わたしは「論理的なもの」の構造として自己表出と指示表出を想定している。これは、言語の自己表出と指示表出(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)を手本としたもので、わたしなりに鍛えつづけているものである。
自分なりに進展したのではないかと考えているのは、次の3点においてである。
1
九鬼周造の『偶然性の問題』を契機にして、表出論と様相性の関係をつかんだこと。(弁証法と「偶然性の内面化」) 一言でいえば、自己表出と必然性、指示表出と偶然性を対応させたことである。
2
表出論とアインシュタインの思考モデルを対応させたこと。(アインシュタインの思考モデルと2つの基準・2つの基準の包摂) 一言でいえば、自己表出と「内的完全性」(「内における完成」)、指示表出と「外的実証性」(「外からの検証」)を対応させたことである。
3
『言語にとって美とはなにか』における「自己表出」の導入に、疑問を提出したこと。(表出論の形成と複合論) 吉本は「人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件とその与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭」を「言語の自己表出」と想定したが、「言語の自己表出」ではなく「言語の表出」が妥当ではないかと考えたことである。そして、この表出が自己表出と指示表出に二重化していると想定したことである。このように想定すれば、「ある時代の社会の言語水準」の展開と整合させることができるように思えたのである。
吉本隆明は次のように述べていた。ここで、「ある時代の社会の言語水準」の説明のなかに、「言語の本質の対自と対他の側面」という表現が出てくる。言語の本質の対自と対他の側面とは、それぞれ「言語の自己表出と指示表出」をさしている。すなわち、言語の本質の対自の側面とは自己表出を意味している。そして、言語本質の対他の側面とは指示表出をさしている。
ある時代の社会の言語水準は、ふたつの面からかんがえられる。言語は自己表出性において、わたしたちの意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代からの急げきなまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんでそれぞれの時代を生きるのである。しかし、指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間の諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によっても決定的に影響される。また異なったニュアンスをもっている。このようにして言語の本質にまつわる永続性と時代性、または類としての同一性と個性としての差別性は、言語の本質の対自と対他の側面としてあらわれる。言語の表現である文学作品のなかにわたしたちがみるものは、ある時代に生きたある作者の生存とともにつかまえられて、死とともに滅んでしまう何かと、人類の発生とともに累積されてきたなにかの両面であり、本質としては、作者が優れているか凡庸であるかにかかわらないのである。(『吉本隆明著作集6 言語にとって美とはなにか(全)』勁草書房 1972年)
3つの進展が可能になったのは、「論理的なもの」の自己表出と指示表出という構造を、商品の価値と使用価値という構造に対応させていることだと考えている。すなわち、自己表出を価値(交換価値)、指示表出を使用価値に対応させることによって、進展は可能になったと考えている。そして、この対応は、吉本が『言語にとって美とはなにか』のなかで行った言語の構造と商品の構造との対応を継承していると考えてきた。
言語の価値と意味の関係を検討するさい、吉本は言語と商品を対応させて、次のように述べていたのである。
マルクスならば、わたしがここで経路として図示した言語の価値を、あたかも商品の価値についてのべたとおなじように指示表出価値と自己表出価値との二重性をあらわすと云うところかもしれない。
じじつ、指示表出からみられた言語の関係は、それがどれだけ云わんとする対象を鮮明に指示しえているかというところの有用性ではかることができるが、自己表出からみられた言語の関係は、自己表出力という抽象的な、しかし、意識発生いらいの連続的転化の性質をもつ等質な歴史的現存性の力を想定するほかはないのである。
こんど、『日本語のゆくえ』(吉本隆明著 光文社 2008年)を読んでいて、驚いてしまった。そこには、「使用価値が自己表出に当たり、交換価値が指示表出に相当する」と記されていたのである。
わたしは「論理的なもの」の自己表出と指示表出という構造を、商品の価値と使用価値という構造に対応させてきた。そしてこの立場は吉本隆明を引き継いでいるものとして考えてきた。わたしは吉本が言語の自己表出と指示表出という構造を、商品の価値と使用価値という構造と対応させていると想定してきたのである。この吉本隆明の対応を手本として、「論理的なもの」の表出論を考えてきたのである。しかし、こちらの想定とはまったく逆の対応が述べられていたのである。
この使用価値と交換価値という概念は、ぼくの芸術言語論でいうと、自分なりに自分が納得できる言葉である「自己表出」と、コミュニケーションのための言葉である「指示表出」に対応します。
