・・・去年、随分と枝を切り落とした庭の桜の木の花が咲きだした・・・お天気・・・自転車で高速道路が通っている山の中腹の国道を走ってきたが、「天気清朗なれど風、強し」だった・・・「転記(テンキ)清朗(セイロウ)なれど、名実(なみ)、崇史(たかし)」・・・
古代中国王朝・・・王朝名の転換・・・?・・・「王調名」の転換・・・
ーー↓↑ーー
秦(シン)(前221~前206)・・・なんで、「はた」?
なんで、「太秦(うずまさ)」?
名は
政(セイ)(前259~前210)
姓は
嬴(エイ)
また姓は
趙(ショウ)
秦王政
秦の始皇帝
在位は
前247~前210
秦の
荘襄王(子楚)の子
母は趙姫
実父は
呂不韋との説・・・「呂の不韋」・・・韋=ウェイ=倭
↓↑ 倭=わ・やまと・ワ
ヰ・ウェイ(中国南方音)
ゥオー(中国北方音)
倭=イ(人)+委(禾女)
医(たくみ・イ)は退きの女?
・・・韋(ウェイ)=そむく・なめしがわ(鞣革)
相い背くなり、舛に従ひ、囗を聲とす、
獸皮の韋、
以て束ねて枉戻(オウレイ)し
枉戻=ねじって戻す
枉=木(十八)+王
まがる・まげる
いたずらに・オウ
相ひ韋背す可し、
故に借りて以て皮韋と為す、
凡そ韋の屬は皆な韋に従ふ
↓↑ 「呂不韋」=呂は不韋(そむかず)
呂はナメシガワではない
呂=せぼね(背骨)・長い
音楽の調子(リズム)
雅楽では陰の調子
𦟝骨(セキコツ)
象形は、
昔、太嶽は
禹の心呂(シンリョ)の
臣為 (た)り、
故に呂矦に封ぜられ
凡そ呂の屬は皆な呂に従ふ
(説文解字)
↓↑ 呂尚=周建国の功臣・太公望
周の文王に見出され、
武王の代に殷討伐で活躍
師尚父と尊称
斉に封ぜられた始祖
六韜三略の著者、軍師
呂=青銅器などを作る材質の
銅塊の形
卜文・金文の字形は、「吕」
上下を重ねる線がない
↓↑ 吕=銅塊の形
幼少時、
趙に
父の
荘襄王と共に人質
荘襄王の・・・荘を襄王・・・襄=高い・のぼる・高所にあがる
払う・払いのける・のぞく
とりのぞく・あがる・あげる
もちあげる
変える・変わる・移り変わる
三年(前247)に
秦王として即位
呂不韋に政治を専断されたが
成人すると彼を斥けて親政
将軍の
王翦・・・・・・・・・「翦=セン・矢ばね
端を切りそろえたやばね
きる・端をそろえてきる
らを用いて、
韓(カン)
趙(チョウ)
魏(ギ)
楚(ソ)
燕(エン)
斉(サイ)=斎(いつき)
・・・「カンチョウギソエンサイ=巻帖疑素宛歳」?・・・
を次々と滅ぼし、
中国を統一
始皇帝を名乗り、
朕と自称し、
天下を
三十六郡に分けて統治
蒙恬に・・・・「恬=心+舌=やすい・やすらか・やすんずる
しずか・テン
平然としている・平気でいる
起伏がなく落ち着いている
外のものに心を動かされず落ち着いている」
匈奴を討たせ、
オルドスを攻略
万里の長城
阿房宮
など建設、土木工事
焚書坑儒などの思想統制
度量衡を統一
東方巡狩中、
沙丘の
平台で病没
↓↑
胡亥(?~前207) ・・・「胡の亥」?・・・ナゼ、「胡」か?
始皇帝は「胡人」の一族だった?
