対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

双子の微笑2

2015-12-21 | 九鬼周造
前の「双子の微笑」は、ほぼ10年前(2006.01.29)に書いている。「双子の微笑」(sourires jumeaux)はヴァレリーの詩「曙Aurore」にある表現で、九鬼周造が『偶然性の問題』で紹介していたものである。心にひびいた表現で、自分の関心に引き寄せて使っている。「双子の微笑」は注目されている表現なのだろうか。検索してみたが、最初に出てきたのは以前に私が書いた記事だった。私の他に関心をもっているものはいないのである(ネットの上では)。

小浜善信はポール・ヴァレリーに注を付けていた。九鬼は「日本詩の押韻B」(1931年)の扉に詩の仏語原文を引用しているという。
(引用はじめ)
鈴木信太郎訳を付して引いておく。
Salut! encore endormies
À vos sourires jumeaux,
Similitudes amies
Qui brillez parmi les mots!
おはやう。双生児(ふたご)のやうに似た微笑(ほほえみ)を
浮べて なほまだ寝込んだままの、
女の友達、相似形よ、
単語の間で きらきらと燦(かがや)いてゐる。(『ヴァレリー詩集』)
ヴァレリーが言う「双子の微笑」、「親密な相似形」とは、単語の間で響き合う脚韻を意味している。引用された詩でも〈endormies〉と〈amies〉、〈jumeaux〉と〈mots〉とがそれぞれ韻を踏んでいる。(『偶然性の問題』注解)
(引用おわり)

双子の微笑

「様相性の内的連関について」への案内

2009-11-08 | 九鬼周造

 「正方形の複合」を読み直していて、内容とマッチしていないことに気づいた。改題して、「様相性の内的連関について」とした。図もいくつか付け加えた。読んでみてほしいね。

 九鬼周造は、円を使って、三つの様相性の体系を図示していた。しかし、きみは円では、対当関係を十分に把握できないのではないかと思った。それで、直線と正方形を使って、様相性の体系の図示を試みたんだったね。こんな運び。 

  1 対当関係を直線上に表現する。
  2 これを基礎にして、様相性の3つの体系をそれぞれ表示する。
  3 様相性の3つの体系を直線上にすべて重ねる。
  4 正方形を使って様相性の内的連関を表現する。

 おれの図示の方がわかりやすいのではないかと思っているのだが、実際のところ、どうなのだろう。

 人それぞれだと思うよ。ただ、ひとついえることは、九鬼の幾何学的精神に対抗するというきみの意図は伝わっているのではないかということだ。それでは読んでみるよ。

       様相性の内的連関について


二つの展開図

2006-09-23 | 九鬼周造

 九鬼周造が提示した様相性の第三の体系の図は、次のような逆三角形だった。

     様相性の第三の体系(逆三角形)

 この図に対する小浜善信の説明(「時間と永遠――永遠の現在」『九鬼周造の世界所収』)に対して、以前、疑問を述べた。図がダイナミックな構造をもつという指摘は正しいが、動き方は逆ではないか、と。すなわち、小浜はこの図を上(必然性)から下(偶然性)へと見ているが、九鬼周造自身は、下(偶然性)から上(必然性)へと見ていたのではなかったか、と。

   逆三角形

 小浜善信は『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』(昭和堂 2006年)でも、同じ見解を述べ、さらに、「逆三角形」を基礎にした展開図を提示している。これは、「可能的世界」の思想を加味して、九鬼の図を描き直したものである。

       「逆三角形」(+可能的世界)

 わたしもまた、九鬼周造の「逆三角形」の展開図を提示している。(「弁証法試論」 補論6 弁証法と様相性)。これは、「偶然性の内面化」の思想を加味して、九鬼の図を描き直したものである。

      「逆三角形」(+偶然性の内面化)

 九鬼周造の逆三角形に対する二つの展開図の違いを、確認してみようと思った。

 こんど、『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』を読んでわかったことは、小浜善信は様相性の第三の体系の図として、逆三角形を取り上げているわけではないということである。かれは九鬼周造が提出する図の一つとして見ているだけなのである。

 九鬼が『偶然性の問題』において「偶然性」の存在論理学的な構造を視覚的に説明するためにいくつか掲げる図式の中から、上のような「逆三角形」による構造表現を援用し、九鬼の基本的な思想構造を改めて確認してみよう。

「必然性」を表す実線は、いわば完全に無の影を排除した存在そのもの、生命の充溢といったようなもので、ダイナミックな無限者を示している。三線で囲まれた面(「可能性」)は頂点(「偶然性」「現実存在」)への衝動ないし胎動を内包する「可能性」であって、「必然性」自体が体内に孕む衝動である。そして頂点は、無(「不可能性」)の破線に墜落する不安に絶えず脅かされている。(『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』)

 小浜善信は「偶然性」の存在論理学的な構造の図解として、様相性の第一の体系の図でもなく、また第二の体系の図でもなく、さらに、第三の体系の「円と接線」の図でもなく、「逆三角形」の図を選択している。それは、逆三角形の図が、もっとも「偶然」と「落ちる」(cadere, Zufall)の関係と相性がよかったからだと思われる。