初めはそう考えて、使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」であるとしておけばいいのではないかと思っていましたから、『言語にとって美とはなにか』でもそう書いたわけですが、しかし考えていくうちに、そこのところはもう少し詰めておいたほうがいいのではないかと思うようになりました。つまり、自己表出を縦糸とすれば指示表出は横糸で、この縦糸と横糸で織り上げられた織物が言語であると、どうもそういうふうに考えたほうがいいのではないかと思うようになりました。
『言語にとって美とはなにか』のなかで、吉本は、ほんとうに〈使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」である〉と述べていたのだろうか。とても信じられない自己規定である。
〈使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」である〉と考えていたのは、例えば、吉本が批判していた菅孝行の理解の仕方ではなかっただろうか。菅孝行は「言語観の転移は成就されたか」(雑誌『流動』)で次のように吉本を批判していたのである。
吉本が、指示表出に使用価値を、自己表出に交換価値を対応させるところまでくると、ここはもはやひとつの倒錯とみなさざるをえない
自己表出性が、言語主体の身体的直接性の表象と対応するならば、それは規範としての記号の抽象的兌換性をなによりも強く拒絶するものでなければならない
吉本は『言語にとって美とはなにか』で、まちがいなく、指示表出に使用価値を、自己表出に交換価値を対応させていたのである。菅孝行は、この対応を否定的に見ていた。わたしはこの対応を肯定的に見ようとしたのである。
以上は、商品の構造と言語の構造との対応に関する違和感(引用した前半の部分)である。引用の後半にも違和感がある。「自己表出を縦糸とすれば指示表出は横糸で、この縦糸と横糸で織り上げられた織物が言語である」といっていることに対してである。
吉本は「織物」という言い方について「自分でもちょっといい表現ではないかと思っています」といい、次のように述べている。
『言語にとって美とはなにか』のときにはまだ、この「織物」という考えはできていませんでしたから、要するに言葉は自己表出と指示表出に分離することができるというふうにいっていました。したがって「言語は織物である」というところが、ぼくが少しだけ進歩したところです。
これも信じられない自己規定である。『言語にとって美とはなにか』のときすでに「織物」という考えはできていたと思うからである。例えば、「品詞の構造」でも、「ある時代の社会の言語水準」でも、「言語の価値と意味」でも、自己表出を縦軸に、また指示表出を横軸にとり、言語の織物を提示していると思う。
ただ、進展3で述べたように、「人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件とその与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭」を「言語の表出」ではなく「言語の自己表出」と想定したために、自己表出と指示表出の対等性が損なわれ、自己表出と指示表出の織物としての構造があいまいになる傾向はあるとはいえると思う。
そして、このずれは、現在も、引き継がれていると思う。
ぼくはそういうふうに基本的な原則(言語は自己表出と指示表出の織物で、この二つは分離できないということ――引用者注)を決めました。
そう考えることによっていちばんの収穫は何かというと、言語表現における芸術性とは何かということについて、はっきりと「それは自己表出の問題だ」と答えられるようになること。それがひとつ。
もうひとつは――では、指示表出つまり人間の感覚にともなう表現は芸術性に関与しないのかといわれたら、それは関与する。どう関与するかといえば、指示性の起伏とそれがつくる空間が間接的に言葉の芸術性に関与する、ということになります。
ここを推し進めていくと、言語活動を芸術言語つまり文学・文芸までもっていく要素は簡単にいえば、次のようにいうことができます。
ひとつは、通常考えられる自己表出に自己表出をもっと継ぎ足すこと。
もうひとつは、通常考えられる自己表出に指示表出を継ぎ足して、そして自己表出に関与させること。
こうしたふたつの関与が言葉の芸術性をもたらす元になると考えることができます。
これは、自己表出に偏向した考え方ではないだろうか。ふたつの関与があるのではないと思う。吉本が別々に述べた二つの「継ぎ足し」は、まったく幻想的なものである。現実には、吉本が別々に述べた二つの「継ぎ足し」を「複合」した一つの「継ぎ足し」があるだけだと思う。それは次のようにいうことができる。
通常考えられる自己表出と指示表出に、異なる自己表出と指示表出を継ぎ足すこと。
このひとつの関与が言葉の芸術性をもたらす元であると考えられる。わたしの場合は、認識の創造性をもたらす元であると考えられるものである。
『日本語のゆくえ』のなかに、わたしが見るのは、吉本隆明の奇妙な自己規定である。吉本の「そこのところ」とは、いったい「どこのところ」だったのだろうか。
わたしの表出論はどこから来たのだろう。そして、どこへ行くのだろう。