秦の二世皇帝
在位
前209~前207
始皇帝(嬴政)の末子
始皇帝の死後、
宦官の
趙高と
丞相の
李斯によって
擁立
酷刑厳罰
趙高に政治を専断
関東に乱が起き、
劉邦の軍が関中に迫ると、
趙高によって
望夷の離宮に移され、
脅迫されて自殺
↓↑
子嬰(?~前206) ・・・「子の嬰=みどりご=嬰児」?
秦王
在位
前206
始皇帝の孫
宦官の趙高が、
二世皇帝を殺害した後、擁立
皇帝を称さず秦王を称した
宦官の
韓談と謀って・・・・韓の談?
趙高を殺し、
国力の回復を図ったが力及ばず、
沛公・・・・・・・・沛=水(氵)+市(亠巾)
一面に水草の広がった沼地
劉邦に降伏
項羽に殺害された
↓↑
前漢
↓↑
後漢(東漢・25~220)
「光武」中興期
「明帝・章帝・和帝」期
「安帝・順帝」期
「桓帝・霊帝」期
「献帝」期
↓↑
匈奴・・・・・・匈奴=キョウド=郷土・強度・強弩・京戸
↓↑ 匈=勹+凶(凵乂)・・・凶≠区→乂=品
↓↑ 奴=女(くノ一)+又
-光武帝(劉秀)・・・光=コウ=稿(わら文章の下書き)
↓↑ ↓↑
草藁(ソウコウ)の浄書
草藁=草稿・文章の下書き・原稿の下書き
草ワラとは異なる、違う
草鞋(わらじ・鞋・沓・足袋・羇)
とも異なる、違う・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
藁(わら)・・・草藁=ソウコウ=草稿
文章の下書き・原稿の下書き
わら=藁=稲・麦などの茎を干したもの
藁が出る=隠していた欠点が現れる
ぼろ(襤褸)が出る
↓↑
たわら=田藁→田原・太原・多原・鴫原・汰葉等
田原藩は渡邉崋山
俵(たわら)=イ(人)+表=ナマコ(海鼠)の別名
ナマコ(海鼠)綱の棘皮 (きょくひ) 動物の総称、すべて海産
体は円筒形で前後に細長く、
前端に口と触手、後端に肛門があり、
皮膚の中に小さな骨片が散在
食用になるのは
「マナマコ」など約30種類・・・?
↓↑
「真名眞子(摩子・馬子・孫)」?
↓↑
中国語でナマコは
「海参(ハイシェン)」・・・滋養強壮薬、皮膚病薬
シカクナマコ科
種類が多く、マナマコは生食のほか、
海参 (いりこ)
海鼠腸 (このわた)
に加工される
↓↑
海鼠(なまこ)の季語は冬
「尾頭のこころもとなきナマコ(海鼠)哉(去来)」
↓↑
製錬した鉄・銅・鉛などを鋳型に流し込んだものを云う
「海鼠板・海鼠壁・海鼠絞り」などの略
↓↑
歴史的仮名遣いを「たわら」とする説・・・?
↓↑ ↓↑ ↓↑
「古事記・上巻-六・邇邇芸命」・・・「海鼠」
↓↑
邇邇藝命(ニニギのミコト)=邇(辶爾)邇(辶爾)
藝(藝=ゲイ・藝術
or
芸=ウン・芸亭院←石上宅嗣)
命(みこと=見事)
↓↑ ↓↑ ↓↑
諸魚皆「仕奉」白之中、「海鼠」不白
「あめのうづめ(天宇受女)=猿女君」は
小刀で
「ナマコ=海鼠=生の子(こ・ね=鼠=ネズミ・鼡)」
の口を裂いた
↓↑
爾天照大御神・高木神之命以、
詔
太子
正勝吾勝勝速日天忍穗耳命
「今平訖
葦原中國之白。
故、
隨・・・・・・・・隨=ズイ=隋=随=髄=瑞
↓↑ 隋王朝(581~617年)
七歳の静帝(位580-581)を廃し
北周の外戚
楊堅(文帝)が建国
元々は「随」と記したが
宋代以降「隋」の字が用いられた?
