対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

一所不住と縁 ――  「農大無謡」考 2

2012-08-29 | ノート

2 歌詞いろいろ 

 「農大無謡」の歌詞を掲げているサイトは、もう一つある。 「岐阜大学 各務同窓会」 である。「岐阜高農(農大)舞踊」と紹介している。「凛真寮OBの集い」の方は、歌詞を打ち込んだものだが、こちらは、何かの印刷物をそのままコピーしたものである。そのなかで「ぶよう」は、「無謡」でも「舞踊」でもなく、「舞謡」となっている。紹介は「舞踊」、歌詞は「舞謡」である。

 4.岐阜高農(農大)舞踊

岐阜高農(農大)舞謡      

   作詞 鈴木栄太郎

 一、飛騨の山雪や   まだ解けぬ
    信濃路長く    松古し
   坊さんどこ行く  日が暮れる
    鈴鹿の嶺に       陽は落ちた
   泊めてあげよか   縁ぢや故

 二、諸国遍路の       旅なれば
     人棲む里や       棲まぬ里
    人の情けは       一ならず
     元より悟道は     堅けれど
   苦しき夜も    多からん

 三、もしも深山で   日暮れたら
    樵夫の小屋を     叩かんせ
   俺等の先輩が     そこに居る
     何の御馳走も     ないけれど
   占地山蕗         山女汁

 四、もしも田圃で     日暮れたら
     野良の百姓どんに 声かけろ
   俺等の先輩が     そこに居る
     何の御馳走も     ないけれど
   煮〆鰌汁         鉄火味噌

 五、もしも都で       日暮れたら
     一番大きな       家さがせ
   俺等の先輩が     そこに居る
     何の御馳走も     ないけれど
    豆腐般若湯       米の飯

 六、一処不住の       慣ひ故
     今宵はこゝで     安らかに
   行方定めぬ       旅とても
     縁ありや又来て   下しやんせ
   ここは美濃の国   岐阜の在

 「嶺」には「やま」とルビがふってある。「どぜう」とルビがふってある文字はつぶれていて、はっきりしないが、「鰌」ではないかと思われる。「鱒」(ます)とは違っていると思われる。また、「般若湯」は、「はんにゃ・とう」ではなく、「はんにゃ・ゆ」とルビがふってある。

 「一処不住」とあり、「一所不住」とも「一生不在」とも違っている。また、「美濃の門(と)」ではなく、「美濃の国(くに)」となっている。

 この歌詞は1940年代から1950年代のものと思われる。少なくとも、1960年代以降のものではない。

 手元に凛真寮の記念誌「炎」が2冊ある。「凛真寮40周年記念」1963年と「凛真寮50周年記念」1973年である。後者の「炎」は、ぼくが在寮中に発行されたもので、「寮生名簿」の作成を手伝った記憶がある。記念誌はこの2つだけではないだろうか。まだ他にあるのだろうか。

 このなかに「農大無謡」が載っている。1963年と1973年のレイアウトは同じで、歌詞もまったく同じである。ただ、1973年には誤植が1か所あり、「元より悟道は堅けれど」が、「元よ〈る〉悟道は堅けれど」になっている。

 農大無謡

 一、飛騨の山雪ゃまだ解けぬ
     信濃路長く松太し
      坊さんどこ行く日が暮れる
        鈴鹿の嶺に陽は落ちた
         泊めてあげよか縁し故

 二、諸国遍路の旅ならば
     人棲む里や棲まぬ里
      人の情けは一ならず
       元より悟道は堅けれど
        苦しき夜も多からん

 三、若しも山路で日暮れたら
     樵夫の小屋を叩たかんせ
      俺等の先輩がそこにいる
        何の御馳走もないけれど
         占地山蕗山女汁

 四、もしも田圃で日暮れたら
     野良の百姓どんに声かけろ
      俺等の先輩がそこにいる
        何の御馳走もないけれど
         煮〆鰌汁鉄火味噌

 五、もしも都で日暮れたら
     一番大きな家さがせ
      俺等の先輩がそこにいる
        何の御馳走もないけれど
          豆腐般若湯米の飯

 六、一生不住の慣い故
     今宵はここで安らかに
      行方定めぬ旅とても
        縁ありや又来て下しやんせ
         ここは美濃の門岐阜の在

 「松太し」「山路で」など、「岐阜大学 凛真寮OBの集い」の歌詞と同じとみてよいが、最も大きな違いは、「一生不在」ではなく、「一生不住」になっていることである。

 「農大無謡」は、「岐阜大学 各務同窓会」にあるように鈴木栄太郎氏の作詞である。名前だけは以前から知っていた。(つづく)


一所不住と縁 ――  「農大無謡」考 1

2012-08-26 | ノート

1 一所不在?

