ヘテロテーゼという表現があるのを知ったのは、木岡伸夫「テキストとしての偶然性」(『九鬼周造の世界』ミネルヴァ書房 )だった。そこに、次のように出ていたのである。
甲に対する非甲は、甲でないすべてのものという無規定的な概念であるが、思惟のうちにしか存在しない。現実には、非甲は甲の否定ではなく乙という反対のものに帰着する。甲に対する乙は、したがってAntithesis(反定立)ではなくHeterothesis(他立)である。
彼が提起するのは「ヘテロ」の存在、つまり同一者に対する「他者」、もしくは「差異」の存在である。すでに見たように、「ヘテロ」とは定立に対する他立である。他立は定立と矛盾せず、したがって定立を否定しない。差異を主張することは、同一性を否定するものではない。否定するのは、同一律が絶対であるという見方、それのみである。九鬼が拠って立とうとするのは、まさしくこうした「ヘテロ」の立場である。
わたしはヘーゲルに対置した新しい弁証法の理論を、正反合ではなく、複合と考えている。「正・反」・合ではなく、「複」・合と考えているのである。
テーゼとアンチテーゼに対置する表現を探していたのだが、テーゼとヘテロテーゼは、その候補になるのではないかと思えたのである。
九鬼周造全集第11巻を確かめてみて、わたしの予想は見当違いであることがわかった。九鬼周造は次のように述べていたからである。
いったい、先にも言ったように矛盾を生む否定はThesisに対してのみ規定されているだけで全く無規定のものである。Hegel の否定は bestimmte Negation であるから実は Negation ではなくて Limitation である。Thesis に対して Antithesis を立てたのではなくて、実は Heterothesis を立てたのである。即ちそこにあるのは実は矛盾ではなくて反対であるのである。(「講義 偶然性」)
ヘーゲルの否定は規定的否定だから、否定( Negation )ではなく制限( Limitation )だといっている。ここで、制限とは、存在性と否定性とが統一されたものと理解しておけばよいと思われるが、九鬼は、ヘーゲル弁証法にあるのは、矛盾ではなく反対である、また、アンチテーゼではなくヘテロテーゼであると、主張していたのである。
へテロテーゼという考えを知り、そこにわたしの考えを基礎づけようと思ったのだが、これは、幻想にすぎなかった。ようするに、ヘテロテーゼはわたしの弁証法ではなく、ヘーゲルの弁証法を特徴づけているのである。
あらためて、「論理的なものの三側面」の定式を読み直せば、「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」には「反対の諸規定への移行」とあり、九鬼が指摘するように、ヘーゲルの場合、アンチテーゼではなく、へテロテーゼであると考えられる。
ヘーゲル弁証法の正反合は、フィヒテの自我の三段階に対応させて名付けられている。フィヒテの場合は、自我に対する非我だから、テーゼに対してアンチテーゼである。しかし、ヘーゲルの正反合は、じっさいには、テーゼに対してヘテロテーゼであり、正・「反」・合ではなく、正・「他」・合だったといえよう。
しかし、ヘーゲルは、相関関係(上と下、右と左など)、いいかえれば反対の関係において、直接に矛盾が現われると考えているから、矛盾と反対が混同される理由はあったといえるだろう。
関係の諸規定においては矛盾は直接に現われる。上と下、右と左、父と子、その他無限に多くのきわめて卑俗な実例は、すべて自己の中に矛盾を蔵している。上とは下にあらざるものである。上という規定は、ただ下でないということにのみ存在する。そして前者は後者が存在する限りにおいてのみ存在する。また逆に、ひとつの規定の中にはその対立も含まれている。(『大論理学』)
『ウィキペディア(Wikipedia)』の弁証法の「ヘーゲルの弁証法」の項には、ヘテロテーゼということばは書かれていないが、アンチとヘテロの並存として三段階が要約されている。
ヘーゲルの弁証法は、ヘーゲル自らがそのように分類したわけでは決してないものの、しばしば以下の3つの段階に分けて説明される。 ある命題(テーゼ=正)と、それと矛盾する命題(アンチテーゼ=反)、もしくは、それを否定する反対の命題、そして、それらを本質的に統合した命題(ジンテーゼ=合)の3つである。