 小浜の説明が、上から下へと向かう理由である。

 小浜善信は逆三角形の図を様相性の第三の体系の図としてとりあげているのではないことを強調しておこう。もちろん、文脈を無視するのが悪いわけではない。なぜなら、新しい意味と価値を創造することもあるからである。
 
 しかし、小浜は、逆三角形の図を九鬼周造の文脈を無視してとりあげていることに、それほど自覚的ではないのである。というのは、「九鬼は無限逆三角形を用いて何を言おうとしたのか」と問うているからである。

 逆三角形の図を、様相性の第三の体系として見ていないのだから、小浜は正確に表現することができない。そのため、自分が思い描く「偶然―邂逅論」を推定するだけになるのである。

どこからともなくやってきて、どこにあるとも知れず、どこへともなく去ってゆく我と汝とが、ゆくりなく邂逅する――「盲亀と浮木の出逢い」とはそういうことであった。しかし、そのような実存としての我と汝との、一期一会の邂逅であればこそ、いよいよ「遇無空過者」(遇うて空しく過ぐる者無し)、いや「遇勿空過者」(遇うて空しく過ぐる者勿れ)ということが言えるのであるまいか。九鬼の実存論の根底にはそのような偶然―邂逅論がある。無限逆三角形によって九鬼が言いたいのは以上のようなことだろう。

 九鬼周造はといえば、次のように、下から上への動きを明確に述べているのである。

偶然性は、不可能性を表わす直線内においてその一点であると同時に、可能性を表わす三角形においてその頂点である。偶然性は虚無であると共に実在である。虚無即実在である頂点は生産点として三角形全体の存在を担う力である。三角形の底辺は発展的生産の終局として完成の状態にある必然性を表わす。偶然性はみづから極微の不可能性でありながら、極微の可能性を尖端の危きに捉えることによって、「我」を「汝」に与え「汝」を「我」に受け、可能性に可能性を孕んで、遂に必然性に合致するのである。

 わたしは、「偶然性の内面化」へと続く、九鬼周造の文脈を活かして捉えるべきだと考えているのである。

 九鬼が『偶然性の問題』の結論とした「偶然性の内面化」には、次のような表現がある。

偶然性は不可能性が可能性へ接する切点である。偶然性の中に極微の可能性を把握し、未来的なる可能性をはぐくむことによって行為の曲線を展開し、翻って現在的なる偶然性の生産的意味を倒逆的に理解することができる。

不可能に近い極微の可能性が偶然性において現実となり、偶然性として堅くつかまれることによって新しい可能性を生み、さらに可能性が必然性へと発展するところに運命としての仏の本願もあれば、人間の救いもある。

 小浜の展開図をくわしく見ておこう。

     「逆三角形」(+可能的世界)

 最後に、「可能的世界」という思想をも加味して先の無限逆三角形の図を描き直し、九鬼哲学における「神と世界と人間(「私」)」について、その全体像を示せば、上図のようになるだろう。

 「必然性(かならずしかあること)」とは、存在の100%の可能性、無限の可能性の充満、「無」を含まない「存在そのもの( esse ipsum )」、無限者、永遠、神(遊戯する神―原始偶然)などと言いかえることができる。
 「可能性=P1 ~Pn (possibilia)」とは、神の思惟内容、非有のイデア・個物のイデア、可能的世界、すなわち別の在り方で在りうる世界、別の仕方で展開しうるような歴史的世界などと言いかえられる。
 「偶然性(たまたましかあること):C1 ~Cn (偶然的・歴史的世界)」とは、たとえば、C1 は、シーザーがルビコン河を渡らなかったような歴史的世界、Cn-1 は、「私」が別の生涯を送るような世界、Cn は、人間が存在しないような世界、C10 は、現実世界とその中にある「私」の存在(「実存」)の現場、つまり「いま、ここ」、「永遠の今」などと言いかえられる。
 「不可能性(否定的必然性)」とは、0%の可能性、すなわち「無」と言いかえられる。(『九鬼周造の哲学 漂泊の魂』)

 九鬼の逆三角形を、無数の離接肢のなかの一つとして、捉えているところに特徴があるといえるだろう。様相性の第三の体系とは、まったく別の世界になってしまっているが、九鬼周造の基本的な様相性の思想は、表現されていると思う。

 わたしの展開図は、偶然性の内面化をわたしなりに解釈し、逆三角形の図に、複合論を結合させたものである。

      「逆三角形」(+偶然性の内面化)

 「偶然性と不可能性の近接」と「可能性と必然性の近接」に止揚の論理の根拠を想定し、下から上への過程、すなわち〈偶然性はみづから極微の不可能性でありながら、極微の可能性を尖端の危きに捉えることによって、「我」を「汝」に与え「汝」を「我」に受け、可能性に可能性を孕んで、遂に必然性に合致する〉過程を弁証法と見ているものである。

 わたしの展開図も、様相性の第三の体系とは、まったく別の世界になっていると思う。

 くわしくは、次を見ていただきたい。

   弁証法と様相性 

 小浜の「可能性」は、離接肢として、逆三角形の外部へ、右と左へと拡張していっている。わたしの「可能性」は、対話を通して、与えられた逆三角形の内部の下から上へと伸張していく。小浜の「偶然性」は、離接的偶然を強調している。わたしの「偶然性」は、仮説的偶然を強調している。

