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ドライビング・バニー/ゲイソン・サヴァット監督
事情があって子供と離れて暮らさざるを得ない貧困の女性がいる。なんとか妹夫婦の家に居候させてもらっているが、妹夫婦も迷惑がっている様子(夫が暴君である)。昼間には、信号や渋滞で止まっている車の窓ふきをして、小遣い稼ぎのような仕事をしている。ニュージーランド映画のようだが、あちらでは定職に就けない人々が、このような乞食めいた仕事をしているという、社会的な背景があるということのようだ。定職に就けない人々は、それぞれに事情がある。外国人労働者だったり、精神を含む病気だったり、ということなのだろう。
後に明かされていくが、この女性は異常に短気で、致し方ない事情があったとはいえ、夫殺しで服役し、その為に子供の保護的な観点で、勝手に実の子供と会えない処置がとられている、ということのようだ。さらにそのような生活保護的な立場にありながら、住宅はあてがわれない中途半端な制度に喘いでいる。ここのあたりは日本とまるで事情が違うので、わかりにくい事とは思うが、あちらの社会では子供の生存が第一に考えられており、いくら親だとはいえ、子供を育てるにふさわしくない人間だと公的機関が認めないのであれば、親権は簡単に奪われる。虐待をしないように、社会が子供を厳重に守るという倫理規範があるのだ。それに物語を観ていて正直に感じることだが、この女性は気の毒なところがあるにせよ、いつも嘘をついているし、ひどく狂暴なのは確かだし、正義感もあるがそれはやはり暴走してうまく行ってないし、やり方はひどく汚いし、人を怒らせることばかりしているし、助けてくれる人まで罵倒する。どうしようもないクソ人間なのである。だからどんどん自分が招いたミスで窮地を招き入れ、さらに人を欺いてばかりいるのでしっぺ返しを食らうのである。
ただし、妹婿の連れ子を性的に虐待している現場が許せなかったというのは、確かに正しい行動とは言えて、それを救い出す救世主としてのお話は、だから成立している。また人を欺く酷い所作は、西洋文化的には賢い事の現れであって、あちらの人々にはむしろ感心させられるものがあるのだと思われる。サッカーなどを見るとわかると思うが、彼らは審判を欺くプレーを素晴らしいと称賛するような、そういう賢さの価値観を持っている。日本人の僕からすると信じられないような人間的な汚らしさなのだが(少なくとも正直者を馬鹿にする行為だから)、だからこの窮地に陥った女性の立場からすると、弱い立場だからそうでもしないと自分の希望は達成されないという、いわゆる正義の行いだと言いたいのだろう。結果的には愚かだから悲しいものにはなるのだが……。
僕は繰り返し映画の感想で述べているのだが、映画的に馬鹿な人間を称賛する価値観には組しない。不幸だからやってもいいという甘えは、やはり社会的にダメなのだ。彼女はいくらでも自分の子供との関係をよくするために、生活を立て直すチャンスがあるにもかかわらず、それを怠ったうえに短絡的に人を騙しているに過ぎない。頭の使い方が変であるばかりか、まともでもないのである。妹の娘を救えないのは、自分が愚かだから信用されないだけのことである。そういう事も人を不幸にしている要因だと言えよう。
不幸がこのように連鎖するのだという教訓映画だというのであれば、それはそれで知見を広めるとはいえるのかもしれないのだが……。