対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

海王星と冥王星と

2006-08-27 | 周期律

 海王星が、太陽から最も遠い惑星に戻った。冥王星が太陽系の惑星から除外されたからである。海王星と冥王星は、1970年代と結びつく。

 学生時代、武谷三段階論を方法にして、周期律の形成過程をまとめてみようと思った。メンデレーエフの周期表は、周期律の形成過程において実体論的段階にあり、ニュートン力学の形成過程におけるケプラーの三法則と同じ段階に位置する。これが、直観だった。

 エンゲルスは『自然弁証法』のなかで、メンデレーエフのエカアルミニウムの予言とル・ベリエの海王星の軌道の予測を対照していた。エンゲルスは、両者を同等の業績と評価していたのである。

 この対照に、疑問をもった。なぜなら、海王星の発見は、ニュートン力学の形成過程において、本質論的段階にあると位置づけられているのに対して、わたしの考えではメンデレーエフは実体論的段階にあったからである。エカアルミニウムがガリウムとして実現したことは、海王星の発見と対応するのではなく、ガリレイによって木星の衛星が望遠鏡の中に認められたことに対応すると思われたからである。

 周期律の本質論的段階を特徴づける元素、いいかえれば、天王星の軌道の乱れから未知の惑星の軌道を計算することに対応する元素は、エカ元素ではなく、違う元素でなければならなかったのである。

 はじめ(1970年代前半)は、このように考えていただけである。1970年代の後半になって、『化学の原典』シリーズ、『科学的発見のアナトミア』、『周期系の歴史』などを読んで、周期律の形成過程を、具体的に展開しようと考えた。

 『科学的発見のアナトミア』(ケドロフ著・大竹三郎訳 法政大学出版局)のなかに、次のような指摘をみつけ、問題が再燃したのである。

 はじめての人造元素、93番と94番は、ネプツニウム、プルトニウムと命名された〔1940年、マクミランとアベルソンが合成した〕。この名は、とくに、惑星の名にちなんでつけられた。太陽系における惑星は、天王星(ウラヌス)についで、海王星(ネプチューン)が発見され、さらにその遠くに冥王星(プルトー)が見つけられた。これと同じく周期系においても序列番号がウランのあとにつづく元素としてネプツニウムとプルトニウムが合成されたのである。

 海王星の発見と対応するのは、ガリウム(エカ元素)ではなく、ネプツニウムとプルトニウム(超ウラン元素)である。このように対応させれば、周期律の形成過程とニュートン力学の形成過程は正確に対応するものと考えたのである。

 1980年に「周期律の形成について」をいちおう完成させた。それから約10年後に「もうひとつのパスカルの原理」をまとめるとき、わたしは1970年代を振り返って、次のように述べている。

 一つの問題はその問題にみあう答えが見つかれば終わるものである。もしも見つからなかったら、バシュラールのことばを借りていえば「思考にとっての休息はない」のである。提出されたその瞬間に終わってしまう問題もあれば、長期間、一年、十年、百年の単位で答えが見つからない問題もあるだろう。私が自分の問題にひとまず終止符を打てそうに思えたのは、もちろん答えを見つけたと思ったときである。

 周期律の形成過程を武谷三段階論を方法として展開するという問題意識はエンゲルスの『自然弁証法』のなかの一節がきっかけになったのである。そこでエンゲルスはエカ・アルミニウム(ガリウムのこと)の発見を海王星の発見と対比していたのだが、その対比に私はギャップを感じたのである。問題意織が急激に自分のなかで明確になっていくときの驚きと喜び。私はそのときの感動を自分に納得できるような形で仕上げたかったのである。

 私はニュートン力学の形成史を伴奏にしながら周期律の形成史の旋律を奏でるつもりだったのだから、もっと早く周期表におけるウラン・ネプチニウム・プルトニウム( Uranium - Neptunium - Plutonium )の並びに気づいてもよかったはずだ。しかし、じっさいには長い間このことに気づかずにいた。ウランは1789年に発見されていて、メンデレーエフは一番重い元素として自分の周期表の「限界」に位置づけていた元素であった。ネプチニウム、プルトニウムは最初の超ウラン元素として二十世紀になって人工的に合成されたものだ。これらの元素の名前はギリシア神話の神々に由来するが、これらの神々は太陽系の惑星にも姿を現わしているのだ。すなわち、天王星・海王星・冥王星( Uranus - Neptune - Pluto ) がそれである。