 九鬼周造の逆三角形を基にした二つの展開図の位置づけを試みておこう。

 『偶然性の問題』の結論は、次の二つの節から成り立っている。

   1 偶然性の核心的意味

   2 偶然性の内面化

 小浜の展開図は1に対応し、わたしの展開図は2に対応しているといえると思う。小浜の図は「いき」な構造である。これに対して、わたしの図は、どうやら「野暮」な構造になっているようである。


束縛された偶然性

2006-05-21 | 九鬼周造

 九鬼周造の『偶然性の問題』に対するいくつかの疑問は、沢田允茂の『現代論理学入門』の立場に立つことによって、簡潔に整理できることに気づいた。一言でいえば、九鬼周造の偶然性の問題設定はヘーゲルが批判した形式論理学(アリストテレスの形而上学的解釈に由来する、堕落した形の形式論理学)に束縛されているのではないかということである。
 
 九鬼周造の偶然性に対する基本的な疑問は、次の二つである。(「弁証法と様相性」参照)

  1 偶然性の定義は「独立なる二元の邂逅」だけでいいのではないか。すなわち、〈「甲は甲である」という同一律の必然性を否定する甲と乙の邂逅〉という形容はいらないのではないか。
  2 九鬼の「偶然性の内面化」は、対話のできない「偶然性の内面化」ではないか。

 この立場の違いは、ヘテロの立場とパラの立場の違いということができる。すなわち、「独立なる二元」を、九鬼周造がテーゼとヘテロテーゼと考えるのに対して、わたしはテーゼとパラテーゼと考えていることにある。

 ヘテロとは、アンチが「矛盾」を背景にしているのに対して、「反対」を背景にしている関係として想定されているものである。これに対して、パラは、論理的な対立以前の対立を指示するものとして、わたしが想定した関係である。アンチの反立、へテロの他立に対して、パラは並立である。

 九鬼がヘテロ(他立)の立場で偶然性を問題にするのに対して、わたしはパラ(並立)の立場で問題にすべきではないかと主張しているのである。(「アンチとヘテロとパラ」参照)

 九鬼周造は「抽象の哲学」と「現実の哲学」を区別し、抽象の立場では偶然性は問題にならず、現実の立場において初めて問題になることを主張している。抽象の立場とは、エレア派(パルメニデス)の立場である。また、現実の立場とは、ヘラクレイトスの立場である。この二つの立場の違いは、「反対の一致」を認めるかどうかによって区別されるといっている。

 要するに抽象の立場をとる哲学は同一律を基礎として必然性の闡明のみを計る傾向がある。それに反して現実の立場をとる哲学は同一律の絶対的適用を認めないことをしばしばその特色とし、反対のものの間になお関係をつけて行こうとする。また、反対のもの、多様なものの同時的成立を認める。そうして現実の中の偶然性を見逃さないようにする。エレア派の哲学とヘラクレイトスの哲学とはちょうどこの二つの反対の立場のよい代表者である。そうしてこの二つの立場の中の一方は生成を一切排斥する存在を主張し、他方は固定的な存在を一切排斥する生成を主張しようとする。(「講義 偶然性」)

 九鬼周造はこのように区別して、現実の立場の優位を強調して、ヘラクレイトスの立場で「偶然性」を問題にする 。現実の立場で九鬼が強調しているのは、同一律の絶対性を認めないということである。

エレア派が生成を否定したのは、生成の概念の中には存在と非存在が同時に肯定されなければならなかったからである。すなわち同一律を絶対に主張したからである。ヘラクレイトスは同一律の絶対適用を認めないから存在と非存在とが同時に成立し、したがって生成が肯定される。そうして生成は肯定されるのみならず、原本的で、継続的で、永遠である。「すべては[一切は]流れる」。万物の本質は変化極まりなき火である。こういう現実に即する立場はものの偶然性を見逃さない。パルメニデスは多様を否定し抽象的な[力強い必然性が存在を帯でひきしめる]と考えたがヘラクレイトスは具体的な偶然性に眼を向けた。(「講義 偶然性」)

 「現實の立場はものの本質には同一律は必ずしも適用出來ないといふ考を有つてゐる。」これが九鬼周造の姿勢である。ここに堕落した形の形式論理学(アリストテレスの形而上学的解釈に由来する形式論理学)の束縛を見ることができる。

 正当な形式論理学は、同一律を否定しない。沢田允茂は次のように述べている。

事物の生成変化を命題の形式で把えるか、または命題の変形としての数学的方程式で把えるかのいずれかであれば別に同一律、矛盾律を否定しなくても十分に変化を把握することは出来る。否むしろこの場合同一律や矛盾律等を原理としてではなくとも前提または規則として認めなければ却って変化を把握することすら不可能となるであろう。通常の命題の中では我々は「存在する」、「存在しない」の他に「動いている」、「変る」、「…になる」等の原始的述語で「存在しているもの」、「存在していないもの」及び「変化しているもの」を日常的不便さなしに立派に表現し描写している。我々は「鉄橋の上に列車が在ると同時に無い」と言うことをしないで「鉄橋の上を列車が走っている」と言うことで十分に満足しているのである。存在、無、生成に関する語はいわば同列の原始的述語であり、決して生成を前二者の綜合として用いているのではない。(『現代における哲学と論理』)