随所・随処
「隋書(魏徴・長孫無忌)」は
「隋書俀国伝」の記録で
「倭国伝」ではない
「邪馬台国」も
↓↑ 都於「邪靡堆」、
則、魏志所謂「邪馬臺」者也・・・と記録?・・・
ナゼ、既に過去の歴史書で自明なのに、
知っているクセニ、「記録漢字」を変えて
則(すなわち)として
「ことわり書き」にしたんだか・・・?
編纂に顔師古、孔穎達らが参加し
636年(貞観十年)
魏徴によって
本紀五巻、列伝五十巻が完成
第三代
高宗に代替わりした後の
656年(顕慶元年)
長孫無忌によって・・・「長の孫の無忌(己心)」
↓↑ 志三十巻が完成、編入
↓↑ 「ずいずいずっころばし」の唄は
↓↑ 「お茶壺道中」についての唄だと言われているが
↓↑ 不純異性交遊を表す戯歌・・・じゃないョ、ナッ
「胡麻味噌」がナゼ
「ずい・ズイ・づい・ヅイ」なんだか?
↓↑ 「俵(たわら)の鼠(ねずみ)が
↓↑ 米食ってチュウ」もネッ・・・
↓↑ 改竄の意味デショ?・・・「海鼠・海参」
言
依賜降坐而知者。」
爾其太子
正勝吾勝勝速日天忍穗耳命
答白
「僕者將降裝束之間、子生出、
名
天邇岐志國邇岐志(自邇至志以音)
天津・・・・・・・・天津=隋王朝宮殿内の「橋の名」
日高日子番能邇邇藝命。
此子
應降也。」
此御子者、
御合
高木神之女
萬幡-豐-秋津-師-比賣-命、
生子、
天火明命、
次
日子番能邇邇藝命
二柱也。
是以
隨・・・・・・・隋王朝
白之、
科詔
日子番能邇邇藝命
「此
豐葦原
水穗國者、汝將知國、
言依賜。故、
隨・・・・・・隋王朝
命
以可
天降。」・・・天降=あまくだり=海降・・・隋王朝海軍
↓↑
・・・
故爾詔
天宇受賣命
「此立御前所仕奉、
猨田毘古大神者、
專所顯申之汝、送奉。
亦其神御名者、
汝負仕奉。」
是以、
猨女君・・・ナゼ、「宇受女」=「猨女」なのか?は
「宇須目・宇津目」=「渦目」は鳴門海峡・淡路島
等、
負其
猨田毘古之男神名而、
女呼
猨女君
之事是也。
↓↑
故其
猨田毘古神、
坐-阿邪訶・・・「あさか・あざか・アジャカ」→朝霞・朝賀
朝賀=律令制で元日の朝
天皇が
大極殿において
皇太子以下の文武百官の
拝賀を受ける行事=朝拝
大化二(646)年
孝徳天皇から始った
「訶=しかる・せめる・カ」・・・摩訶不思議
(此三字以音)、
地名時、爲漁而、
於
比良夫貝(自比至夫以音)・・・・阿倍比羅夫←斉明天皇
其手
見咋合(喰い合い)・・・咋=口+乍=かむ・くう・くらう
↓↑ たちまち・サク・サ
乍=ながら・サ
動作、作用が並行する
たちまち・にわかに
ながら・~にもかかわらず
また、~しつつ
たちまち(忽ち)・すぐに
ある物事、
行為が急に起こるようす
瞬(またた)く間に
アッと、云う間に
↓↑ にわかに(俄かに)
而、
沈溺海鹽。・・・・沈溺=水に溺れること・夢中になること
海鹽=カイエン=海塩・海淵
海援隊=なるほど、海猿(ウミザル)
故其
沈居底
之時名、
謂
底度久御魂(度久二字以音)、・・・底度久=テイトク=提督
其海水之
都夫多都・・・・・・・・都夫多都=つぶたつ=粒立つ
塗付絶(断・建)
あわたつ=泡立(粟立)
時名、
謂
都夫多都御魂(自都下四字以音)、
其
阿和佐久・・・阿和佐久=あわさく=阿波策・安房作・安和索
時名、
謂
阿和佐久御魂。(自阿至久以音。)
↓↑
於是送
