「十代目金原亭馬生 噺と酒と江戸の粋」(石井徹也編著)読了。
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金原亭馬生は、けっこう好きな噺家。
亡くなったのが昭和57年だから、かれこれ28年前か。
生で見たことはないのだが、
ラジオから録音したり(50近く持っている)、
10枚組の「名演集」を買ったりして聞いている。
あまり押してこない芸風だが、
他の人が言わない強烈な、しかし言われてみると違和感のないギャグが
時々入ってくるあたりも好み。
今回たまたまこの本を見つけ、買ってみた。
だいたい、馬生ってそこそこ有名だったはずなのだが、
早死であり、
本人にせよ周囲にせよ、芸談などを出す、というタイプでもなかったのか、
人となりや考え方、逸話などを知る機会は少なかったように思う。
せいぜい川戸貞吉の「対談落語芸談」で触れられていたくらいではないかな。
そんな訳で初めて目にする話も多く、興味深かった。
内容は、馬生に関する思い出話と、
馬生が亡くなった日に、池袋演芸場の高座で馬生について語った談志にまつわる話とに
大別できるだろう。
前者は勿論だが、後者もけっこう目新しい話が多い。
その時客席にいた喬太郎の話とか。
この本を読んで、馬生について考えること、感じることがいろいろあったのだが、
特に談志の言っている「「何」になろうと思っていたのかな?」というのが
一つの観点になるのでは、と感じた。
対談の中でも語られていたが、そのあたり、馬生は「前近代」の人だと思う。
「何になろうとするか」という発想自体、
自らのあり方を自ら作る、という、
操作的と言おうか自己を客体化すると言おうか、近代的な思考だろう。
そして馬生の前近代性は、その落語にも現われてくる。
ロジカルに「伝えよう」とするのではなく、
「自ずと伝わるだろう」という感覚で落語をやっているように思う。
もしかすると、「伝わる」ことも意識せずに表現しているのかも知れない。
このあたり、
他の娯楽と伍して(バカ相手にも)アピールしていく必要がある、と考える人からすると、
浮世離れした発想だろう。
ただ個人的には、本来落語はこうあるべきだと思う。
そもそも「お約束」のある敷居の高い芸。
本当に何も知らない人には、
和服を着たおっさんが独りで右向いて左向いて何やってんだ、と言われかねない。
そんな人をウケさせる、という点ではハンデがある。
間口は狭く、奥行きがある、という芸だと感じる。
間口を広げるのは無論大切だが、
奥行きを深くするのも必要ではないか。
今、馬生のように、目に見えないような奥行きを感じさせてくれる人は
少ないように思う。
# 「狭い」ことを以って「奥行きがある」と勘違いしているバカは、
(特に江戸では)大勢いるようだが。
それは単に縮小したものなのに。
読み終えて、そんなことを感じた。
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金原亭馬生は、けっこう好きな噺家。
亡くなったのが昭和57年だから、かれこれ28年前か。
生で見たことはないのだが、
ラジオから録音したり(50近く持っている)、
10枚組の「名演集」を買ったりして聞いている。
あまり押してこない芸風だが、
他の人が言わない強烈な、しかし言われてみると違和感のないギャグが
時々入ってくるあたりも好み。
今回たまたまこの本を見つけ、買ってみた。
だいたい、馬生ってそこそこ有名だったはずなのだが、
早死であり、
本人にせよ周囲にせよ、芸談などを出す、というタイプでもなかったのか、
人となりや考え方、逸話などを知る機会は少なかったように思う。
せいぜい川戸貞吉の「対談落語芸談」で触れられていたくらいではないかな。
そんな訳で初めて目にする話も多く、興味深かった。
内容は、馬生に関する思い出話と、
馬生が亡くなった日に、池袋演芸場の高座で馬生について語った談志にまつわる話とに
大別できるだろう。
前者は勿論だが、後者もけっこう目新しい話が多い。
その時客席にいた喬太郎の話とか。
この本を読んで、馬生について考えること、感じることがいろいろあったのだが、
特に談志の言っている「「何」になろうと思っていたのかな?」というのが
一つの観点になるのでは、と感じた。
対談の中でも語られていたが、そのあたり、馬生は「前近代」の人だと思う。
「何になろうとするか」という発想自体、
自らのあり方を自ら作る、という、
操作的と言おうか自己を客体化すると言おうか、近代的な思考だろう。
そして馬生の前近代性は、その落語にも現われてくる。
ロジカルに「伝えよう」とするのではなく、
「自ずと伝わるだろう」という感覚で落語をやっているように思う。
もしかすると、「伝わる」ことも意識せずに表現しているのかも知れない。
このあたり、
他の娯楽と伍して(バカ相手にも)アピールしていく必要がある、と考える人からすると、
浮世離れした発想だろう。
ただ個人的には、本来落語はこうあるべきだと思う。
そもそも「お約束」のある敷居の高い芸。
本当に何も知らない人には、
和服を着たおっさんが独りで右向いて左向いて何やってんだ、と言われかねない。
そんな人をウケさせる、という点ではハンデがある。
間口は狭く、奥行きがある、という芸だと感じる。
間口を広げるのは無論大切だが、
奥行きを深くするのも必要ではないか。
今、馬生のように、目に見えないような奥行きを感じさせてくれる人は
少ないように思う。
# 「狭い」ことを以って「奥行きがある」と勘違いしているバカは、
(特に江戸では)大勢いるようだが。
それは単に縮小したものなのに。
読み終えて、そんなことを感じた。