 生成変化や偶然性を捉えるのに、同一律を否定する必要はまったくないのである。
 
 九鬼周造の「偶然性の問題」が提出されたのは1930年代だが、九鬼の姿勢は現代にも引き継がれている。例えば、木岡伸夫は次のように述べている。(「テキストとしての偶然性」(『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房 )

 「抽象の哲学」は、こうして「現実の哲学」に取って代わられる。現実の立場とは、物の本質には同一律が必ずしも適用できないということを認める考え方である。つまり、甲と非甲が両立する状態を認める立場であり、「反対の一致」を認める立場である。反対と矛盾は同じではない。

 九鬼は「反対の一致」 ( coincidentia oppositorum ) という哲学史上の理念に訴えるが、形式論理学に背いて弁証法に飛躍することはしないし、形而上学的伝統に対して「アンチ」の姿勢で臨むこともない。彼が提起するのは「ヘテロ」の存在、つまり同一者に対する「他者」、もしくは「差異」の存在である。すでに見たように、「ヘテロ」とは定立に対する他立である。他立と定立は矛盾せず、したがって定立を否定しない。差異を主張することは、同一性を否定するものではない。否定するのは、同一律が絶対であるという見方、それのみである。九鬼が拠って立とうとするのは、まさしくこうした「ヘテロ」の立場である。

 しかし、木岡伸夫が同一律を九鬼とまったく同じように考えているかといえば、あいまいなところもある。というのは、かれは、次のようにも述べているからである。

 「有るものは有る。無いものは無い」という自己同一の思惟において、有と無、存在と非存在とは、たがいに両立することのない「矛盾」の関係に立つと考えられる。しかし、それは現実の立場からみれば、〈反対=他立) の関係にほかならない。「存在と非存在とが同一のものでもあれば、また同一でないものでもある」というヘラクレイトスの考えをパルメニデスは非難するが、他立の関係において存在と非存在は両立する。しかもそれは、「反対の一致」を認める立場であるから、同一律・矛盾律を排除することもないのである。

 反対と矛盾は違うから、「反対」の一致を認めることは、矛盾律を排除することもないという言い方はできるのかもしれない。しかし、反対の「一致」を認めるのだから、同一律は排除していることになっているのではないだろうか。同一律は必ずしも適用できないというのが妥当ではないだろうか。しかし、ここでは、「反対の一致」にもかかわらず、同一律・矛盾律の絶対性が擁護されているように見える。

 また、木岡伸夫は九鬼周造が「形式論理学に背いて弁証法に飛躍することはしない」と想定している。しかし、同一律に関していえば、この評価はまったく逆ではないかと思われる。すなわち、九鬼は、現実の立場では、同一律の絶対的適用を認めないと述べているのだから、形式論理学に背いて、弁証法に飛躍しているのである。九鬼周造は偶然性を弁証法として問題にしているのである。

 しかし、注意しなければならないのは、この「弁証法」は沢田允茂の指摘する「疑似論理学」だということである。

 「反対の一致」を主張し、同一律の絶対的な適用を認めないのは、「抽象の立場」を克服しようとする努力の現われである。しかし、これは、同一律や矛盾律を、主語と述語の同一性と解釈し、概念と事物を対応させるという誤った論理と存在の立場からの要請というべきものである。いいかえれば、対応するのは、概念と事物ではなく命題と事実(事態)であるとする立場に立てば、まったく必要のない努力というべきものである。

 同一律は絶対的に適用されるべきものである。その意味では、木岡伸夫のあいまいな態度が正しいのである。誤った解釈の同一律の適用を制限するのではなく、誤った解釈の同一律の基礎を見直すべきなのである。必要なのは、正当な形式論理学の立場に立つことである。

 沢田允茂によれば、同一律を「AはAである」、矛盾律を「Aは非Aでない」とする表現は、古代(元来のアリストテレス)でもなく中世でもなく、近代の形式ということである。また、同一律、矛盾律を事物の性質のように表現する仕方は、古代中世にはほとんど見られず、中世末期から近代にかけて多く見られるという。(『現代における哲学と論理』参照)
 〈「甲は甲である」という同一律〉という表現は、古めかしく古代ギリシアの時代から継続して用いられてきたと思われるかもしれないが、実はつい最近のことだったのである。

 九鬼周造は「抽象」と「現実」の立場をパルメニデスとヘラクレイトスの立場によって区別した。しかし、この二つの立場は、沢田允茂の場合、「概念」と「事物」を対応させるという誤った関係に基づいた、誤った立場にほかならない。エレア派は概念のもつ固定性をそのまま事物に反映させ、ヘラクレイトスは事物のもつ流動性をそのまま概念に反映させたのである。すなわち、それは、疑似存在論と疑似論理学である。エレア派(抽象の立場)を捨て、ヘラクレイトス(現実の立場)を選ぶという関係ではなく、いずれも克服すべき立場なのである。沢田允茂は次のように指摘している。(『現代における哲学と論理』)

