呉智英氏によれば、「経済」「哲学」「科学」などは簡潔かつ的確な訳語だが、「演繹」「帰納」は問題のある翻訳である。
哲学や論理学などで使われる言葉に「演繹」がある。一般的な原理から個々の事例を導き出すことだ。この反対語が「帰納」である。個々の事例から一般的な原理を導き出すことだ。この二つの言葉、なかなか理解しにくいし憶えにくい。それに、一見して反対語だともわかりにくい。
しかし、表音文字を使う英語だとかえってこれが一目瞭然なのである。
●deduction(演繹)
●induction(帰納)
英語だと視覚的にも対応関係がわかる。語中のductは「導く」という意味で、単独でも「空調のダクト(送風管)」として使われる。個々の事例を原理に導き入れる(in-)ことと、その反対に原理から導き出す(de-)ことなのだ。
英語では接頭語や語根によって言葉の体系性がわかるが、演繹・帰納では文字が対応しておらず、言葉の系統的理解を妨げているのである。
そこで、呉智英氏は「演繹・帰納」に対して、「出理・入理」とか「出則・入則」という翻訳を提案している。「ロゴスの名はロゴス」の実践であるだろう。
いい提案だと思う。拡張しよう。(ここから「科学的発見の論理」伊藤俊太郎を参照します。)
アリストテレスは『分析論前書』において論理的推論の型として「演繹」と「帰納」のほかに「還元」というものをあげた。ギリシア語を示せないのは残念だが、接頭語と語根によって言葉の体系性は明らかに見てとれる。
この「還元」(アパゴーゲー)をパースは「abduction」と訳し、「仮説の暫定的採用」の推理とした。そして「アブダクション」を「演繹」や「帰納」と区別して次のように述べた。
帰納はけっしてなんら新しいアイデアを生みはしない。演繹法も同様である。科学のすべてのアイデアはこのアブダクションの仕方によって生まれるのである。アブダクションとは諸事実を研究し、それらの事実を説明すべき理論を工夫しつくり出すことである。
パースはdeductionやinductionの三段論法と対照させてabductionを次のように例示した。
deduction
この袋からとり出されるすべての豆は白い。
これらの豆はこの袋からとり出された。
ゆえにこれらの豆は白い。
induction
これらの豆はこの袋からとり出された。
これらの豆は白い。
それゆえこの袋からとり出されるすべての豆は白い。
abduction
この袋からとり出されるすべての豆は白い。
これらの豆は白い。
それゆえこれらの豆はこの袋からとり出された。
ここに「deduction」は前提のなかに含まれているものを出してくるだけで拡大的でなく、それだけに新しいものは何もないが、論理的には絶対確実である。これに対し「induction」と「abduction」は拡大的であり、したがってまたつねに正しいとは限らない推論である。前者は個別的に確証された命題から一般命題に進む「すべて」というところが拡大的であるが、しかし本質的に新しいアイデアを提起するものではない。これに対し後者は、所与がそれによってdeductiveに説明される仮説を提起するもので、「induction」とは明瞭に区別されなくてはならない。そしてパースによればこの第三のものこそ最も重要なものであり、彼のブラグマティズムとはこうした「abduction」の論理を明らかにしようとしたものだとすら言える面がある。
上のdeduction・induction・abductionに、伊藤俊太郎氏は演繹・帰納・発想を当てている。そして、「発想」について、次のような注を付けている。
「アブダクション」を「発想法」と訳されたのは、川喜田二郎氏によれば、上山春平氏とのことである。パースの「アブダクション」の意味を正確にとれば「仮説提起」とするのが最もよいと思うが、これは「演繹」や「帰納」と並べると長すぎてつり合いがとれない。「発想」という言葉にはもっと広いニュアンスがあるかもしれないが、「仮説提起」の意味も含まれていると考えられるので、ここではこの言葉を採用することにした。
演繹と帰納という訳語に引きずられた訳というべきだろう。字数(2)に合わせてabductionを発想と訳している。まったく体系性を感じることができない。
ウィキペデアでは、「仮説形成」や「仮説的推論」という訳が紹介されている。しかし、寄稿者は、deduction・induction・abductionを演繹・帰納・アブダクションと漢字・カタカナ混じりで考えていて、さらに体系性は感じられない。こちらも、演繹と帰納という訳語に束縛されていると言えるだろう。
abductionの接頭語ab-には「離れて」という意味がある。離れ・導くということで、論理学の分野でなければ、abductionは「誘拐」や「拉致」という意味をもっている。
「アブダクションとは諸事実を研究し、それらの事実を説明すべき理論を工夫しつくり出すことである」(パース)。ここにある事実と「離れた」場所に仮説を作るのである。
deductionを「出理」、inductionを「入理」とするならば、abductionは「作理」とすればよいのではないだろうか。deductionは「理」から「出」る。inductionは「理」に「入」れる。abductionは「理」を「作」る。
deduction・induction・abductionは、出理・入理・作理である。これで改めて読んでみよう。
ここに「出理」は前提のなかに含まれているものを出してくるだけで拡大的でなく、それだけに新しいものは何もないが、論理的には絶対確実である。これに対し「入理」と「作理」は拡大的であり、したがってまたつねに正しいとは限らない推論である。前者は個別的に確証された命題から一般命題に進む「すべて」というところが拡大的であるが、しかし本質的に新しいアイデアを提起するものではない。これに対し後者は、所与がそれによって出理的に説明される仮説を提起するもので、「入理」とは明瞭に区別されなくてはならない。そしてパースによればこの第三のものこそ最も重要なものであり、彼のブラグマティズムとはこうした「作理」の論理を明らかにしようとしたものだとすら言える面がある。
「演繹・帰納・発想」や「演繹・帰納・アブダクション」より、「出理・入理・作理」の方が、系統的に理解しやすいのではないだろうか。