとって存在している。かれは獲得した断絶的関係を内在化した新しい推論の可能性をつかみ、構成過程をたどる。そしてこれまでの認識の水準を上昇させていくのである。そしてかれは対象にたいする新しい判断と推論の可能性を私たちに客観的認識として示すのである。こうしてかれが最初にとらえた対象が私たちのものともなるのである。         

  形成過程にまつわる延長性と断絶性について述べておくことにしよう。知の断絶性の契機は抽出過程にあり、延長性の契機は構成過程にあるだろう。なぜなら、これまでの客観的認識をはみだしている対象と直結しているのは抽出過程だからである。また対象にたいする新しい判断と推論を客観的認識として提示するのは構成過程だからである。

  認識は表現を包みこまなければならないと考えてきた。ここで逆のことを考えてみよう。つまり吉本隆明の表出論において正しく認識論が捨象され、表現は認識を包みこんでいるのかどうかをみておこう。着目するのは次のところである。

  ある時代の社会の言語水準は、ふたつの面からかんがえられる。言語は自己表出性において、わたしたちの意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代からの急激なまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんでそれぞれの時代を生きるのである。しかし、指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によって決定的に影響される。また異なったニュアンスをもっている。このようにして言語の本質にまつわる永続性と時代性、また類としての同一性と個性としての差別性は、言語の対自と対他の側面としてあらわれる。

  ここで吉本は言語の本質にまつわる永続性と時代性、類としての同一性と個性としての差別性を指摘し、これを言語の対自的側面(自己表出)と対他的側面(指示表出)に分けている。言語の本質にまつわるものとして永続性と時代性、類としての同一性と個性としての差別性──いいかえれば延長性と断絶性──を捉えているところをみれば、表出論において認識論は正しく捨象されているといえるだろう。しかし自己表出に永続性や類としての同一性を、また指示表出に時代性や個性としての差別性を位置づけているところをみると、表出論は認識を包みこんでいないといわなければならないだろう。

  吉本は表出をひとつの過程として捉えている。それゆえかれの手のなかには自己表出と指示表出しかない。このような制限のもとで永続性と時代性、また類としての同一性と個性としての差別性を区別するので、自己表出に永続性や類としての同一性を、また指示表出に時代性や個性としての差別性をみるのだろう。しかし表出(自己表出と指示表出)だけでは永続性と時代性、同一性と差別性を分離するには無理があるといわなければならない。このふたつを明確に分離するには、表出を抽出過程と構成過程とに二重化し、抽出過程に時代性や個性としての差別性を、また構成過程に永続性や類としての同一性を位置づけすべきなのである。

 表出の形成過程を掘り下げてみよう。言語の表出論に正確に表現されていないのが、この表出の形成過程である。これが言語の自己表出に空白をもたらしているのである。そしてこの空白を埋めようとして、たとえば菅孝行は自己表出を主体表出と誤解したのではないだろうか。私たちが何ごとかを言おうとするとき、まず抽出過程が作動しはじめる。そしてこのとき時代性や個性としての差別性、つまり断絶性が刻印されるのである。それは直接に表出の対他的側面(指示表出)に現れてくるわけではない。それは抽出過程の対自と対他の両側面つまり自己抽出と指示抽出の両方に現れるのである。そして次に構成過程をたどることによって永続性や類としての同一性を獲得する。それは直接に言語の表出の対自的側面(自己表出)に現れているわけではない。それは構成過程の対自と対他の両側面つまり自己構成と指示構成の両方に現れているのである。

  抽出過程と構成過程が、事実上ひとつになっているのが表出過程である。認識の自己抽出・自己構成の指示的展開において、断絶性を内在化する抽出過程を捨象して、構成過程だけをみれば、言語の表出論が現れるのである。