「AはAである」とか「Aは非Aでない」と言うときAは何を意味するのであろうか。それは「人間」であってもいいし「太郎」であってもいいし「赤」、「善良」等の性質を表わす語であってもいい。形式的にAの内容を規定することはここでは不可能である。そして「太郎」とか「バラ」という言葉は言葉として固定されているにも拘らず、太郎は変化し生長して行きバラもまた花咲きしぼんで土と化する。概念の方はAならばAであり、Aが非Aであることは出来ない。しかし事物は変化生成するが故にAは非Aであると言わねばならなくなる。

元来対応出来ないものを対応させたのである。従ってこの間の不一致を一致させる(命題と事実との一致をモデルとして)為には二つの途しか残されていない。固定的であり不動不変の概念に対応するものとして生成変化する事物の世界の背後に不動不変のイデヤや実体を想定し、これが真に存在するものであり我々の概念はこれを反映するとか、これに基礎をもっているとか考えることであり、他は論理の諸原理を否定して、変化生成する現実の事物の世界と同じく我々の概念の世界に形式論理学の諸原理を破る一つの変化の論理を仮定することである。

対応することが既に無意味な疑似問題である概念と事物(命題と事実又は事態でなくて)を一致させんが為に、一方に於いては概念の固定した影を事物の世界の背後に投射してこれを実在の世界とし、今度は逆に、我々の概念の世界はこの世界に象って形成されたものとする疑似存在論が創られ、他方に於いて変化する事物の世界をそのまま概念の世界に反映させ、論理的思考をば概念の発展とみて、概念の発展の中に同一律、矛盾律を破る新な論理を想定しこれこそまさに客観的実在を正しく反映している、と考える疑似論理学が形成される。>

 対応するのは概念と事物ではなく、命題と事実(事態)である。このような言語と認識の見方に対する根本的な立場の移行によって、沢田允茂は、疑似存在論(パルメニデス――プラトン)と疑似論理学(ヘラクレイトス――ヘーゲル)を克服する方向を指示しているといえるだろう。

 九鬼は、ヘーゲル弁証法にあるのは矛盾ではなく反対である、また、アンチテーゼではなくヘテロテーゼであると、主張している。(「講義 偶然性」)「アンチとヘテロとパラ」参照
 ヘーゲルは「現実の立場」に立っているのである。九鬼周造の「偶然性」は、ヘーゲル弁証法と相性がよいのである。

 九鬼周造の偶然性はヘテロの立場で設定されている。しかし、ヘテロの立場は堕落した形の形式論理学が基礎になっている。そこでは、同一律も偶然性も束縛されているのである。解放されなければならない。偶然性はパラの立場で問題にする必要があるといえるだろう。パラの立場は『現代論理学入門』の立場である。


テーゼとパラテーゼ

2006-04-10 | 九鬼周造

 わたしは、複合の二つのテーゼとして、テーゼ thesis とパラテーゼ parathesis を考えている。パラテーゼ parathesis のパラ para は、パラレル parallel(平行・並行)のパラ para である。パラ paraに、「 傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているもの」という意味を込めているのである。

 「傍」の意味をもつ接頭語を、英語の辞書で探していて、by- にするか、para- するかで迷ったが、para- を選択したのである。

 昨日、「アンチとヘテロとパラ」を投稿した後、『「いき」の構造』のなかに、次のような指摘があるのを知り、うれしくなった。

 幾何学的図形としては、平行線ほど二元性を善く表わしているものはない

 テーゼ thesis とパラテーゼ parathesis は、二元性を保存しているのである。


アンチとヘテロとパラ

2006-04-09 | 九鬼周造

 ヘテロテーゼという表現があるのを知ったのは、木岡伸夫「テキストとしての偶然性」(『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房 )だった。そこに、次のように出ていたのである。

 甲に対する非甲は、甲でないすべてのものという無規定的な概念であるが、思惟のうちにしか存在しない。現実には、非甲は甲の否定ではなく乙という反対のものに帰着する。甲に対する乙は、したがってAntithesis(反定立)ではなくHeterothesis(他立)である。

彼が提起するのは「ヘテロ」の存在、つまり同一者に対する「他者」、もしくは「差異」の存在である。すでに見たように、「ヘテロ」とは定立に対する他立である。他立は定立と矛盾せず、したがって定立を否定しない。差異を主張することは、同一性を否定するものではない。否定するのは、同一律が絶対であるという見方、それのみである。九鬼が拠って立とうとするのは、まさしくこうした「ヘテロ」の立場である。 

 わたしはヘーゲルに対置した新しい弁証法の理論を、正反合ではなく、複合と考えている。「正・反」・合ではなく、「複」・合と考えているのである。

 テーゼとアンチテーゼに対置する表現を探していたのだが、テーゼとヘテロテーゼは、その候補になるのではないかと思えたのである。

 九鬼周造全集第11巻を確かめてみて、わたしの予想は見当違いであることがわかった。九鬼周造は次のように述べていたからである。

いったい、先にも言ったように矛盾を生む否定はThesisに対してのみ規定されているだけで全く無規定のものである。Hegel の否定は bestimmte Negation であるから実は Negation ではなくて Limitation である。Thesis に対して Antithesis を立てたのではなくて、実は Heterothesis を立てたのである。即ちそこにあるのは実は矛盾ではなくて反対であるのである。(「講義 偶然性」)

