「なるようになる」として知られている「ケ・セラ・セラ」(Whatever will be,will be.)は、正しくは「起こるべきことは必ず起こる」と訳すべきものである。鹿島茂氏が「起こるべきことは必ず起こる」(映画「裸足の伯爵夫人」の中で語られる伯爵家の家訓)を『悪の引用句辞典』でとりあげた理由の一つに商業道徳の風潮への疑問があった。
(引用はじめ)
かねてより疑問に思っていたことだが、データ改竄や賞味期限の書き換えなどを行っているメーカーや商店は、いずれ自分たちの不正が露見すると予感することはないのだろうか?偽装を施せば露見は「起こるべきこと」となる。当分は露見しないかもしれないが、時がくれば「起こるべきこと」は必ず「起こる」のである。
(引用おわり)
映画「裸足の伯爵夫人」(1954年)が公開されたとき、《Che sarà,saràケ・サラ・サラ》は「起こるべきことは必ず起こる」と正しく訳されていたという。しかし、今のビデオでは「なるようになる」に変わっている(わたしも見たが、確かに「なるようになる」であった。字幕/松浦美奈)。これはドリス・デイ「ケ・セラ・セラ」の日本語訳の影響だろう。たしかに鹿島氏が指摘するように「なるようになる」では行為の意味付けが逆転してしまう。「逆らう」行為が「従う」行為になってしまう。
この訳の変化に鹿島氏は日本社会の深層の変化を感じる。
(引用はじめ)
「起こるべきことは必ず起こる」から「なるようになる」へ。この変容は、日本人の商業的道徳の衰退と軌を一にしてはいないだろうか?
(引用おわり)
その通りなのだろう。やっちゃえ、Naruyohninaru。今も続く商業的道徳の衰退である。やってはいけないことをやってしまうのである。「なるようになる」のではなく、「起こるべきことは必ず起こる」の自覚が求められているのである。
ケ・セラ・セラ