猨田毘古神而還到、・・・猿田=エンデン=塩田・円田
乃(すなわち)
悉(つくす・ことごとく・つぶさに・つまびらかに
シツ・シチ)
悉皆(シッカイ)・悉皆成仏(シッカイジョウブツ)
悉皆屋(シッカイや)・悉達・悉多(シッタ)
悉達多(シッタルタ)・悉曇(シッタン)
追
聚(あつめる・集める・蒐・萃・輯・儹=聚集、積蓄)
鰭廣物
鰭狹物
以問言
「汝者
天神御子仕奉耶。」
之時、
諸魚皆
「仕奉。」
白之中、
「海鼠」不白。・・・・ナマコはイワズ
爾
天宇受賣命、
謂
海鼠
云
「此口乎、不答之口。」
而、
以
紐小刀・・・・八塩折=やしおおり=哉詞尾御理
ヤ+「栞・枝折・詩織・詞織」?
の
紐小刀・・・縫い針状のメス・匕首(あいくち)?
拆其口、・・・「拆=ひらく・さく・やぶる・タク」
故、於今
海鼠(なまこ・カイソ→改組・改素?)
口拆也。・・・「拆=ひらく・さく・やぶる・タク」
是以、
御世
嶋之速贄
獻之時、
給
猨女君
等也。
↓↑ ↓↑ ↓↑
「猨田毘古神」は
「日本書紀・第一の一書」で
天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神
↓↑ 邇邇芸 命(古事記)
↓↑
帝=神を祀る祭卓
燔祭(ハンサイ)のテーブル
生贄の動物を祭壇上で焼き、
神にささげた・神への宴・祝宴
↓↑
午餐(ゴサン)・聖餐(セイサン)
粗餐(ソサン)・朝餐(チョウサン)
晩餐(バンサン)
の卓
捧げものを置く台
その下部に締足を加えた
祭卓の大きいモノ
その下に祝詞を収める器である
サイをおいたのが啻(啇)
それを執行しうる者は嫡
その系譜に適(かな)うのは適
それを攴(う)つものは敵?
↓↑
神を祀るときの祭卓の形
示は一脚の小さな祭卓の形
帝はその下部を交脚とし、
その交叉部を締めて安定したもの
で、その祭卓の形
上天の嫡祖を帝といい、
父祖は示といった。(字通)
↓↑ ↓↑
↓↑ 帝=テイ=綴(つづり)
-明 帝(劉荘)・・・明=メイ=名・命・姪・銘・芽衣
-章 帝(劉烜)・・・章=ショウ=証・称・抄
-和 帝(劉肇)・・・和=ワ=倭・話・娃・環・窪・我
劉の肇(はじめ)
-殤 帝(劉隆)・・・殤=ショウ=歹+傷
↓↑ 傷ついた歹(しかばね)
若死・二〇歳前の死亡
夭殤(ヨウショウ)
夭折(ヨウセツ)
弔う者のない霊
「16才から19才までに死するを長殤
12才から15才までに死するを中殤
8才から11才までに死するを下殤
7才以下で死ぬのを無服の殤
生後3ヶ月未満で死するは
殤とは言わない(儀礼・喪服伝)」
-安 帝(劉祐)・・・安=アン=案・按・行
-少 帝(劉懿)・・・少=ショウ=尚
-順 帝(劉保)・・・順=ジュン=准・尋・淳・潤・隼
-冲 帝(劉炳)・・・冲=チュウ=沖・注・註・抽
-質 帝(劉纘)・・・質=シツ
-桓 帝(劉志)・・・桓=コウ
-霊 帝(劉宏)・・・霊=レイ
-廃 帝(劉弁)・・・廃=ハイ
-献 帝(劉協)・・・献=ケン
↓↑
西暦88年・・・八拾八?・・・
「章帝」が
32歳で崩御
10歳の
劉肇(りゅうけい)が・・・肇=はじめ・チョウ
崇神天皇=第十代天皇
肇国=御間城入彦五十瓊殖天皇
(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
御「肇」國天皇?