 この事実は地を這う考察に対する天からの贈物のように思えた。いったい、エンゲルスがエカ・アルミニウムの発見と海王星の発見を対比したことは何だったのだろう。武谷が海王星の発見をニュートン力学の形成史の本質論的段階を特徴づけるものと指摘したのは何だったのだろうか。そして、私が周期律の形成史の本質論的段階を特徴づける元素としてネプツニウムやプルトニウムを指摘するのは何なのだろう。不思議な気持になってしまう。ネプツニウムはマクミランの命名であり、プルトニウムはシーボーグの命名であるが、周期律の形成過程をニュートン力学の形成史を内在化して展開するという問題意識は、これら人類の認識史の韻を踏む命名をとらえて完全な形で表現できたように思えた。それはもちろんひとつのレトリックにすぎないのだが、そのレトリックのなかに周期律の形成過程の「論理」と「歴史」が正確に保存され、私の考察の出発にみあう答えだったのである。

 天王星・海王星・冥王星( Uranus - Neptune - Pluto ) と、ウラン・ネプチニウム・プルトニウム( Uranium - Neptunium - Plutonium )の発見者と年代を確認しておこう。

 天王星は、ウィリアム・ハーシェルによって、1781年に発見されている。しかし、ウラノスという名は、かれの命名ではなく、ヨハン・ボーデの命名ということである。
 また、ウランは、マルティン・ハインリヒ・クラプロートによって、1789年に発見されている。ウランの命名は、天王星にちなんでいて、クラブロートがつけている。天王星( Uranus )の発見とウラン( Uranium )の発見の間は8年である。

 海王星は、ガレによって、1846年に発見されている。ネプツニウムは、マクミランによって、1940年に発見され、命名されている。海王星( Neptunium )とネプチニウム( Neptunium )の間は約100年である。

 冥王星は、クライド・トンボーによって、1930年に発見されている。プルトニウムは、シーボーグによって、1940年に発見され、命名されている。冥王星( Pluto )とプルトニウム( Plutonium )の間は10年である。

 このようにみてくると、マクミランの発想が、太陽系と元素系の対応を中継したといえるのではないかと思う。

 ニュートン力学と周期律の本質論的段階を特徴づけるのが、100年を隔てた海王星( Neptune )とネプチニウム( Neptunium )の発見というのは、たいへん美しいと思われる。

 ガリレイ、ケプラー、ニュートンの時代には、太陽系の惑星の数は、6個だった。18世紀、19世紀、20世紀と、一世紀ごとに、ひとつずつ惑星の数を増やしてきた。

 今回、冥王星が惑星ではなくなることによって、19世紀と同じ太陽系の惑星の数は8個になった。また、最も遠い惑星は海王星にもどった。

 ところで、海王星の公転周期は164年である。あと4年、2010年に、海王星は、発見された場所にもどってくることになる。ル・ベリエが予測し、ガレが望遠鏡を向けたやぎ座の近くに。

  「周期律の形成について」 

  「ニュートン力学の形成と弁証法」
 


追悼・黒田寛一

2006-08-16 | ノート

 しばらく前に、岐阜県図書館の開架にある『弁証法の系譜』は、未来社の本から、こぶし文庫の本に替わった。

  こぶし文庫の『弁証法の系譜』は、学生時代を思い出させてくれていた。きっかけになったひとつは、上山春平らといっしょに写っている「今西錦司」の写真。かれはわたしが岐阜大学に入学したとき(1970年)の学長だったのである。もうひとつは、「こぶし」。これは、黒田寛一を連想させた。わたしはかれの本を何冊か読んでいるのである。黒田を読むようになったのは、1970年という時代と学生寮(凛真寮)という場所がおおいに関係していただろう。

 『弁証法の系譜』について再考しようと思っていた。そんななか、黒田寛一の死去のニュースを目にした。かれは6月下旬に埼玉県内の病院で死んでいたというのである。

 黒田寛一の病死の報道に接し、学生時代の記憶をたどってみていて、わたしの弁証法に対する関心は、武谷三男本人(『弁証法の諸問題』)ではなく、黒田寛一経由(『ヘーゲルとマルクス』)であったと気づいた。黒田哲学のひとつの側面として武谷三男(三段階論と技術論)は位置づけられている。わたしはこの側面に関心を限定していったように思う。