  もちろん吉本は表出の形成過程を最初から最後までたどっているといえるだろう。それは文学の価値を検討する個所でじぶんの試みを次のように述べていることからもわかる。「問題の提出の仕方を変えないかぎりは、すでに文学(芸術)の理論が、文学(芸術)に与えた価値や、狙いは、ある幅のなかに包括させることができるのである。それゆえ、本当にこの課題にせまる前提は、文学(芸術)についての問題の提出の仕方であり、この仕方だけが、理論にとってはいつも未知数のものとして存在している。もしもわたしたちの企てを、他とわかつ特質があるとすれば、すでに既知の幅のなかにある問題の提出の仕方をとらなかったという前提に根拠をおいている」。しかし私がここで強調しているのは、その全過程が言語の表出論には正確に表現されてはいないということである。もしも現実的な与件と自発的な言語の表出までが千里の径庭ならば、吉本は五百里の径庭を架橋しただけなのである。〉

 形成過程に着目するとき、表出の分節化は必要ではないだろうか。


沈黙と驚きと感動と

2009-02-22 | 吉本隆明

 今年の1月4日に、「吉本隆明 語る ~沈黙から芸術まで~」(ETV特集)を見た。吉本もよかった。糸井重里もよかった。

 映像と音声による「自己表出と指示表出」。吉本が「ジコヒョウシュツ」「シジヒョウシュツ」と語っているのは、感動的であった。

 わたしは、言語の「自己表出と指示表出」を、認識論に応用できないかと考えてきた。わたしなりに表出論に着目してきたのである。

 吉本は、講演のなかで、言語の「幹」と「根」は「沈黙」であることを強調していた。わたしは認識の「根」と「幹」は、何になるかと思った。答は、すぐに浮かんできた。「驚き」である。

 念頭にあったのは、次のアインシュタインである。

われわれの思考が、大部分、記号(言葉)を使用しないで進展しており、そのうえ、まだほとんど意識されていないということは、私にとって疑いもない。そうでなければ、われわれがときとして、ある体験についてまったく無意識的に「驚く」ということが起こるはずがないではないか。この「驚き」は、ある体験が、われわれのなかにしっかり固定されている概念世界と矛盾するときに生じるのだと思われる。この矛盾が強く激しく体験されるたびに、それがわれわれの思考世界に決定的な反作用を及ぼす。このような思考世界の展開は、ある意味では「驚き」からの絶え間ない逃走であるともいえよう。(「自伝ノート」金子務編『未知への旅立ち』小学館1991 所収)

 言語の「沈黙」に対して、認識の「驚き」を対照させる。

 認識と驚きは、相性がいい。しかし、言語と沈黙は、わたしのなかでは、どうもなじまないように思えてきた。わたしには、言語の「幹」と「根」が沈黙であるという吉本の考えは、偏向した考え方のように思えるのである。

 芸術言語論に対する異論である。

 感動ではだめなのだろうか。沈黙ではなく感動。ことばになる前の感動。感動は、沈黙も、驚きもつらぬいているのではないだろうか。それは言語と認識に共通しているのである。


対幻想と楕円幻想

2007-02-04 | 吉本隆明

 対幻想──吉本隆明(『共同幻想論』)、楕円幻想──花田清輝(『復興期の精神』)。思いがけず、複合論(新しい弁証法の理論)を、二人のことばを借りて、表現できた。わたしには、違和感がない。複合論のイメージが、対幻想や楕円幻想ということばによって、柔らかくなり、広がっていく。とてもいい感じである。わたしの複合幻想。

   対幻想

   楕円と弁証法


対幻想

2007-01-14 | 吉本隆明

 弁証法は、対話をモデルとした思考方法で、対立物を統一する技術である。これがわたしが主張している弁証法の新しい考え方である。複合と名付けたが、吉本隆明のことばを借りて、対幻想といってもいいような気がしてきた。「ペアになっている幻想」。「論理的なもの」の対(ペア)。

 大文字の対幻想は、全幻想領域の構造を解明する軸の一つとして提起されたもので、家族や男女の問題をあつかう。

 小文字の対幻想は、「対」に二つの「論理的なもの」を対応させるもので、共時的な構造と通時的な構造から出現する「幻想」(fantasy) をあつかう。

 小文字の対幻想は、大文字の自己幻想として現われ、共同幻想に向かう。