 ヘーゲルの否定は規定的否定だから、否定( Negation )ではなく制限( Limitation )だといっている。ここで、制限とは、存在性と否定性とが統一されたものと理解しておけばよいと思われるが、九鬼は、ヘーゲル弁証法にあるのは、矛盾ではなく反対である、また、アンチテーゼではなくヘテロテーゼであると、主張していたのである。

 へテロテーゼという考えを知り、そこにわたしの考えを基礎づけようと思ったのだが、これは、幻想にすぎなかった。ようするに、ヘテロテーゼはわたしの弁証法ではなく、ヘーゲルの弁証法を特徴づけているのである。

 あらためて、「論理的なものの三側面」の定式を読み直せば、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」には「反対の諸規定への移行」とあり、九鬼が指摘するように、ヘーゲルの場合、アンチテーゼではなく、へテロテーゼであると考えられる。

 ヘーゲル弁証法の正反合は、フィヒテの自我の三段階に対応させて名付けられている。フィヒテの場合は、自我に対する非我だから、テーゼに対してアンチテーゼである。しかし、ヘーゲルの正反合は、じっさいには、テーゼに対してヘテロテーゼであり、正・「反」・合ではなく、正・「他」・合だったといえよう。

 しかし、ヘーゲルは、相関関係(上と下、右と左など)、いいかえれば反対の関係において、直接に矛盾が現われると考えているから、矛盾と反対が混同される理由はあったといえるだろう。

 関係の諸規定においては矛盾は直接に現われる。上と下、右と左、父と子、その他無限に多くのきわめて卑俗な実例は、すべて自己の中に矛盾を蔵している。上とは下にあらざるものである。上という規定は、ただ下でないということにのみ存在する。そして前者は後者が存在する限りにおいてのみ存在する。また逆に、ひとつの規定の中にはその対立も含まれている。(『大論理学』)

 『ウィキペディア(Wikipedia)』の弁証法の「ヘーゲルの弁証法」の項には、ヘテロテーゼということばは書かれていないが、アンチとヘテロの並存として三段階が要約されている。

 ヘーゲルの弁証法は、ヘーゲル自らがそのように分類したわけでは決してないものの、しばしば以下の3つの段階に分けて説明される。 ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する命題(アンチテーゼ=反)、もしくは、それを否定する反対の命題、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。

 このあと、「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す」と続き、わたしの弁証法とはまったく異なるが、第二段階に矛盾する命題と反対の命題を位置づけていて、単純な正反合より、含みのある図式が提出してあるように思える。

 ふりだしにもどった。アンチでもなくへテロでもない、異なった接頭語を探さなければならない。

 複合論の二つのテーゼの関係は、一方から、矛盾や否定によって出現するものではなく、「独立なる二元」である。複合される二つのテーゼは、論理的な関係以前のものである。それはアンチでもなければ、ヘテロでもないのである。

 わたしは複合の二つのテーゼとして、次のようなものを想定している。

   1 ケプラーの惑星の法則とガリレイの落下の法則
   2 エールステッドの法則とファラデーの法則
   3 スピノザの規定論とカントの二律背反

 1 は、ニュートン力学として統一されたものである。2 は、マックスウェルの電磁波の方程式として統一されたものである。3 は、ヘーゲルの「論理的なものの三側面」として統一されたものである。

 例えば、ケプラーの惑星の法則は、ガリレイの落下の法則と矛盾するものでもなければ、反対の関係に立つものでもない。それは、はじめから論理的な関係に立っているものではなく、疎遠な関係にある二つのテーゼ(「論理的なもの」)なのである。ニュートンの頭の中で結び合わされることによって、はじめて論理的な「対当」が検討されていくテーゼなのである。矛盾、反対というような単一な関係ではなく、二つのテーゼのさまざまな側面に対して、さまざまな論理的な対当が現われてくるのである。

 わたしは、『もうひとつのパスカルの原理』(文芸社)のなかで、複素過程論を提起した。それは複合論の原型となっているものである。
 わたしは複素過程論を、「即非の論理」に対置して、「即傍の論理」と特徴づけた。

 すなわち、

     A is non A ,  therefore it is called A.

     A is by A' ,  therefore it is called A.