このあと、「全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す」と続き、わたしの弁証法とはまったく異なるが、第二段階に矛盾する命題と反対の命題を位置づけていて、単純な正反合より、含みのある図式が提出してあるように思える。
ふりだしにもどった。アンチでもなくへテロでもない、異なった接頭語を探さなければならない。
複合論の二つのテーゼの関係は、一方から、矛盾や否定によって出現するものではなく、「独立なる二元」である。複合される二つのテーゼは、論理的な関係以前のものである。それはアンチでもなければ、ヘテロでもないのである。
わたしは複合の二つのテーゼとして、次のようなものを想定している。
1 ケプラーの惑星の法則とガリレイの落下の法則
2 エールステッドの法則とファラデーの法則
3 スピノザの規定論とカントの二律背反
1 は、ニュートン力学として統一されたものである。2 は、マックスウェルの電磁波の方程式として統一されたものである。3 は、ヘーゲルの「論理的なものの三側面」として統一されたものである。
例えば、ケプラーの惑星の法則は、ガリレイの落下の法則と矛盾するものでもなければ、反対の関係に立つものでもない。それは、はじめから論理的な関係に立っているものではなく、疎遠な関係にある二つのテーゼ(「論理的なもの」)なのである。ニュートンの頭の中で結び合わされることによって、はじめて論理的な「対当」が検討されていくテーゼなのである。矛盾、反対というような単一な関係ではなく、二つのテーゼのさまざまな側面に対して、さまざまな論理的な対当が現われてくるのである。
わたしは、『もうひとつのパスカルの原理』(文芸社)のなかで、複素過程論を提起した。それは複合論の原型となっているものである。
わたしは複素過程論を、「即非の論理」に対置して、「即傍の論理」と特徴づけた。
すなわち、
A is non A , therefore it is called A.
に
A is by A' , therefore it is called A.
を対置した。 non を by で置き換え、 by に、「そばに」・「~によって」の意味を込めたのである。A は非Aであるから A ではなく、A は A' の傍らにあるから A なのである、という考えである。複合論は、この A と A' の関係を取りこむ必要がある。
傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているもの
パラ para は、さまざまな意味を持つ接頭語である。しかし、基本的な意味は、parallel(平行・並行) に代表されるように、
beside(傍らに)、 near(近くに)、 alongside(並んで)
にあると思われる。そして、その特殊な並び方として、
beyond(超えた)、abnormal(異常な)、 subsidiary(補助的)、resembling(似ている)
などの意味が派生していると思われる。例えば、paranormal (超常的な)、paradox (パラドックス・逆説)、parameter (パラメータ・媒介変数)、paraphrase (パラフレーズ・言いかえる)、parasol (日傘)である。
わたしは、複合の二つのテーゼとして、テーゼ thesis とパラテーゼ parathesis を考えたい。パラ para に、
傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているもの
という意味を込めるのである。
ケプラーの惑星の法則とガリレイの落下の法則、エールステッドの法則とファラデーの法則、スピノザの規定論とカントの二律背反は、それぞれ、テーゼ thesis とパラテーゼ parathesis である。
アンチは矛盾、ヘテロは反対という論理的な関係を背景にしている。これに対して、パラには、そのような背景はない。パラは論理的な関係以前の関係である。この関係を対掌と考えよう。掌とは、てのひらである。
対掌とは、右手と左手との関係である。実物と鏡像の関係にあるが、現実には、重なり合わないものである。傍らに、並立していて、よく似ているが、違っていて、対立しているものの象徴として、右手と左手を考えるのである。
アンチとへテロとパラの関係をまとめておこう。
アンチ anti 矛盾 「反」立
ヘテロ hetero 反対 「他」立
パラ para 対掌 「並」立
新しい弁証法は、選択されたテーゼ thesis とパラテーゼ parathesis から、はじまるのである。