 わたしは、現在、弁証法の新しい理論として複合論を提起している。この原型になっているのは複素過程論である。そして、複素過程論の出発点として、わたしは黒田の認識論を位置づけているのである。(『もうひとつのパスカルの原理』参照)

 黒田の論理学に対する問題提起(『宇野経済学方法論批判』)を、吉本隆明の表出論(『言語にとって美とはなにか』)で解こうと試みていた。もちろん学生時代はただ混沌としていただけである。思考は空転していた。黒田の問題提起が、ケストラーのバイソシエーションと関連してきて、はじめて具体的に捉えることができるようになったと思う。それは1980年代の後半のことである。

 黒田寛一は、認識の主体的な内面構造の二つの契機として「対象認識と価値判断」を想定している。わたしにはこの二契機は主体的なものとは思えなかった。これを別の契機に変換しなければならないと考えた。結論をいえば、「対象認識と価値判断」を、認識の「指示表出と自己表出」に変換すればよいのではないかと考えたのである。

 認識に自己表出と指示表出という二側面を想定することによって、認識の場所的構造として黒田が考えていた他の側面、「下向と上向」や「科学=哲学」という契機が活きてくると考えたのである。

 複素過程論は弁証法を意識して定式化したのではなかった。創造活動の理論として考えていたのである。複素過程論が、弁証法の原型として利用できると考えるようになったのは、1995年に、許萬元の『弁証法の理論』を読んでからのことである。

 『もうひとつのパスカルの原理』を文芸社から出版したとき(2000年)、こぶし書房気付で、黒田寛一に送った。返事はあるはずもなかったが、わたしなりにくぎりをつけたかったのである。

 学生時代に見ていた弁証法は、いわば突き上げる「こぶし」だった。いま、わたしは弁証法を、ゆっくりと時間をかけて、ひらいてむすぶことができる「両手」に変換しようとしているのである。

天地(あめつち)は
逆旅なるかも
鳥も人もいづこよりか来て
いづこにか去る
             湯川秀樹

        
  『もうひとつのパスカルの原理』
  「弁証法試論」第2章 認識の表出とバイソシエーション
  「追悼・許萬元」


動詞の位置

2006-08-02 | まちがい発見

 「接続詞と自己表出」を投稿したあと、『中学生のための社会科』(市井文学)をみていて、驚いた。

 この本のなかに、品詞の分類表がのっている。自己表出をタテ軸に、指示表出をヨコ軸にとって、品詞を分類したものである。『言語にとって美とはなにか』の図と同じものだと思い込んでいたが、よく見ると、違っているのである。小さな違いはいくつかあるが、決定的な違いは、動詞の位置である。

         品詞の分類(『中学生のための社会科』)

 動詞の自己表出の度合いが、助詞や助動詞より大きいとは思えない。同じことだが、動詞の指示表出の度合いが助詞や助動詞より小さいとは考えられない。動詞は、名詞と形容詞の間に位置づけるのが、妥当なのではないだろうか。じっさい、『言語にとって美とはなにか』では、そのような位置づけになっている。

         品詞の分類(『言語にとって美とはなにか』)

 指示表出と自己表出は、時枝誠記でいえば詞と辞、三浦つとむでいえば客体的表現と主体的表現にそれぞれ対応している。辞の品詞(助詞、助動詞、感動詞)も、主体的表現の品詞(助詞、助動詞、感動詞、応答詞、接続詞)も、動詞とは結びつかないのである。
 
 いったい、これ、は、どうし、た、こと、か。
 
 わたしの理解では、次の図のようになるのである。

         品詞の分類(『中学生のための社会科』改訂版)

 吉本隆明の考えが変わったのだろうか。ありえないと思われる。誤植なのだろうか。こちらも、ありえないと思われる。それならば、どのような経緯で、このような品詞の配置は公になったのだろうか。

 謎のような品詞の配置。

 

  「自己表出と指示表出」 

  「表出論の形成と複合論」 

  「接続詞と自己表出」