を対置した。 non  を by で置き換え、 by に、「そばに」・「~によって」の意味を込めたのである。A は非Aであるから A ではなく、A は A' の傍らにあるから A なのである、という考えである。複合論は、この A と A' の関係を取りこむ必要がある。

  傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているもの

 パラ para は、さまざまな意味を持つ接頭語である。しかし、基本的な意味は、parallel(平行・並行) に代表されるように、

   beside(傍らに)、 near(近くに)、 alongside(並んで)

にあると思われる。そして、その特殊な並び方として、

 beyond(超えた)、abnormal(異常な)、 subsidiary(補助的)、resembling(似ている)

などの意味が派生していると思われる。例えば、paranormal (超常的な)、paradox (パラドックス・逆説)、parameter (パラメータ・媒介変数)、paraphrase (パラフレーズ・言いかえる)、parasol (日傘)である。

 わたしは、複合の二つのテーゼとして、テーゼ thesis とパラテーゼ parathesis を考えたい。パラ para に、

  傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているもの

という意味を込めるのである。

 ケプラーの惑星の法則とガリレイの落下の法則、エールステッドの法則とファラデーの法則、スピノザの規定論とカントの二律背反は、それぞれ、テーゼ thesis とパラテーゼ parathesis である。

 アンチは矛盾、ヘテロは反対という論理的な関係を背景にしている。これに対して、パラには、そのような背景はない。パラは論理的な関係以前の関係である。この関係を対掌と考えよう。掌とは、てのひらである。

 対掌とは、右手と左手との関係である。実物と鏡像の関係にあるが、現実には、重なり合わないものである。傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているものの象徴として、右手と左手を考えるのである。

 アンチとへテロとパラの関係をまとめておこう。

  アンチ  anti     矛盾  「反」立 
  ヘテロ  hetero   反対  「他」立 
  パラ    para    対掌  「並」立 

 新しい弁証法は、選択されたテーゼ thesis とパラテーゼ parathesis から、はじまるのである。  


逆向きの近接

2006-03-04 | 九鬼周造

 九鬼周造は、偶然性と不可能性の近接を主張している。これは様相性の第三の体系が成立する要に位置する考えである。

 九鬼は、この考え方をカントの範疇表と関連づけている。補完する意図だったと思う。たしかに、カントの範疇表に偶然性と不可能性の近接を読み込むことはできる。しかし、この近接の仕方は、九鬼が様相性の第三の体系で主張する近接とは逆ではないかと思われる。

 九鬼は次のように述べている。

 偶然と不可能との近接はカントも看取していたと考えてもよいかも知れぬ。カントは範疇表に関してどの場合にも第三の範疇はつねに第一の範疇と第二の範疇との綜合であることを指摘して、その一例に「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」(カント『純粋理性批判』)と言っている。然るに必然性の矛盾対当は偶然性であり、可能性の矛盾対当は不可能性であるから、この場合にもカントの主張を適用すれば「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」と言えるわけである。いずれにしても、偶然性が可能性に反対しつつ、限りなく不可能性に近づくことは注視すべき点である。(『偶然性の問題』)

 「いずれにしても」の前後に、違和感があるのである。

 「偶然性が可能性に反対しつつ、限りなく不可能性に近づくこと」が注視すべき点ならば、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」ではなく、「不可能性は偶然性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」と言わなければならないのではないだろうか。
 
 また、たんに偶然と不可能との近接だけを主張するのなら、「いずれにしても」以下は、いらないのではないだろうか。

 これが、わたしの疑問である。「偶然性→不可能性」の方向と「不可能性→偶然性」の方向に引き裂かれるのである。立ち入ってみよう。

 カントは、範疇表の「様相」(様態)において、

   第一の範疇として、 可能性 ― 不可能性
   第二の範疇として、 存在   ― 非存在、
   第三の範疇として、 必然性 ― 偶然性

を挙げているから、たしかに、偶然性と不可能性についてカントの主張を適用すると、九鬼周造の推測のとおりである。すなわち、「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」に対応して、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」と言える。両方とも、「第三の範疇」は「第一の範疇」と「第二の範疇」との「綜合」になっている。

 九鬼は「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」という表現に、綜合だけでなく、必然性と可能性の近接を見たと思われる。そして、それに対応させて、偶然性と不可能性の近接を見たのである。

 「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」という表現は、「可能性→必然性」という方向と対応するだろう。他方、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」という表現は、「不可能性→偶然性」という方向と対応するだろう。これは、「不可能性が偶然性に近づいていく」という意味になる。

 カントの範疇表の中で考えるかぎり、偶然性と不可能性の近接は、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」となり、様相性の第三の体系の近接の仕方(「不可能性は偶然性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」)とは逆になるのである。

 九鬼はカントの範疇表を様相性の第一の体系に位置づけている。第一の体系の「対」(1 現実、非現実 2 可能、不可能 3 必然、偶然 )は、矛盾対当である。他方、第三の体系の「対」(1 現実、非現実 2 必然、可能 3 不可能、偶然)は、大小対当である。第一の体系と第三の体系は、構造が異なっている。
 
 第一の体系から、そのまま第三の体系の偶然性と不可能性の近接関係が導かれることはありえない。しかし、第一の体系と第三の体系の一部は、重なっているのである。

 カントの「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」という表現に「必然性と可能性の近接」が見られたとき、偶然にも、カントの範疇表で、第一の範疇の「可能性」と第三の範疇の「必然性」が、大小対当の関係として妥当していたのである。「必然性と可能性の近接」と対応して、「偶然性と不可能性の近接」が指摘される。

 必然性と可能性は大小関係にある。第一の範疇の「可能性」は「小」で、「必然性」が「大」である。しかし、それぞれの矛盾対当である「不可能性」と「偶然性」は、大小関係にはあるが、「大」と「小」の関係は、逆転する。すなわち、「不可能性」は「大」で、「偶然性」は「小」である。