 「農大無謡」は、ぼくが学生時代におぼえた歌のひとつである。それは岐阜大学の凛真寮に伝承されていた。みんなで合唱もしたし、一人で歌ったりもした。「農大」は「岐阜高等農林学校」のことである。「無謡」は、「謡」(うたい)、「無」(な)しと書いたが、意味のよくわからない曲名だと思っていた。それでも、「のうだいぶよう」の歌詞は、味わいがあり、忘れがたいものだった。

 そのなかに、「いっしょふざい」という一節があった。

  「いーいっしょ、ふーざあいーいの、なーらいゆえー」

 6番の冒頭である。

 手にしたプリントには、「一生不在」とあったと思う。これを「いっしょふざい」と歌っていた。一「生」不在ではなく、一「所」不在だと思ったが、これが広辞苑(第2版)になく、不思議に思った記憶がある。辞典には、一所不住(いっしょふじゅう)だけが載っていた。

  一所不住  「一定の住所を定めぬこと。日葡「イッショフヂュウノソウ(僧)」

 いま、「一所不在」をネットで調べると、いくつかヒットする。

 ●四字熟語

 意味は、「決まった場所に定住せず、各地を点々と移動すること。修業僧が各地を旅すること」とし、文学作品における例文として、夏目漱石『吾輩は猫である』を挙げている。「一所不在の沙門雲水行脚の衲僧は必ず樹下石上を宿とすとある。」

 ●「一所不在」生気あふれる88歳 堀文子展、25日まで。(朝日新聞の文化芸能記事)
    

 しかし、『吾輩は猫である』を確かめると、漱石は「一所不在」ではなく「一所不住」と書いている。
 また、堀文子展の方も、本文には、「一所不住」とある。

 作風の「一所不住」。図録のあいさつ文では「描く事は物を見極める事でその感性を鈍らせない為に常に心を空っぽにし、知識や経験をためこまないように心掛けて来ました。繰り返す事をさけたのは心の停滞が絵から生気をなくすから」とし「いつも不安でいる状態が私の創造の道標であり、それが私が一定の画風を作れなかった理由」という。

 一所不住と一所不在。一所不住は昔からあるが、一所不在は日本語としてどうなのだろうか。

 ぼくは学生時代からずっと「一所不在」ということばの存在を疑ったことはなかった。むしろ、「住」は生活と関連しているだけなのに対して、「在」は存在と関連して広く深い意味をもっているのではないかと思っていたのである。しかし、40年たって、疑問が生まれてきた。確かめようと思った。

 「広辞苑」の新しい版(第五版、六版)には、なかった。
 「大辞林」第三版も、一所不住だけで、一所不在は載っていなかった。
 「日本国語大辞典」第二版も、一所不住だけで、一所不在はなかった。

 「新明解四字熟語辞典」(三省堂)には、意味、表現、用例とともに、注意として、次のようにあった。

 「住」を「在」と書き誤らない。

 一所不在は、一所不住の書き誤りとしてのみ、存在しているのである。たしかに、筆記するとき、「住」と「在」はよく似ている。

 そうすると、「農大無謡」の「いっしょふざい」は、誤りだったということになる。これは最初からだったのだろうか、それとも途中からなのだろうか。タイトル「農大無謡」も誤っているのではないだろうか。別の名があったのではないかと思った。

 「農大無謡」で検索すると、「岐阜大学 凛真寮OBの集い」 が出てくる。このサイトは1960年代の前半に学生時代を送った先輩たちのサイトである。ここに寮歌集があり、「農大無謡」が収められている。

 5、農大無謡

 一、飛騨の山雪ゃまだ解けぬ  信濃路長く松太し
     坊さんどこ行く日が暮れる  鈴鹿の嶺に陽は落ちた
    泊めてあげよか縁じゃ故

 二、諸国遍路の旅なれば  人棲む里や棲まぬ里
     人の情けは一ならず  元より悟道は堅けれど
    苦しき夜も多からん

 三、若しも山路で日暮れたら  樵夫の小屋を叩たかんせ
     俺等の先輩がそこにいる  何の御馳走もないけれど
    しめじ山蕗山女汁

 四、もしも田圃で日暮れたら  野良の百姓どんに声かけろ
     俺等の先輩がそこにいる  何の御馳走もないけれど
    煮しめ鱒汁鉄火味噌

 五、もしも都で日暮れたら  一番大きな家さがせ
     俺等の先輩がそこにいる  何の御馳走もないけれど
    豆腐般若湯米の飯

 六、一生不在の慣い故  今宵はここで安らかに
     行方定めぬ旅とても  縁ありゃ又来て下しゃんせ
    ここは美濃の門岐阜の在

 ぼくは1970年代の前半に学生だったが、記憶によれば、この歌詞がこの歌をおぼえたときのベースになっているように思う。
 それでも、「松太し」は「松ふる(古)し」と歌ったし、「山路」は「みやま」(深山)、「 鱒汁」は「どじょうじる」と歌っていた。「鱒」は「鰌」の間違いだと思う。 ちなみに、「先輩」は(あにき)と歌った。
 「農大無謡」の歌詞を掲げているサイトは、もう一つある。(つづく)


上山春平氏の弁証法について

2012-08-08 | 弁証法

 仏教や国家論、日本文化の研究が上山氏の生涯をつらぬく課題だったように思われるが、上山氏は研究の初期のころ、弁証法に関心を示している。

 20年ほど前、はじめて『弁証法の系譜』(未来社)を読んだとき、ヘーゲル学者が展開する弁証法ともマルクス主義の弁証法とも違っていて、上山氏の独特なアプローチに関心をもった。

 認識における「対立物の統一」の過程としての問題解決の過程こそが、弁証法論理学の固有の研究対象であるとの主張や、Aufheben の過程にかんする論理的分析は、解かれないまま残されているという指摘は優れたものに思えた。

 しかし、上山氏は弁証法を「論理的なものの三側面」(ヘーゲルが「小論理学」で提起した論理の過程的構造)をベースに展開していた。ここが弁証法の新しい理論を構想する者から見ると不満であった。

 「論理的なものの三側面」に依拠せずに、上山氏の弁証法を引き継ぐことがわたしの試みとなった。

 上山春平さん、ありがとうございました。

 
  参照

  赤と白の『弁証法の系譜』
  
  悟性の二重性