(はつくにしらすすめらみこと)
御真木入日子印恵命
(みまきいりひこいにえ)
和帝として即位
↓↑
和帝(わてい)
後漢の
第四代皇帝
諱は劉肇・・・・肇(はつ)
章帝の子(四男)
生母は梁貴人
平原懐王
劉勝、殤帝の父
幼少時は継母の
竇太后と・・・竇=壁に穴をあけて出入りする所
くぐり戸・あな
穀物を蓄えて出し入れするあな
穴蔵(あなぐら)=穴倉
竇憲ら
竇一族の専横を許していた
成長するに及んで
実権を自らの元に取り戻そうとした
↓↑
和帝(わてい)・・・「ワ・和・倭・話」+「テイ・綴」
後漢の
劉肇
在位は88年~105年
↓↑
和帝
南朝の
斉(斎・齋・齊)の・・・・斉・斎=いつき=齊・齋
蕭宝融
在位は501年~502年
↓↑
和帝 (南朝斉)
南朝斉(南斉)の
第七代
最後の皇帝
明帝の八男
488年(永明六年)
西昌侯
蕭鸞
と
劉恵端
のあいだの子
494年(建武元年)
隨郡王に封じられた・・・隨の郡の王?
496年(建武3年)
冠軍将軍
領石頭戍軍事・・・・・・領石、頭戍?
となった
↓↑
499年(永元元年)
南康王に改封され、
西中郎将
荊州刺史に任じられて
江陵に駐屯
宝融の同母兄の
東昏侯
蕭宝巻が帝位にあったが、
重臣を殺害して放恣のかぎりを尽くし、
人心は離反
↓↑
500年(永元二年)十一月
荊州長史の
蕭穎冑は
蕭宝融の同族である
雍州刺史の
蕭衍を盟主とする
東昏侯打倒の起兵を計画
蕭宝融に迫って
蕭衍を左将軍に、
蕭穎冑を右将軍に任じ
12月、
宣徳太后の令により、
蕭宝融は
宣城王・相国・荊州牧を称した
↓↑
501年(永元三年)二月
蕭衍が
襄陽を出立して、東征
同年(中興元年)三月
蕭宝融は
江陵で帝位につく
蕭穎冑を尚書令に、
晋安王
蕭宝義を司空
廬陵王
蕭宝源を車騎将軍
建安王・・・・・・・・・建の安の王
蕭宝寅を徐州刺史・・・・蕭宝寅?
夏侯詳を中領軍
蕭偉を雍州刺史に任じた
兄の東昏侯は
建康で皇帝を称していたが、
涪陵王
に貶めた。
12月
東昏侯が殺害され
蕭衍率いる東征軍が
建康城を平定
蕭衍は皇太后の令により
大司馬・揚州刺史の任についた
↓↑
502年(中興二年)一月
和帝は
蕭衍を
相国・総百揆・揚州牧に任じ、
梁公に封じた
三月
蕭衍を梁王に進めた。
蕭衍による
簒奪の準備はここに整い
同年(天監元年)四月
和帝による
禅譲の詔が
蕭衍のもとに届けられ、
蕭衍が皇帝に即位し、
梁が建国
和帝は
武帝
蕭衍により
巴陵王に封じられ、
姑熟に宮を構えたが、殺害された
ーーーーー
・・・???・・・「和帝は武帝に殺害された」・・・これって、「天智天皇=中大兄皇子」が「天武天皇=大海人皇子」に殺害された、と云う「示唆」かも・・・