 カントの範疇表でいえば、第一範疇の「可能性」と「不可能性」の対は、両方とも「小」ではなく、それぞれ「小」と「大」である。これに対して、第三の範疇の「必然性」と「偶然性」の対は両方とも「大」ではなく、それぞれ「大」と「小」である。

 「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」と「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」は、両方とも、第一の範疇から第三の範疇の方向を示している。しかし、「必然性は可能性そのものによって与えられた存在にほかならない」は、「小」から「大」への対応である。これに対して、「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」は、「大」から「小」への対応である。

 「必然性と可能性の近接」は、様相性の第三の体系での「必然性と可能性の近接」と同じ向きである。しかし、「偶然性と不可能性の近接」は、反対の向きになるのである。

 カントの範疇表から、様相性の第三の体系での「偶然性と必然性」の関係は、出てこないのである。

 九鬼周造は、逆向きの近接に気づいていたと思う。それは、「いずれにしても」という移行に、表れていると思う。カントの主張を適用した後、「いずれにしても」と書き下ろすあいだに、なにかとまどった気配が感じられるのである。

 九鬼は、偶然性と不可能性の近接(先の引用文)を確認した後、「様相性の巴図」に見合う「様相性の第三の体系」を提出していく。「様相性の巴図」に見合うとは、「可能性→必然性」という方向と「偶然性→不可能性」という方向とが対応しているという意味である。  

      様相性の巴図

 九鬼周造がカントに看取した「偶然性と不可能性」(「偶然性は不可能性そのものによって与えられた存在(非存在)にほかならない」)は、「過渡的な近接」と見ることができると思う。

   弁証法と様相性


双子の微笑

2006-01-29 | 九鬼周造

 九鬼周造は、『偶然性の問題』の中で、「双子の微笑」という比喩を紹介している。

ポール・ヴァレリーは一つの語と他の語とのあいだに存する「双子の微笑」ということを言っているが、語と語との間の音韻上の一致を、双子相互間の偶然的関係に比較しているのである。

 九鬼は押韻との関連で、偶然性の象徴としてみている。音と音との偶然の出会いである。

偶然性を音と音との目くばせ、言葉と言葉との行きずりとして詩の形式の中へ取り入れることは、生の鼓動を詩に象徴化することを意味している。

 たいへん美しい。「音と音との目くばせ」、「言葉と言葉との行きずり」。

 「双子」に、「よく似た二つの顔」が重なる。

 よく似た二つの顔は、一つ一つのときには別に人を笑わせないが、二つ並ぶと、似ているというので人を笑わせる。(パスカル『パンセ』133)

 これは、わたしの考察の出発点だった。いまは複合論(弁証法の新しい理論)の象徴である。「よく似た二つの顔」を、これまでわたしは類似性から見て、偶然性という立場では考えてこなかったように思う。偶然性からも見ることができるのだ。

 「双子の微笑」を複合論の象徴として借りようと思う。

 双子。例えば、ケプラーの惑星の法則とガリレイの落下の法則、エールステッドの法則とファラデーの法則、スピノザの規定論とカントの二律背反。

 ケプラーとガリレイの目くばせ、エールステッドとファラデーの行きずり、スピノザとカントの微笑。


二元結合

2006-01-07 | 九鬼周造

  ケストラーの bisociation は、「単一の論理領界内での定型的な思考(いわば単一平面での思考)と、つねに二平面以上で働く創造的な精神活動とを明確に区別するため」に、ケストラーが、アソシエーション( association )に、二をあらわす接頭語バイ  bi  を導入して、創造活動の核心を表現したことばである。

 わたしは、これまで、 bisociation  を、『ホロン革命』( 田中三彦・吉岡佳子訳 工作舎 1983年 )にしたがって、「バイソシエーション」としてきた。

 カタカナの表示で不都合は感じなかったが、しかし、英語の bisociation  と関連づけて、バイソシエーションを考えていたと思う。

 昨年(2005年)、『創造活動の理論』( 大久保直幹・松本俊・中山未喜訳 ラティス社 1968年 絶版 )を見る機会があった。この本の存在は知っていたが、これまで縁がなかったのである。そこでは、 bisociation を、「二元結合」と翻訳してあった。

 「バイソシエーション」ではなく、「二元結合」。感じるものがあった。

 「二元結合」の「二元」に、「独立なる二元の邂逅」(九鬼周造『偶然性の問題』)の「二元」が重なったのである。

 ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握する試みを、わたしはバイソシエーションを創造活動の理論としてだけでなく弁証法の理論として見直すという表現で、説明している。

 「二元結合」は、「複合」と相性がいいし、「対立物」の違いを説明するのに、都合がいいように思える。

 ヘーゲル弁証法における「対立物」は、「相関関係」に基づいている。これに対して、わたしの提起する弁証法では、「対立物」は、「独立なる二元」である。このように簡潔に説明できるように思える。わたしは「元」として「論理的なもの」を想定しているのである。

 「二元結合」の「結合」のほうは、「偶然性の内面化」(九鬼周造)の「内面化」に対応しているだろう。すると、「弁証法」もまた、「偶然性の内面化」と密接な関連があることになる。