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父は憶えている/タクアン・アリム・クバト監督
舞台はキルギスらしい。23年前にロシヤに出稼ぎに行ったまま行方が分からなくなっていた父親は、言葉も記憶も失った状態で帰ってきた。息子も家族も大いに戸惑うものの、なんとか記憶が戻らないものか、見守りながら受け入れていく。しかしながら妻である女性は、夫が死んだとばかり思っていたこともあり、まちの有力者でもあるヤクザ者のところに、再婚して嫁いでいた。キルギスの村では、イスラムの教えにのっとって、そのような序列社会が出来上がっているようだ。戻ってきた男は、坦々と町にあるごみを集め、息子のトラックに載せていく。そういう仕事をやらなくてはならないとでも、思いこんでいるようだ。昔の友人や知り合いなども訪ねてきて、なんとか記憶が戻らないか話しかけたりするのだったが……。
まあ、それだけの物語りと言えばそうだが、長い間不在だった男が戻ったことで、村に不協和音が響き渡るようになる、ということかもしれない。男の存在は、誰にも知れ渡る事件ではあるが、帰ってきた男は、無言のまま坦々とごみ集めなどの仕事をするばかりである。息子は混乱して嘆き悲しむが、父の記憶などとても戻りそうには見えない。嫁ぎ先の母のこころも乱れて、厳しい戒律のある村の中で、いったいどうしたらいいというのだろうか。
おそらく、あちらの社会では、夫のいる女性はよそに行く訳にはいかない厳しいおきてのようなものがあるようだ。もちろん別の社会にもそれはあるだろうが、もっと違うレベルでの何かだ。さらに死んだと思われたからこそ、別の男のところに行ったのだが、そうなると、その男と離縁することは、またもや厳しい戒律の中で、問題が大きなことであるようだ。メンツのようなものもあるし、家的な問題もあろう。映画では、そういう葛藤を描く目的があるようなのだ。
しかしながら僕らの社会では、そういうことは、本当に大きな問題ではない。まあ、こういう状態は困ったことであろうが、帰ってきたものは仕方がない。戦後死んだと思われた兵隊の未亡人は、何年かしたら再婚した。その後帰ってきたとしても、多くの妻は戻ってはこなかった。新しい家族ができていたからである。日本の場合はそうなるが、キルギスではどうなのだろう。そんなことも思うのだった。